休眠年金10兆円の使い道
序章
「とにかく、1日2時間! それ以上は絶対にダメ!」
リビングの扉が乱暴に閉められ、母親のきつい声が廊下に響いた。少年の影がうつむいたまま自室へと消えていく。
スマホの使用時間延長交渉は、いつものように決裂に終わった。
動画共有サイトをなんとなく眺める時間は、周囲の「普通」になじむための時間潰しに過ぎない。不貞腐れた様子でベッドに倒れ込んだ少年は、苛立ちを紛らわせるように部屋の隅の本棚へ視線を向けた。
単行本や図鑑が規則正しく並ぶ一角に、見覚えのない一冊が紛れ込んでいる。
(また親父か……)
父親は時々、何の前触れもなく新しい本をこうして買い与えてくることがあった。そして悔しいことに、父親が選んで置いていく本にこれまでハズレは一度もなかった。今回もどうせ引き込まれてしまうのだろうという敗北感を覚えながら、少年はベッドから立ち上がり、真新しいコミックスを引き抜いた。
そこに記されていたタイトルは『星を継ぐもの』。
それが、すべての始まりだった。
それから数年が過ぎ、少年は私立の中学校へと進学した。
合格圏外からのダメ元と言われながら受験させられた、偏差値60ほどのそこそこ名の通った中堅進学校だった。合格通知が届いた時、両親も塾の講師も等しく首をひねりながら驚いていた。
結人自身にも、なぜ受かったのかはよく分かっていない。
勉強に情熱を傾けたことなど一度もなく、ただテスト用紙の問いを見つめれば「たぶんこうなんだろうな」と思える答えがぼんやりと浮かび上がってきただけだった。結人の自己評価と周囲の期待値を、いつも気まぐれのように少しだけ上回ってしまう。その差異の理由を説明できる者は、誰一人としていなかった。
長い夏休みに入ったある日。リビングでは、スマホの制限時間を巡る恒例の攻防が繰り広げられていた。
「期末、全教科平均以上だったんだから、夏休みくらいは一日六時間に伸ばしてよ」
「『10位以内なら制限なし』って条件だったでしょ。あなたは23位。だから、3時間!」
交渉は決裂した。
母親の容赦ない宣告に結人が肩を落とす横で、父親は苦笑いを浮かべながらそのやり取りを眺めていた。
食卓の隅には、片付け忘れた数学の期末試験の答案用紙が放置されている。父親は何気なくそれを手にとり、そこに記された「結人」という名前の横の答案に目を留めた。
証明問題の欄には、途中の論理展開が一切書かれておらず、ただ最終的な「答え」だけがぽつんと記されている。採点結果はすべて減点対象の「△」。それでも全体の成績としては上位に食い込んでいるのだから、異質な答案だった。
「まあ、いいか……」
父親は小さく呟くと、部屋に戻ろうとする息子の背中に声をかけた。
「次はちゃんと見直ししろよ」
「……へいへい」
息子が廊下へ消えたのを確認すると、父親はスマートフォンを取り出し、オンラインストアの検索窓に目的の書籍名を入力した。
数日後の午後。
早くもその日の制限時間である3時間を使い果たすと、途端にやることがなくなった結人は、暇を持て余してリビングのソファに腰掛けた。
ふと視線をやったテレビボードに小さな違和感を覚える。ガラス扉の向こうに、見慣れない三冊の分厚いハードカバーが収められていた。
扉を開け、棚から引き出す。
『星を継ぐもの』
『ガニメデの優しい巨人』
『巨人たちの星』
表紙を開き、最初の数ページを読み進めた瞬間、頭の中でバラバラだった記憶のピースが急激に組み合わさっていった。緻密な活字が引き金となり、かつて小学生の頃に貪るように読んだあのコミックの場面や情景が、鮮烈な映像となって脳内に蘇る。
「……小説だったんだ」
やっぱり親父の仕込みか、と毒づきながらもページをめくる手は止まらない。反論する隙もなく思考を奪われてしまう。結人は悔しさを噛み締めながらも、あっさりとその重厚なテキストの海へと没頭していった。
夜遅く、仕事を終えた父親が帰宅した。
玄関からリビングに入った父親は、テレビボードの扉がわずかに開いたままになっているのを目ざとく見つける。口元を少し緩めた瞬間、自室から出てきた息子と鉢合わせした。
「親父、おかえり。で、おやすみなさい」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら就寝の挨拶をする息子に対し、父親は荷物を置いて振り返る。
「おやすみ。……で、面白かったか?」
図星を指された息子の顔が、悔しそうにわずかに歪んだ。
「ハメやがったな……」
父親は何も言わず、キッチンで注いだ麦茶のコップを、祝杯でもあげるように息子へ向けて軽く掲げてみせた。
夏休みも終わろうとしている最後の週末の夜。
静まりかえったリビングで、結人は父親に向き合い、ここ数日胸の中で温めていた疑問を口にした。
「あのさ……あの小説ってSFだよね? でも、作中の技術レベルって、今の現実と大差なくない?」
不意をつかれた父親は、一瞬目を見開き、手にしていたグラスを止めた。
「そりゃ、父さんが高校生の頃に読んだ小説だからな。時代の方がSFに追いついてきてるんだよ」
「……技術は追いついてきてるのに、世界はどんどん引き離されていってるよね?」
彼は淡々と、しかし驚くほど精密に論理を組み立てていく。
「作中に出てくるトライマグニスコープだって、機能自体は現代のMRIと大差ない。エアタクシーだって大阪万博で展示されてたくらいだ。実用化されていないのは、法規制や安全基準をクリアするためのコストが合わないからだよね。つまり、小説に登場する要素技術そのものは、すでにこの世界にも揃ってる」
彼は自分の手元に視線を落とし、言葉を重ねた。
「なのに、小説の世界ではすでに月面基地が存在し、国境を越えて人類が協調して宇宙開発を進めている。現実のこの世界は、未だに大国同士が戦争を始めて、その結果として世界不況に陥っている……何が、この決定的な違いを生んだんだろう」
中学生の口から飛び出したとは思えないほど見事に整理された考察に、父親は息を呑んだ。
息子からこんな形で問いを投げかけられたのは初めてのことだった。父親はすぐには答えず、しばらく息子の顔を凝視したあと、ゆっくりと天井を仰いだ。やがて、噛み締めるようにぽつりと漏らす。
「……知識とお金の使い方が、下手なんだろうな」
「下手って、どういう――」
結人が問い直そうとしたその瞬間、隣の寝室から鋭い声が響いた。
「あなた! 結人! 何時だと思ってるの! いい加減寝なさい!」
びくりと肩を跳ねさせた二人だったが、すぐに顔を見合わせ、声を殺して笑った。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
二人は静かに笑いを噛み殺しながら、それぞれの部屋へと戻っていった。
第一章
東京・霞が関。整然と並ぶ無機質なビル群の狭間を、サイズばかりがやけに大きいリクルートスーツに身を包んだ新入省員たちが歩いていく。
結人は、大した苦労も払わずに厚生労働省へと滑り込んでいた。
中学受験の時と同じだった。テスト用紙の問いを見つめれば「これだろうな」と思える答えがぼんやりと浮かび上がってくる。今回もただ「とりあえず受けてみるか」と公務員試験に臨んだだけだった。結果は合格。国家公務員として厚生労働省への採用が決まった時、大学のキャリアセンターも、そして結人自身すらも「なぜ受かったのか」と首をひねっていた。
本人の自己評価と周囲の期待値を、いつも気まぐれのように少しだけ上回ってしまう。その理由を説明できる者は、未だに誰一人としていなかった。
「――まあ、つまり今の日本は完全に詰んでるんだよ」
配属前の歓迎会。居酒屋の喧騒のなか、隣に座る優秀な同期官僚が熱っぽくグラスを傾けていた。有名私大の経済学部を首席で卒業したという彼は、溜め込んできた情熱と悲観を吐き出すように語っている。
「ウクライナやイランでの戦争長期化に、アメリカの政権運営の拙さが重なって、積もり積もった巨大なバブルが弾けた。米露の信用が地に落ちた結果、相対的に中国やイギリス、フランスが影響力を伸ばしてきて……。いま、やっとのことで世界経済は復調基調に転じることができた。それなのにわが日本は、あのコロナ禍の時と同じだ。世界が立ち直り始めている中、先進国で日本だけが取り残されて完全においてけぼりを食らってる。この国の経済の冷え込みは、もう構造的な死病なんだよ」
同期の熱弁に、周囲の新入省員たちも深々と頷き、暗い未来に憂い顔を浮かべていた。彼らにとって、この国を背負うという自負と絶望は表裏一体なのだろう。
だが、結人にとってそれらはどこか遠い世界の出来事のように思えた。
(……大げさだな)
世界情勢の激変も、日本の低迷も、結人からしてみれば単なる現象の結果に過ぎない。
結人は焼き鳥の串を静かに皿へ置くと、誰に聴かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「日本が、知識とお金をうまく使えていないから……」
中学生の頃、父親が部屋に置いていったあのSF小説。夏休みの終わりに父親と交わした静かな会話の記憶が、不意に脳裏をよぎっただけだった。
自身の熱弁に夢中で、また周りの同期たちも彼のつぶやきを聞き逃していた。しかし、その声は居酒屋のガヤガヤとした喧騒を縫って、たまたま同じテーブルの端に座っていた年金局総務課長の耳に届いていた。局内の予算や人事を統括するこの官僚は、「変わったことを言う新人がいるな」とほんの少し興味を惹かれた程度で、その時は特に口を挟むこともなく酒を飲んでいた。
配属を数日後に控えた、ある日の夕方。
結人は、あの歓迎会にいた総務課長から「メシでも行かんか」と声をかけられた。連れられて行ったのは、省庁街の近くにあるごく普通の居酒屋だった。
課長はビールを一口煽ると、日頃の業務の延長のような、世間話程度の軽いノリで切り出した。
「我が国の経済を先進国並みの復興ペースに近づけるためには、まあ資金が必要なわけだ。だが、不景気で税収も下振れしてて増税なんてできる状態じゃない。社会保障負担も年々増える中で、打つ手がないのが現状でね」
課長は焼き鳥をつまみながら、苦笑交じりに続けた。別に新人に解決策を求めているわけではない。歓迎会でのあの一言を思い出し、若さゆえの青臭い意見でも返ってくるかという、ほんの暇つぶしと興味本位の問いかけだった。
「――お前の知識で、うまくお金を使う方法はあるか?」
質問された結人は一瞬だけ思考を止めたが、すぐに察した。
(あの時の独り言、聞かれてたんだ……)
面倒なことになったな、と結人は思った。周囲との違いを隠し、「普通」の官僚として目立たずに生きていこうとしていた自分の計算が狂い始めている。
返答を濁してその場をやり過ごそうとしたその瞬間、結人の脳裏に入省直後に行われた全体ガイダンスの情景が浮かび上がった。人事課の職員が、退職金制度について淡々と説明していたあの場面だ。
『……退職金につきましては、給料からの積立てが確定部分と確定拠出年金部分の二階建て構造になっております。なお、確定拠出部分の初期設定は定期預金になっておりますので、運用して増やさないと実質的には減ってしまうからご注意ください……』
初期設定は、定期預金。
運用して増やさないと、減ってしまう。
バラバラだった情報のピースが、結人の頭の中で音を立てて勝手に組み合わさっていく。幼い頃から変わらない、あの「解答が浮かび上がる」感覚。結人はただ、脳内で進行する情報処理の過程を、整理するように口に出していった。
「あの……日本全体で退職金の確定拠出部分ってどれくらいあるんでしょうか?」
「さあな……正確な数字は省に戻れば出るが……20兆くらいはあるんじゃないかな? それがどうした?」
「その運用をしてない人っていませんか? 確か定期預金になるって聞いたんですが……」
課長は「ん?」とグラスを止め、呑気な表情を引き締めた。
「……正直、半分くらいの人達は、理由も分からず放ったらかしかもしれんな」
「じゃあ、その10兆円を投資市場に入れたらどうなりますか? 確か財務省の為替介入が4から5兆円規模ってニュースで聞いたような……」
「それは……一時的に株式市場の押し上げ効果が見込める」
課長は目を見開き、身を乗り出した。だが、目の前の若者は政策を提案している意識など全くなく、ただ頭の中に提示された課題の条件をパズルに乗せ換えて呟いているだけだった。
「一時的ですか……じゃあ、日本の基幹産業、例えば自動車や鉄鋼、造船、半導体なんかの大手企業をピックアップして、集中投入させたらどうでしょうか。メガバンクや証券会社と組んで。ファンドを立ち上げれば可能かと思いますが……」
「それは可能かと思うが……確定拠出年金は個人資産だ。国が『この特定ファンドに投資しろ』と強制したら、個人財産の侵害や受託者責任の問題で大バッシングを受けるぞ」
課長の鋭い指摘に対し、彼は不整合のピースを当たり前のように片付けていく。
「法律を変えて、初回加入時のデフォルト運用を口座開設時に必ず選ばせる仕組みにしたらどうでしょう。
そうですね。①定期預金、②官民合同のインデックスファンド、③アクティブファンド、みたいに。
で、法律上の『安全かつ国益に資する運用要件』をガチガチに設定して、②の要件を満たすファンドを『国内の基幹インフラへ投資する官民ファンド』だけに限定しちゃえばいいんじゃないですか。
その時に①想定利回りマイナス1%(物価上昇分を考慮)、②想定利回りマイナス5%〜プラス10%、③想定利回りマイナス10%〜プラス20%みたいな感じで数字もつけといたほうが良いかな。金融に詳しくない大部分の人は、そのまま狙いの②に集まりますよ。
せっかくメガバンクと組んだんだし手数料も半額くらいにさせれば、利回りも上乗せできるし大義名分も立つんじゃないでしょうか」
居酒屋の喧騒のなかで、課長は完全に固まっていた。
目の前の新人は熱弁を振るうでもなく、まるで詰将棋の駒を機械的に進めるように呟いているだけだ。しかし、その独白から紡ぎ出されたのは、リーガルハックによって法的批判を回避しつつ、心理的バイアスを利用して10兆円もの資金を国家の基幹産業へ法的かつ正当に誘導する完璧なスキームだった。
「……法律改正……省庁や与野党との根回しが大変だな……」
あまりのスケールに課長が呆然と漏らすと、彼は手元のグラスを見つめたまま、課長の最後の引っかかりを淡々と処理した。
「……確定拠出年金の法律には、数年ごとの見直し条項が付いてないんでしょうか?」
「……!!」
雷に打たれたような衝撃が課長を襲った。
「……よし、今すぐ数字の裏付けを取るぞ!」
勢いよく居酒屋を飛び出し、夜の霞が関を大股で歩いていた課長は、ふと立ち止まった。背後をハアハアと息を切らしながらついてくる青年に視線をやる。
「……あ」
課長はそこでようやく思い出した。目の前の男は、自分の部下ではなく配属先すら分かってない、正真正銘の「まだ何者でもない新人」であるということに。
「……すまん。舞い上がってた。今日はもう帰れ。これ、タクシー代な。領収書はいらん。釣りも取っとけ。……それと、さっきの話は配属が決まるまで誰にも話すなよ」
「はあ……お疲れ様です」
結人は言われるがままタクシーのリアシートに滑り込み、夜の霞が関をあとにした。目立たず平穏に過ごしたかった自分としては、このまま課長が熱を冷まして忘れてくれることを祈るばかりだった。
一方、省に戻った総務課長は息を切らして年金局の部屋に飛び込んだ。
「おい、例の新入省員……歓迎会で俺と同じテーブルにいたやつだ。あいつの配属先、どこか知ってるか!?」
残業していた課長の一番信頼の置ける部下である係長が、眼鏡の奥の目を丸くした。
「え? いえ、新人の配属は官房人事課の管轄ですし、まだ発表前ですが……それが何か?」
「明日朝一番で人事に確認しろ!人事課長に掛け合って、そいつをうち(年金局)に引っ張ってくるんだ!もし渋るようなら俺から局長に直談判する」
普段は課内を淡々と取り仕切る総務課長が、見せたことのない迫力でまくし立てるのに、周囲の部下たちは完全に気圧されていた。
その後、課長は政策統括官(統計・総合分析担当)の自習室へ向かい、他省庁の友人のツテを使って確保していたマクロ経済シミュレーション用AIを立ち上げた。個人投資データの遷移と市場介入による景気浮揚効果のパラメーターを黙々と打ち込み続けている。
「……なんで総務課長が、深夜に内閣府レベルの巨大経済モデル回してんだ……?」
部下たちは不気味がりながら帰宅していった。しかし課長は生返事を返すだけで、朝まで画面にかじりつき続けた。
「――なんの騒ぎだい? うん、 プロジェクト?」
翌朝。出勤してきた年金局長は、自室のドアを開けるなり待ち構えていた総務課長につかまり、眉をひそめた。
「局長、かなり有望なシナリオを組めそうです。年金局内に専用のプロジェクトチームを立ち上げたいのですが、若手を5名ほど預けてもらえませんか」
「……説明してもらえないか」
課長は昨夜、あの新人が居酒屋で淡々と語ったスキームと、深夜までかかってAIで弾き出した概算データを手渡した。
局長は資料を繰りながら、最初は半信半疑の目を向けていたが、ページをめくるにつれて顔色を変えていった。
「待て……確定拠出年金の放置資金を、法改正のデフォルト誘導で基幹産業ファンドへ流し込む……? そんなことが可能なのか?」
「法制局対策から受託者責任のクリアまで、論理は通っています。これを精密に検証したいのです。日銀や金融庁の分析チーム、金融業界からの出向者を極秘のスタディグループとして集めます。……それと、どうしても一人、引き抜きたい新人がいます。人事課長に掛け合っていますが、渋られたら局長のお力をお貸し願いたい」
局長の目が鋭くなった。提示されたアイデアのスケール感を、即座に理解したのだ。
「……いいだろう。官房長と人事課長には私から直接話す。民間モデルでの検証も含め、すぐに動け」
それから数日後。
省内の一番大きな会議室には、重苦しい緊張感が漂っていた。
課長から極秘裏に渡されたデータを元に、金融庁や日銀、全国銀行協会からの出向者・専門家で構成された「合同検討会」が開催されたのだ。
各機関の金融モデルから抽出された膨大なデータが、厚労省の基幹スパコンへとインポートされていく。正面の大型スクリーンに、日本の主要企業やインフラ企業の決算内容とリアルタイムの株価がズラリと表示された。
そこに、法改正によって市場へ流入する「総額10兆円」の年金資金が注ぎ込まれていく。
数字が動き始めた。巨大な資金の流入が株価を引き上げ、企業は溜め込んでいた資本と合わせて一気に設備投資へと踏み切る。雇用が増え、生産高が跳ね上がる。その波及効果は主要企業にとどまらず、下請けグループ企業、地域の取引先、物流業者へと血流のように行き渡っていく――。
「……試算された経済効果は、単年度で30兆円。次年度以降も7%を超える成長率を維持できるという結果が出ました」
専門家の一人が声を震わせた。会議室全体にどよめきが広がる。
そこに、上座に座っていた局長の声が静かに響いた。
「だが……放置されている10兆円すべてが我が国のファンドに集中するというのは、楽観的を通り越して非現実的だ。実際にはどれくらい集まると思う?」
総務課長が一歩前に出た。
「デフォルト選択肢(パッシブ運用)の強力な誘導効果を考慮しても、現実的な流入は7割程度……約7兆円と見るのが妥当かと」
「では、資金流入を7割と仮定してシミュレーションし直してくれ」
システム担当者が操作し、パラメーターが書き換えられる。
「……単年度での経済効果は25兆円に留まります。7割であっても25兆円以上の押し上げ効果が見込まれます!」
局長は息を呑んだ。25兆円といえば、国家予算の根幹を揺るがすほどの巨大な数字だ。
局長はふと視線を転じ、三菱UFJ銀行から出向してきている金融エンジニアに向かって問いかけた。
「君のところの民間金融AIのリスク分散モデルで、『7割流入』の条件を再シミュレーションしてもらえないか?」
「承知いたしました。モンテカルロ・シミュレーションのパラメータ設定のため、10分ほどお時間をください」
会議は一時中断となり、10分間の休憩に入った。
緊張感から解放された参加者たちが席を立つ中、総務課長は部屋の隅のデスクに目を留めた。人事課長をねじ伏せ、年金局のプロジェクトチームへ引きずり込んできた「例の新入省員」の席だ。
当の本人は席を外してトイレに行っているようだった。
課長は何気なく彼のデスクに歩み寄り、整然と置かれた資料の横に目を落とした。そこには、裏紙の端に小さなメモ書きが残されていた。
『26.2兆円+5.6%』
それだけが、彼の走り書きのような字で記されていた。
(26.2兆……? プラス5.6%……?)
スクリーンに今表示されている数字は「25兆円」だ。何のために書かれた数字なのかと課長が首をひねっていた、その時だった。
「お待たせいたしました! シミュレーション結果が出ました!」
出向エンジニアの興奮した声が、会議室全体に響きわたった。全員が一斉にスクリーンへと視線を向ける。
「民間の確率リスク分散モデルで弾き直した結果です! 経済効果は単年度で26.2兆円、次年度以降はプラス5.6%の景気押し上げ効果が見込めます!」
「おおおっ……!」
「民間の精密モデルでも同等の数字が出たぞ!」
「勝てる……これなら日本経済は蘇るぞ!」
幹部や専門家たちが総立ちになり、歓声と拍手が巻き起こった。歴史的な瞬間に立ち会っているという興奮が、会議室の空気を熱く満たしていく。
しかし――。
狂喜乱舞する大人たちの中で、総務課長だけがその場に金縛りにあったように突っ立っていた。
手元のメモを見つめる。
スパコンが何百万回もの確率計算を繰り返し、膨大な変数とノイズを処理して弾き出した数字。それを彼は、ノイズを一切削ぎ落とし、「流入資金7兆円×乗数効果」という本質的な基本式とGDPギャップを抽出し、会議の合間にたった30秒の暗算で導き出していたのだ。
(……AIの計算が終わる前に、なぜあいつはこの数字を知っていた……?)
周囲の歓声が遠のいていく。
手の中の小さなメモ用紙を見つめる課長の目は、歓喜や興奮などではなく、背筋が凍りつくような居心地の悪さを感じていた。
第二章
プロジェクトの発足から、2年が経過していた。
法改正の手続きはスムーズに進行し、メガバンクと証券会社は手分けして契約企業全社で確定拠出年金の説明会を実施した。関係省庁や与野党への根回しは裏で完璧に処理され、大手メディアの報道でも「確定拠出年金の制度見直しと運用の利便性向上」程度にしか触れられなかった。
ただ静かに、巨大な国の歯車は回り出していた。
その効果は、徐々に、しかし確実に数字となって表れた。
冷え切っていた株式市場が日を追うごとに活気を取り戻していく。自動車、鉄鋼、半導体――かつて日本を支え、そして沈みかけていた基幹産業の株価が、大企業を中心に上昇を続けていた。息を吹き返した企業は一斉に設備投資へ踏み切るようになり、日本各地で工場用地の確保と人材の争奪戦が繰り広げられるようになった。
厚生労働省の地下にある大型会議室。
この日、極秘裏に進められてきたプロジェクトの初年度成果報告会が執り行われていた。
プロジェクターの光が薄暗い室内を照らし出し、スクリーンに大きく「19.7兆円」という数値が映し出される。
「――初年度の経済効果額は、19.7兆円」
進行役の職員の声が響く。
法改正による確定拠出年金の休眠資金の誘導は、目標としていた7割を上回る成功を収めた。しかし、市場に注ぎ込まれた資金の量に対し、弾き出された経済効果はシミュレーションの試算に届いていなかった。
理由は明確だった。労働人口が、根本的に足りていなかったのだ。
構造的な少子化に加え、「失われた30年」の冷え込みが出生率に与えた傷痕はあまりにも深く、社会の働き手である20代から50代までの人口そのものが激減している。莫大な資金が投入され、需要と仕事がどれほど生まれたところで、それを現場で動かす「人」が存在しなかった。
深刻な人手不足から最低賃金は歴史的な上昇率で引き上げられ、春闘でも各企業が大幅なベースアップで即座に妥結する事態が相次いだ。
テレビや新聞は連日、この現象を好意的に報じている。世間の論調は「世界的な景気回復の波が、ついに日本にも波及し始めた」という分析で占められていた。街には久しぶりの好景気の予感が漂い、人々は明るい兆しに活気を取り戻しつつある。
会議室のマイクの前に立った総務課長が、集まったメンバーを見渡しながら静かに語りかける。
彼は今回のプロジェクトを成功させた最大の功労者として、近く「年金局長」へと特進することが内定していた。
「目標の試算額には届かなかった。……だが、君たちが停滞していたこの国の時代の流れを変えたのは間違いない。誇ってほしい。これからはこの流れを途切れさせることなく、さらに加速させるよう、それぞれの省務に邁進してもらいたい」
惜しみない拍手が会議室を満たす。
その熱狂の輪から少し離れた席で、結人は冷めた目で上司を眺めていた。
(……やっぱり届かなかったか)
思考の端で、淡々と計算を反芻する。
どれほど完璧なスキームを組み立てようとも、労働力という物理的な制約までは一度に埋められない。現実はなかなか思うようにはいかないものだな、と他人事のように思うだけだった。
プロジェクトにおける彼の立場は、決して目立つものではなかった。
発足当初こそ、配属されたばかりの新人官僚が極秘チームに抜擢されたことで、周囲からは驚きや不審の目が向けられていた。しかし、押し寄せる過酷な業務の波の中で、いつしか誰もそんな疑問を気に留めなくなっていった。
プロジェクトリーダーである総務課長も、省内や会議の場で彼を特別扱いすることは一度もなかった。結人自身もまた、自分に割り当てられたデータ処理や資料作成といった課題を、ただ機械的に、淡々とこなす日々に終始していた。
ただ、一つだけ。
総務課長の記憶に強く残っていた場面があった。ファンドの投資対象や運用の詳細を選定する過程で、彼がぽつりと「官民共同事業としての発展途上国支援事業(ODA)」を組み込むことを推してきたことだった。周囲の専門家たちが国内の基幹産業だけに目を奪われる中、その提案だけが異質さを放っていた。
報告会が終わり、夜の帳が落ちた頃。
新しく年金局長となる総務課長は、彼を夕食に誘った。
向かった先は、あの日と同じ霞が関近くのごく普通の居酒屋だった。誰一人として知らない、すべての企みが始まった出発の地。
「今度、年金局長にしてもらえるらしい」
ビールグラスを傾けながら、課長が言った。
「お前のおかげだよ」
結人は運ばれてきた焼き鳥に手を伸ばしながら、相変わらず熱の入らない口調で返す。
「そんなことはありません。僕一人の力じゃ、省内の先輩方を説得することすらできなかったでしょう。間違いなく課長の成果ですよ」
「相変わらず可愛げのないやつだな」
課長は苦笑いを浮かべ、グラスをテーブルに置いた。
「さっきも言ったろ。もっと誇れ。間違いなく、今の日本を動かしたのはお前だ」
「はあ……」
気のない返事を流す彼に、課長は少し身を乗り出し、声をひそめた。
「ところで……今度の人事で、俺の権限はかなり大きくなる。何か希望はないか?」
「は?」
「係長職に推薦してもいいし、海外留学の枠を取ってやってもいい。ある程度のワガママなら通してやるぞ」
手柄を独り占めにする気はないと言わんばかりの課長の言葉に、結人は小さく溜息をついた。
「そんなことしたら、局長の評価に最初から傷が付いちゃいますよ。『特に功績もない若手を実力以上に評価してる』って。……希望があるとしたら、もう少し仕事を減らしてもらえます?」
「……お前というやつは」
課長は呆れ果てたように肩をすくめ、注がれた酒を呑み干した。
翌朝。
新局長としての引き継ぎ資料をまとめていた課長は、デスクの上に置かれた一枚の人員要求書類に目を留めた。
外務省から回ってきた、ユニセフ(国連児童基金)への事務要員派遣の要請書だった。
厚生労働省を指名したものではなく、全省庁に向けた公募の類だ。現地での調整担当や責任者ポストならともかく、今の国連組織、それも外部組織の平の事務担当など、キャリア組で希望者が出るはずもない閑職中の閑職だった。
だが――課長の指が、その用紙の上で止まる。
(あいつは……ODAを推していたな)
提示されている勤務地を見つめる。国連本部――ニューヨーク。
「……なるほどな」
課長は静かに書類を手に取ると、ペンを走らせた。
翌日。
外務省とのすり合わせを迅速に終えた新局長は、彼を局長室に呼び出した。
広くなった室内のデスク越しに、局長は書類を示しながら語りかける。
「外務省から、ユニセフの事務担当者の派遣要請が来ている。若いうちに外の世界を見ておくのも良い経験だろう。……どうだ、行ってみないか?」
問いかけの形を取ってはいたが、断る理由がないのは明白だった。
自分は独身で、実家の両親もまだ元気だ。なんなら恋人すら存在しない。
(……まさか、そこまで調査してるわけないよな)
自分の身軽さを思い返し、結人は心の奥で小さく苦笑した。目立たず平穏に生きるつもりだったが、どうやら霞が関のドタバタからは解放されそうだ。
「分かりました。拝命します」
彼が静かにそう答えた。
デスク越しに対峙する局長の目には、明確な安堵の色が宿っていた。




