第6話「価値の喪失」
朝は、いつも通りに訪れた。
窓から差し込む光。
整えられた寝台。
規則正しく配置された家具。
すべてが、昨日と同じ。
違うのは――
その意味だけだった。
私は静かに目を開ける。
目覚めに迷いはない。
身体は習慣通りに動く。
起き上がり、姿勢を正し、呼吸を整える。
――今日の予定。
思考が、自然にそれを組み立てようとする。
だが。
途中で、止まる。
予定が、ない。
正確には、あったはずの予定が、すべて消えている。
王太子妃候補としての一日。
それに基づく行動。
それが、もう存在しない。
……問題ない。
私はゆっくりと立ち上がる。
代替の行動を組み立てればいい。
必要な手続き。
荷物の整理。
報告書の提出。
やるべきことは、ある。
それを順番に処理すればいい。
ただ、それだけのこと。
扉を叩く音。
「失礼いたします」
ミレナの声。
「どうぞ」
扉が開く。
だが、入ってきたのは――ミレナではなかった。
見慣れない侍女が、無表情で一礼する。
「本日より、こちらを担当いたします」
一瞬、理解が遅れる。
担当?
「ミレナはどうしましたか」
「別の任務に配置されました」
簡潔な答え。
感情はない。
ただの事実。
――なるほど。
処理が早い。
私は短く頷く。
「承知しました」
それ以上は問わない。
問う必要がない。
人員の配置は、私の権限外だ。
新しい侍女は、機械的に動く。
衣装を整え、必要な物を並べる。
だが。
どこか、違う。
ほんのわずかな差。
しかし、それは明確だった。
ミレナは、私の動きを先読みしていた。
言葉を発する前に、必要なものを用意していた。
だが、この侍女は違う。
指示を待ち、命令を受けてから動く。
それは、正しい。
正しいが――
効率が悪い。
だが、それを指摘する意味はない。
私は、もう指導する立場ではない。
ただの、一時的な滞在者だ。
「本日のご予定ですが」
侍女が言う。
「特に登録されておりません」
「そうですか」
予想通り。
私は鏡の前に立つ。
そこに映る自分を、客観的に観察する。
姿勢、視線、表情。
問題はない。
いつも通り。
完璧だ。
……それが、何の意味も持たないだけで。
準備を終え、部屋を出る。
廊下は、昨日と同じ。
だが、すれ違う人々の反応が違う。
視線が、逸らされる。
あるいは、逆にじっと見られる。
どちらも、同じ意味だ。
――価値の変化。
私はそれを、正確に理解する。
評価が下がった。
それだけのこと。
階段を下りる。
途中で、数人の貴族とすれ違う。
彼らは一瞬、私を見て。
そして、何も言わずに通り過ぎる。
昨日までなら、必ず挨拶があった。
だが、今日はない。
それが、答えだ。
食堂に入る。
席は空いている。
だが、どこに座るべきか。
判断が一瞬遅れる。
これまでは、決まっていた。
王太子妃候補としての席。
だが今は。
その資格がない。
私は、最も端の席を選ぶ。
目立たない位置。
それが最適だ。
食事が運ばれる。
内容は、変わらない。
だが。
温度が、少し違う。
ほんのわずかに、冷めている。
理由は明確だ。
優先順位が下がった。
それだけ。
私はそれを、淡々と受け入れる。
食事を終え、立ち上がる。
その時。
「……リゼル様」
声がした。
振り向く。
そこにいたのは、年配の侍従だった。
以前、何度かやり取りをしたことがある。
「何か」
「その……本日は、お時間があると伺いましたので」
言い淀む。
視線が揺れる。
だが、やがて決意したように言う。
「王宮の書庫の整理を、お手伝いいただけないかと」
依頼。
だが、その言葉の裏は明確だ。
――雑用。
本来、私が行うべきではない仕事。
だが。
今の私は、違う。
役割を失った存在。
ならば。
これは、適切な割り当てだ。
私は、迷わず頷く。
「承知いたしました」
侍従が、わずかに安堵の表情を見せる。
「助かります」
私はそれを見て、理解する。
彼は、私を“使える人材”として見ている。
その評価は、まだ残っている。
ただし。
その用途が変わっただけ。
王妃候補ではなく、作業要員として。
――それでも。
“役に立つ”ことには変わりない。
その事実が、わずかに思考を軽くする。
私は書庫へと向かう。
静かな空間。
積み上げられた書物。
整理されていない記録。
やるべきことは明確だ。
分類。
整列。
記録。
私はすぐに作業に取りかかる。
手は、正確に動く。
迷いはない。
効率的に、無駄なく。
時間の感覚が薄れていく。
作業に没頭する。
それが、楽だった。
考えなくていいから。
感じなくていいから。
ただ、処理すればいい。
それが、私の得意なことだから。
どれくらい時間が経ったのか。
気づけば、かなりの量が整理されていた。
「……見事だな」
背後から声がする。
振り向く。
そこに立っていたのは――
王宮の高官だった。
名前と役職は、すぐに思い出せる。
だが、今はそれを口にしない。
「恐れ入ります」
私は一礼する。
彼はしばらく、整えられた書架を見ていた。
「やはり、無駄がない」
その評価は、正しい。
私は無駄を排除するように育てられた。
だから、当然の結果だ。
「その能力、惜しいな」
彼は、ぽつりと呟いた。
私は、その意味を理解する。
――本来なら、もっと上で使われるべきだった。
だが、そうならなかった。
理由は、明白。
「……いえ」
私は首を振る。
「適切な配置かと」
それが、結論。
感情を挟む余地はない。
彼は一瞬、私を見て。
何か言いかけて、やめた。
「……そうか」
それだけ言って、去っていく。
私は再び、作業に戻る。
手を動かす。
思考を止める。
それが、最も効率的だから。
だが。
ふと、動きが止まる。
手の中にある一冊の本。
それは、王妃教育の教材だった。
何度も読んだもの。
内容は、すべて記憶している。
ページを開く。
そこに書かれているのは――
「王妃とは、国の象徴であり、民に寄り添う存在である」
私は、それを見つめる。
しばらく、何も考えない。
やがて。
ゆっくりと、本を閉じる。
――私は、それに向いていなかった。
それが、結論。
ならば。
私は、何に向いているのだろうか。
答えは、まだない。
ただ一つ、確かなのは。
私は今、“役に立っている”。
その事実だけが、かろうじて私を支えていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
「役に立つ」ことでしか自分を保てない彼女。
だからこそ、今の状況が少しだけ“救い”にもなっているのが歪なところです。
次回、第7話。
状況がさらに動きます。
ここから物語は次のフェーズへ。
少しでも続きが気になった方は、ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。




