第九話 プールサイドのおとぎ話
一触即発のブラッド。
静かに闘志を燃やすコリン。
見届けたいドナ。
放心していたアリスは、目を閉じて数秒考え込んだ。片足ずつ、しっかり床が踏めていることを確認して立ち上がる。優しく白い手で取ったのは、ブラッドが作ったお守り。
「ブラッド、私の気持ちはやっぱり変わらない」
彼はやりきれない様子で、ポケットから手を出して、受け取った。
「私もブラッドをもう少し知りたかった。また二人で遊びに行ったり、魔術のことも教えてほしい。ときどきフランの話も出来たら、どんなに嬉しいかって思うよ」
ブラッドは顔を上げて、今度こそアリスの手を握ろうとした。
しかし、彼女はすでにコリンと向き合っていた。身長差が少ない分、見つめ合う二人の顔はブラッドよりも近い。
「コリンはそれでも、まだ私が好き?」
「好きだよ、アリス」
「コリンが無理しない程度でいいんだけど、友達でいてくれる?」
「ぼくはぼくでアリスを思い続ける。それでもいいなら」
「ありがとう……それが聞けただけで満足よ」
「どういうことだ?」
そう言ったブラッドは怒りを必死で抑えていた。次に殺気を放てば、アリスやドナにまで影響が及ぶ可能性がある。
「来て」
アリスが連れ出した先は、屋外にあるプールだった。鍵が開いていた。授業で使われることは滅多にないが、水が張ってある。ナツはまだだというのに、日差しが強い。太陽が年々近くなっている気がする。
「ここで待ってて」
三人はプールサイドに横一列で立たされた。飛び込み台がある。
「アリスさん、どこへ行くの?」
ドナが背中に呼びかける。
「大丈夫!」
嫌な予感がした。的中しないようにと祈るが、そういう予感は大体当たる。少し考えればわかること。体が動かない。ここに来るまでもそうだ。会話も、疑問もなく、不用意にアリスの後をついて来た。
(そうか、唇に塗った透明の……)
ブラッドは歯がゆかった。
アリスは実験室を出る前、いつも持っている文房具入れから直径2センチほどの銀色の容器を取り出し、その中の軟膏を中指で撫でつけると、唇に馴染ませていた。
(あれは魔道具だったのか。でも、魔道具は使用が厳格に管理されているはず……持ち物検査で没収されないはずが無い……)
飛び込み台に小さく人影。三人の祈りも空しく、アリスはスカートの両端をつかんで立っていた。
不思議だ。風でツインテールもスカートもはためいているのに、音がしない。
「……っ……おい、バカ、やめろ! 行くな」
ブラッドはかろうじて話すことだけ出来た。残りの二人は確認できないが、恐らく同様に動けなくなっている。
ギイ……
板がきしむ。
「うっ……ぐ……」
アリスを止めることも、顔をそらすこともできない。目を閉じてしまいたい気持ちに何とか抵抗する。
アリスが飛び降りた。
同時に、ミシッと音がした。立て続けに鳴る。木がひび割れ、小さく裂けていくような音。
自分の中で何かが壊れてしまったのだろうかと、ブラッドは焦る。
誰かの声がする。男の声だ。忍耐と覚悟の滲む唸り声は、ブラッドまで鼓舞するようだった。
「うぉおぁあああああッ!」
落水直前、コリンがアリスを受け止めた。二人は光る球体に守られ、ぷかぷかと浮かんでいた。
ブラッドもドナも、その場にへたり込む。いつから術が解けていたのだろう。
コリンはアリスをお姫様抱っこで持ち上げた。本物のナイトみたいだった。
彼女は目線をあちこちに泳がせながら、彼にぎこちなく腕を回した。
「また助けに来てくれた。重くないの?」
コリンはきょとんとして、自分たちを取り囲む球体を目線だけで見回した。再びアリスを見てほほ笑む。
「全然」
彼が歩き始めると、球体も動く。
プールサイドに戻ると球体は弾けて消え――
ぷちんっ
水滴になって二人に降り注いだ。
神に祝福されているかのような二人の姿が、座り込んだままのブラッドに敗北感を教えている。キラキラと紫水晶が光る。彼はとっさに腕で顔を覆った。
徐々に収まり、光源はアリスの髪だとわかった。その光を吸収するように、コリンの目も翠玉色に輝いている。
コリンはアリスと見つめ合い、頷いてから、そっと下ろしてあげた。
「私の名前はアリス・アンブローレル。今まで隠していて、ごめんなさい」
そう言ってドナに手を差し伸べた。
「アンブローレルって、魔鉱山をいくつも持ってる、あの? 嘘よ……ほとんどお姫様じゃない! 私たちの前に現れていい人じゃないわ。どうしてここにいるの?」
ドナは驚きを隠せない。夢ではないかと、アリスが握ってくれたほうの手のひらを見つめる。彼女に流れる物書きの血が、沸き始めるのを感じていた。
「アンブローレル……」
ブラッドは目を閉じて、脳に刻み込むようにつぶやいた。
「それが、ずっと探していた名前なのか……?」
アリスの切り揃えた前髪も、おくれ毛も、ツインテールも、毛先の数センチだけ紫色をしている。アンブローレル家に代々続く特徴を、いつも塗料で黒く染め隠していた。
コリンはブラッドに手を差し伸べた。払い除けたブラッドはあぐらで座り直した。
「この学校には私を守るための魔術がたくさん仕掛けられているの。さっき落下したときも、今の今までみんなが私の苗字を知ろうとしなかったことも。存在感を薄くして、姿を隠すことも出来るの」
ブラッドにも、コリンにも、思い当たる節がいくつかあった。
「でも、名前を隠して生きるのは寂しかった。間違ってた。フランが大賞を取れなかったのは、きっと私のせいなの……自己表現の課題なのに、フランを通して私のことがバレたらどうしようって迷いがあったから。それで、ブラッドとは、もう組めないって思ったの」
ブラッドはアリスを見上げる。
「俺が嫌いだからじゃないのか?」
「こんな私でも『好きだ』って言ってくれて、すごく嬉しかった。ゾナフォークの名前を隠さないブラッドにずっと憧れてたよ。だからブラッドに冷たくされても『信じたい』って思ってた」
ドナはまだ混乱している。聞きたいことがありすぎる上に、目の前の事実と情報が線にならずに散らかっていた。
「コリン、あなたの瞳は……? さっきの力も。私たち、アリスさんに動きを封じられていたのに」
「ぼくにも何が何やら。助けたいって一心で踏み込んだら、なぜか間に合った」
彼は手を握ったり、広げたり、腕を回したり、屈伸運動をしてみた。不調は感じられなかった。ケガもしていない。瞳もゆっくりと元のほぼ黒の濃緑に戻っている。今は残照を放っているだけのようだ。
「小さい頃に一度、誘拐されかけたことがあったの。今のコリンと同じ目をした男の人が助けに来てくれた。きっと、コリンにも同じ血が流れている。
その日は屋敷でパーティーがあって、ブラッドと茶室でお庭の雪を見たわ。誘拐されたのはその後だったから、それから人前には出られなくなってしまったの」




