第37話 ロンダとジュリエッタ
魔倒歴1016年 エルダー王国 テレーダ高原
ここは、大陸中央部にある人間の国、エルダー王国。
この国は自然が豊かで、高原が多いことで有名だった。
魔王降誕の影響が広がる前に、魔王が人間界への侵攻を止めてしまったため、国内は平和そのもので、国民たちものんびりと生活している。
そんなエルダー王国の北東部に、テレーダ高原という風光明媚な場所があった。
森と湖があり、夏は涼しい。それでいて、冬でもあまり雪が降らないため、貴族や金持ちの別荘地としても有名だ。
その高原の一角に、飾り気のない無機質な建物が建っていた。
別荘にも、観光客相手の宿屋にも見えない。
周囲は高い塀に囲まれ、門は二カ所あるものの、どちらも普段は固く閉ざされている。
さらに言えば、そのうちの一方は、施設の裏側にある墓地に面していた。
そう、この施設は療養所なのだ。
それも、どちらかと言えば、回復の見込みがほとんどない者たちが、穏やかな最期を迎えるための場所である。
その一階、中庭に面した個室に、一人の女性がいた。
薄い金髪に紫色の瞳。肌は色白を通り越して、青白く見える。
手足は痩せ細り、頬の肉も削げ落ち、唇の色も薄かった。
彼女の名前は、ジュリエッタという。
王都の有名な大手商家の娘であり、生まれた瞬間から、将来の幸福な人生を約束されていた。
いや、約束されているはずだった。
しかし、神々は彼女に大きな試練を与えた。
生まれつき身体が弱く、すぐに体調を崩してばかりいたのだ。
両親は心配していたが、それでも成長すれば体力がつき、健康になるだろうと楽観視していた。
しかし、十六歳の誕生日に、彼女は吐血して倒れた。
両親は半狂乱になって神殿から治癒魔法を使える神官を呼んだが、病気には治癒魔術が効かなかった。
それならばと、高名な医師を呼んだところ、
「残念ながら、お嬢様は成人まで生きられないでしょう」
と、余命を宣告されてしまった。
エルダー王国では十八歳が成人であるため、残された寿命は、あと二年ということだった。
「コホッ、コホッ」
ジュリエッタが小さく咳をした。
肺を患っているため、空気の綺麗なこの療養所に入所したのだが、良くなるどころか、延命すら難しそうだった。
「あと三カ月か……」
それは、医師から生きられないと言われた十八歳の誕生日まで、残された期間だった。
枕元には、彼女の好きな本が数冊置かれている。
どれも、若い女性に人気の恋愛小説だった。
身体が弱いせいで、ほとんど家の外に出ることができず、家族旅行すらしたことがない。
それならせめてと、活字の世界で外の世界を想像し続けてきた。
白馬にまたがった王子様と出会い、お城の舞踏会でダンスを踊り、湖に浮かべた小舟の上で愛を語らう。
色とりどりの花を編み込んだ花輪を彼の頭に乗せ、そのお礼に、一輪の花を髪飾りとして挿してもらう。
そんな、現実には実現不可能な光景を夢見ていた。
「せめて死ぬなら、春がいいな」
ジュリエッタが、か細い声で呟いた。
春に死ねたら、棺に綺麗な花を敷き詰めてもらえる。
そうすれば、少しは寂しさも紛れるだろう。
ただし、今は秋である。春は冬の、さらにその先だ。
「お父様とお母様は、悲しむだろうな。でも、もう私のことを心配する必要はなくなるからね」
思い出の中の両親は、いつも何かに遠慮しているような顔をしていた。
何も言わなくても分かる。
普通の身体の子供として産んであげられなくてごめんね、と、ずっと後ろめたさを感じているのだ。
確かに、辛いことは多かった。
それでも、彼女は自分のことを不幸だとは思っていなかった。
大陸には、親のいない孤児も大勢いる。戦や魔獣に襲われ、命を落とす子供も決して少なくはない。
少なくともジュリエッタは、空腹で眠れなかった夜はないし、誰かに叩かれたことすらなかった。
それに、彼女には許嫁もいる。
「ロンダ……」
彼女は、愛する男の名前を呼んだ。
そのとき、ドアが小さくノックされた。
「どうぞ」
そう答えると、白衣を着た、ふくよかな体型の女性看護師が入ってきた。
「ジュリエッタお嬢様、お食事の時間ですよ」
彼女は、ジュリエッタの両親が雇った専属の看護師だった。
料理はもちろん、身の回りの世話まで、すべてこなしてくれている。
「今日は、砕いた木の実を混ぜて焼いたパンがありますよ」
それは、ジュリエッタの好物だった。
今は秋なので、看護師が自ら近くの森へ行き、栗やクルミを拾って調理してくれたのだ。
「わぁ、いい匂い」
「さあ、どうぞ」
そう言うと、看護師はベッドの横にサイドテーブルを置き、その上にトレイを乗せた。
木の実のパンに、色の薄いスープ、そしてサラダ。
食事はそれだけだった。
しかも、驚くほど量が少ない。
これ以上は、ジュリエッタの身体が受け付けないのだ。
無理に食べると、激しい嘔吐や下痢を起こし、さらに身体が衰弱してしまう。
「美味しい」
「それはようございました」
看護師は目を細め、嬉しそうに笑った。
「それと、旦那様と奥様、それからロンダ様からお手紙が届いておりますよ」
「えっ!それを先に言ってよ」
「何をおっしゃっているのですか。お食事の前にお渡ししたら、お嬢様は料理に手をつけずに読みふけるではありませんか」
「それは、そうだけど……」
「さあ、まずはお食事を済ませてください。全部食べたら、お手紙をお渡ししますから」
最近では、この少量の料理ですら、残すことが多くなっていた。
食事を終えると、ジュリエッタはベッドに横になりながら手紙を読んだ。
両親からの手紙には、彼女の身体を案じる言葉とともに、健康になったら南の別荘へ遊びに行こう、素敵なドレスを買ってパーティーを開こう、といったことが書かれていた。
本当に優しい両親だ。
そして、許嫁であるロンダからの手紙の封を切った。
実は、彼からの手紙が一番枚数が多い。
文字は、いかにも無骨な男らしい筆跡だった。
ロンダは、王国騎士団に入団していた。
一応貴族ではあるが、決して身分は高くない。
実は、ジュリエッタには、一時期五人もの許嫁候補がいた。
ロンダ以外の四人は、皆、大手商家や高位貴族の息子だった。
はっきり言って、彼らの親たちは、ジュリエッタ本人ではなく、彼女の両親の財力に魅力を感じていた。
大商家と縁続きになれば、何かと資金面で援助してもらえる。
それなら、娘の身体が弱くてもまったく問題はない。
いや、結婚後にさっさと死んでくれた方がありがたい、とさえ考えていたかもしれなかった。
そんな中、下級貴族の騎士であるロンダだけは違った。
彼は幼い頃、父親に連れられてジュリエッタの家の店を訪れたことがあった。
「父はこれから仕事の話をするから、お前は外で遊んでいなさい」
そう言われ、中庭に出たロンダは、そこで一人、本を読んでいたジュリエッタと出会ったのだ。
彼は騎士の息子にしては線が細く、何より性格が穏やかで優しかった。
「面白そうな本だね。僕も一緒に読んでもいいかな?」
そう言われたとき、ジュリエッタは少し怖かった。
しかし、ロンダは動物が主人公のその本を読み、楽しそうに笑ってくれた。
「ロンダ様は変わっていますね?」
「僕が?」
「はい。騎士様というより、神官様のようです」
「ハハハ。実は、よく父上にも言われるんだよ。お前は騎士らしくないって」
「ごめんなさい」
「謝らないで。僕も自分でそう思っているから。もうすぐ魔王が降誕する。そうなれば、僕たち騎士は、攻めてきた魔族や魔獣と戦って民を守らなければならない。でも、僕は多分、怖くて何もできないような気がする」
まだ幼いというのに、彼は自分が戦いに向いていないことに気づいていたようだ。
それでも、騎士の家に生まれた以上、いずれ王に忠誠を誓い、王国のために剣を振るわなければならない。
その使命だけは、痛いほど自覚していた。
この出会いをきっかけに、ロンダはその後も、よくジュリエッタのもとへ遊びに来るようになった。
彼には、幼い男の子にありがちな乱暴なところがなかった。
何より、彼が来ると娘が喜ぶため、両親も歓迎していた。
「ほら、ジュリエッタ。この本、面白いから読んでみなよ」
いかにも自分のお勧めであるかのように装っているが、若い女性向けの恋愛小説を、騎士見習いの少年がわざわざ買うはずもない。
その優しさに、ジュリエッタは自然と好意を抱くようになっていた。
悪い言い方をすれば、彼女には、ほかに好きになれる異性がいなかったとも言える。
そんなロンダに、両親はかすかな奇跡を託したのだ。
せめて最期のそのときまで、娘の希望であってほしいと。
もちろん、ロンダもそれを拒んだりはしなかった。
「僕でよろしければ、喜んで」
彼は笑顔でそう答えたのだった。
しかし、街での暮らしはジュリエッタの寿命をさらに縮める可能性があると医師に言われ、彼女はこの高原の療養所に入ることになった。
王都からここまでは、馬で移動しても三週間はかかる。
会える機会は少なくなってしまったため、せめて手紙だけでもと、ロンダは毎週欠かさず送ってくるのだった。
今のジュリエッタにとって、読書と手紙の返事を書くことだけが、数少ない娯楽になっていた。
今回の手紙には、ロンダが騎士見習いを卒業し、正式に騎士団へ配属されたことが書かれていた。
それから、普通の騎士見習いよりも、倍の期間がかかったことも。
「わぁ、凄い! ロンダが騎士様になったんだ」
彼女は自分のことのように喜んだ。
本当なら、お祝いに何かプレゼントを贈りたい。
しかし、今の彼女には何もできなかった。
「凄いなぁ、ロンダは……」
その笑顔が、少しずつ陰っていく。
そう、自分には何もない。
彼に何もしてあげられない。一緒にいて、喜びを分かち合うことすらできないのだ。
せめて少しでも早く返事を書かなければならない。
しかし、今はそれさえ億劫だった。
ふと、手元の手紙から窓の外へと視線を向ける。
そこからは中庭が見えた。
ちょうど、この部屋は大きな木の正面に位置している。
夏には青々と茂っていた葉も、今は紅葉している。そして冬になれば、その葉もすべて落ちてしまうのだろう。
おそらく、自分の命もその頃には終わっているに違いない。
「あと何回、手紙を書けるだろう。あと何回、お父様やお母様、ロンダに会えるのだろう」
自分に残された時間は、あまりにも短かった……。




