第十話 スノードームの青春
ブラッド、五歳の記憶――
アンブローレル邸のパーティーを抜け出すと、そこには一風変わった庭があった。
宵闇に包まれて、あたりの木々は影絵のように黒く、白い月は漉いた紙を丸く切って貼ったようだ。
ゾナフォーク邸の庭は、日が沈んでも人のぬくもりを感じる、緑と花に飾られた庭。ここは違う。背の低い木々の黒と、砂と石の灰色の世界。時間がぴたりと静止したようだ。それは刹那と永遠。相反するものを同時に表現していた。
ブラッドの隣には女の子がいた。茶室の中に入れたのも、彼女の手引きだった。靴を脱いで、入口をくぐると、秘密基地みたいでどきどきした。
「りすさん、雪って好き」
彼女がそうつぶやくと、窓の外、庭の上空でちらちらと何かが揺れている。目をこすってみたが、気のせいではない。音もなく雪が降っていた。雪を知らないブラッドは興味津々で窓に近づいてから、飛び出すように外に出て、空を仰いだ。墨色の空。雪は降っていない。
茶室に戻ると、雪は降り続けていた。実際の庭に、雪の映像が重ねて投影されるよう、窓に細工がされていたのだ。
落ち着きなく、また外に出ようとすると、少女はぎゅっと手を握った。
「ここにいて」
彼の肌はざわめいていた。胸が苦しい。声も出ない。自分は風邪でも引いてしまったのだろうか。ひんやりとした畳に二人で寝そべった。そこからの記憶がない。
「お母様、次はいつ、雪のお庭に連れて行ってくれるのですか?」
当時は出かけるたび、そうたずねていたが、家族の誰もが「夢を見ていたんだね」と言って取り合わなかった。
(夢なんかじゃない。この目で見たんだ)
女の子にもう一度会いたかった。社交会にはなるべく参加するようにしていた。
――なくなったものをいつまでも追い求めてどうする? 寒さ厳しいフユはもうない。科学技術も進歩し、これだけ便利になったのだから、我々魔術士も手を取り合い、前を向かなくては生きていけない。
いつの間にか、雪やフユそのものの話が禁句になっていた。忘れろと言われると、余計に知りたくなった。
魔術学校に入ったのは、雪とフユ服の研究をしたかったからだ。自室の収納の奥で、古物商で集めたスノードームや外套、その他フユに関するありとあらゆる収集品が増えていった。
転機は花見。サクラは茶室と親和性がある。静かに鑑賞したいブラッドは、メイン会場の喧騒からこっそり逃れていた。
小さな背中。揺れるツインテール。毛氈の上、ぽつんと座っているアリスがいた。
記憶が消えかけた今でも「似ている」と思った。同級生であることはわかるのに、名前が思い出せない。どうして今まで気づかなかったのだろう。ブラッドたちは教室の後ろの席に座っている。つまり、彼女はいつも視界にいたはずなのだ。
「植物育成学、俺と組め」
翌朝、掲示板を見て、はっとした。彼女の丸文字で書かれた「ブラッド.Z&アリス.U」。
――りすさん、雪って好き。
もしも「りす」が彼女の名前だとしたら?
アリスさん。リスさん。周囲が「アリスさん」と呼ぶのを聞いて、自分のことを「りすさん」と呼ぶようになったのだとしたら?
(思い出させてやる)
確信に変わったのは、体育祭。ダンスの練習で。
「さっさとしろ。踊ったことくらいあるだろ?」
「踊りにくいよ。背の高い子と踊った方がいいと思うなぁ」
踊る気満々で差し出したブラッドの手は、何度もアリスにかわされた。
「私はブラッドの雄姿を見てるほうが楽しいよ」
「却下で」
「踊り、一つしか知らないよ?」
「踊ってみ。合わせるから」
ブラッドは幼い頃から教養としてダンスを一通り習っている。社交会で踊った経験も豊富だ。
「一回踊って無理なら出ない」
そう言って、アリスから手を握る。
(やっぱり)
ずっと探していた手だった。冷たい。
(言えない理由があるのか? 俺がそばで守ってやる)
◇◆◇◆
「これだけ隠してたのに、ブラッドも、ドナさんも、私を見つけてくれてありがとう。正体を知られちゃったから、私はもう行くね。コリンは私と行きましょう」
コリンの父親は、現在、魔術警察の幹部であり、かつての英雄の血を引く者として、辣腕を振るっている。アリスの魔力や魔鉱石と何度か共鳴し、覚醒したコリンはこの瞬間から国の重要人物。保護しなくてはならない。
「待てよ」
ブラッドは立ち上がる。
「これからどうするんだ?」
「まずは学長先生と話し合わなくちゃ。正体を隠し続けることが入学の条件だったの」
「俺も行く」
アリスは、プールサイドに置いていた文房具入れを拾った。
「気持ちはありがたいけど、ブラッドに危険が及ぶかもしれないから。ドナさんも。今なら少しずつ、私とのことは記憶から消えるはず」
フユ休みに見た、どこか大人びた彼女だった。ナツやアキに見た、けなげにブラッドのそばを歩いていた、小動物みたいな彼女ではない。
「消える? 俺は忘れてなかったぞ? ずっと、お前を探してた」
日が暮れ始めていた。ドナが眼鏡を上げると、光ったレンズの奥、寂しそうな橙色の瞳が見えた。
「私も嫌よ。アリスさんがいなくなったら、誰が私の小説を読むの? 植物育成学の発表原稿、私に書かせたかったんじゃないの? 雪とか力の覚醒とか、いきなり何なの? もっと私を関わらせなさいよ。アリスさんの思う四季を、もっと私に教えてよ。伝えていかなきゃみんな忘れちゃう。ここにいた私たちのことも……」
ドナ。初めて出来た女の子のともだち。ドナの書く物語がアリスは好きだった。何も奪わない。何も踏みつけない。何も崩さない。登場人物たちが積み重ねていく日々・感情・関係性には緩やかな希望を、行間には葛藤を感じた。ドナが咲かせる花を知りたいと思っていた。
「ゾナフォーク家もなめられたもんだな? これまで通り、毎日俺のそばにいれば解決するんじゃねぇの? アリスはどうしたいんだ?」
ブラッド。初めてアリスを見つけて、今まで忘れずにいてくれた男の子。ブラッドは「選ぶ側」だ。
アリスは違う。生まれたのは「持つ側」だが、実際は「従わされる側」だった。卒業後は恐らく父の決めた相手と結婚するだろう。それが持つ側に生まれた自分の使命だと、アリスは思っていた。
名前を隠したところで、同じだった。ブラッドに従ったり、コリンやドナに頼ってしまう優柔不断な自分がいた。
「ぼくも、きみの気持ちを尊重したい。どんな答えでも、ぼくはそばにいる」
コリン。心細い時、そばにいてくれた兄のような存在。力の扱い方に敏感で、芯の強さも脆さも知っている男の子。自分の足で立って、自分で決めて進んでいくコリンに見つめられ、アリスは今一度、自身に問う。
(私は選ぶことから逃げていた? 選ばれる側、従わされる側に甘んじて、責任から逃れているだけではないの?)
アリスは、文房具入れにつけていたお守りを握りしめる。入学前、一人自宅で作った、紫と黒、キラキラした可愛いものが詰め込んである、ハートのお守り。
「私は……」
顔を上げると、チカッと紫の毛先が光る。黒い瞳は揺れていた。
「四人で植物育成学やりたい」




