第5話「正しさの代償」
私は、いつから“正しく”なったのだろうか。
その問いに、明確な答えはない。
だが、きっかけは覚えている。
まだ、十にも満たない頃。
初めて王宮に呼ばれた日のことだ。
広い謁見の間。
高い天井。
遠くに見える王と王妃。
そして、その隣に立っていたのが――アルヴェルト殿下だった。
当時の私は、まだ何も知らなかった。
ただ、家の命令でここに立っているだけの子どもだった。
「リゼル・アストレアでございます」
震えないように、声を整える。
それだけで精一杯だった。
王は私を一瞥し、次に殿下へと視線を向けた。
「どう思う」
短い問い。
殿下は、しばらく私を見ていた。
その視線は、今よりもずっとまっすぐで、遠慮がなかった。
「……使えると思います」
その一言で、すべてが決まった。
私は選ばれた。
王太子妃候補として。
その瞬間から、私の人生は変わった。
遊びは制限された。
交友関係は管理された。
学ぶ内容は、すべて“役に立つもの”に絞られた。
礼法、歴史、政治、経済、外交、言語。
感情の制御。
表情の作り方。
声の出し方。
沈黙の使い方。
すべてが、“正しくあるため”の訓練だった。
「リゼル様、それでは遅すぎます」
「感情を表に出しすぎです」
「それでは、殿下の隣には立てません」
何度も言われた。
何度も修正された。
間違えるたびに、何かが削られていく。
不要なもの。
無駄なもの。
役に立たないもの。
そうして、残ったのが――今の私だ。
正しい選択をする。
最適な言葉を選ぶ。
無駄な感情を排除する。
それが、私の“価値”だった。
殿下との関係も、同じだ。
最初から、情はなかった。
必要もなかった。
私たちは役割で繋がっている。
それで十分だった。
……はずだった。
「リゼル」
記憶の中の殿下が、私を呼ぶ。
少しだけ、今よりも柔らかい声。
「これは、どう思う」
机の上に広げられた書類。
私はそれに目を通し、すぐに答える。
「この案では、三年後に財政が破綻します」
「理由は」
「短期的な支持を優先しすぎています。税収の見込みが甘い」
殿下はしばらく黙り、やがて頷いた。
「……そうか」
それだけ。
だが、それで十分だった。
私は、役に立っている。
その事実があれば、他は不要だった。
だから。
疑問を持つことはなかった。
なぜ殿下が、私と距離を置くのか。
なぜ、会話が必要最低限なのか。
なぜ、笑わないのか。
考える必要がなかった。
役割は果たされている。
それで、問題はない。
……本当に?
思考が、わずかに揺れる。
だが、すぐに押し込める。
それは、今考えるべきことではない。
現在に戻る。
私は、部屋の中で静かに座っている。
夜会は終わり、すでに深夜。
だが、眠る気配はない。
必要な処理は、まだ残っている。
机の上に、書類を並べる。
婚約に関する記録。
今後の手続き。
返却すべき品。
一つ一つ、確認していく。
手は、正確に動く。
迷いはない。
それが、私の強みだ。
だが。
ふと、手が止まる。
視線が、ある一点に引き寄せられる。
そこにあったのは、小さな箱。
殿下から贈られたものだ。
形式的な贈り物。
特別な意味はない。
はずだった。
私はそれを手に取る。
重さは、ほとんど感じない。
ゆっくりと、蓋を開ける。
中には、簡素な装飾の指輪。
婚約の証。
ただの、象徴。
それ以上でも、それ以下でもない。
……そう、思っていた。
だが。
それを見つめる視線が、わずかに揺れる。
なぜだろうか。
理由が分からない。
分からないまま、私は考える。
これは、もう不要だ。
役割が終わった以上、意味はない。
ならば、返却すべきだ。
それが正しい。
それが最適。
それが――
手が、動かない。
指輪を箱に戻すことも、閉じることもできない。
ほんの数秒。
だが、その数秒が、やけに長く感じられる。
やがて。
私は静かに、箱を閉じた。
理由は、分からない。
分からないが、今はそれでいいと判断する。
優先順位は低い。
後で処理すればいい。
そう結論づける。
そして再び、書類に視線を戻す。
手を動かす。
正確に。
無駄なく。
完璧に。
――それしか、できないから。
それが、私だから。
それが、私の価値だから。
だが。
その価値が、すでに不要になったのだとしたら。
私は、何を基準に動けばいいのだろうか。
答えは、まだ出ない。
だが、その問いだけが、確かに残った。
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