第4話「拍手」
扉の向こうで、音が爆ぜた。
遅れて届いた拍手。
笑い声。
祝福の言葉。
――王太子の決断を讃える音。
それが、厚い扉一枚を隔てて、くぐもった振動となって伝わってくる。
私は立ち止まらない。
振り返ることもない。
ただ、一定の歩幅で廊下を進む。
足音が、やけに大きく響く。
それ以外の音がないからだ。
夜会の華やかさとは対照的に、ここは静まり返っている。
磨かれた床、整然と並ぶ燭台、過剰なほどに整えられた空間。
――無機質。
その言葉が、ふと浮かぶ。
そしてすぐに、それが自分自身にも当てはまると理解する。
私は、無機質だ。
だから選ばれなかった。
だから、切り捨てられた。
理屈としては、納得できる。
問題はない。
……問題は、ないはずだ。
歩き続ける。
廊下の先、柱の陰に、人影があった。
使用人だろうかと思ったが、違った。
見覚えのある顔。
「……リゼル様」
侍女のミレナだった。
幼い頃から私に仕えている者だ。
彼女は私の姿を見るなり、顔色を変えた。
「本当に……その、婚約が……」
言葉が続かない。
私は短く頷く。
「事実です」
それだけで、十分だった。
ミレナは唇を噛む。
「どうして……あんな形で……」
問い。
感情を含んだ、問い。
だが私は、それに答えない。
答える必要がないから。
「今後の予定を確認します」
代わりに、私は事務的に言う。
「明日の公務はすべて取り消し。関連書類は破棄、または返却。私物の整理を優先します」
「……リゼル様」
「それと」
言葉を続ける。
止まらないように。
考えないように。
「王宮内での私の立場は、即時失効となります。滞在期限について確認を」
「……お待ちください」
ミレナが、一歩踏み出した。
「そんな……今は、そのようなことではなく……」
「いいえ」
私は首を振る。
「優先順位の問題です」
感情は、後回しでいい。
処理すべき事項は、山ほどある。
役割が変わった以上、それに応じて行動を修正する必要がある。
それだけのこと。
「……リゼル様は」
ミレナの声が、震える。
「何も、感じていないのですか」
問い。
正確ではない問い。
私は一瞬だけ、考える。
何を感じているか。
何も、感じていない。
それが事実だ。
だから私は、そのまま答える。
「特に」
ミレナの表情が、崩れた。
それが何を意味するのか、私は理解しない。
理解する必要がない。
それよりも――
再び、扉の向こうから歓声が上がる。
より大きく。
より明確に。
――祝福。
その中心にいるのは、もう私ではない。
それだけのことだ。
「……戻ります」
私は言う。
「本日の予定は終了しました。以降は私的時間となります」
「ですが――」
「問題ありません」
遮る。
これ以上の会話は、不要だ。
ミレナは何か言いかけて、やめた。
そして、深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
その声には、感情が混じっている。
だが私は、それを拾わない。
拾う理由がない。
私は歩き出す。
自室へ向かう廊下。
見慣れた景色。
だが、その意味はすでに変わっている。
ここはもう、“私の場所”ではない。
ただの、通過点だ。
扉の前で立ち止まる。
手をかける。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
理由は、分からない。
分からないまま、私は扉を開けた。
部屋は、いつも通りだった。
整えられた家具。
無駄のない配置。
必要なものだけが置かれた空間。
私のために用意された場所。
王太子妃となるための、仮の居場所。
そして今、それは。
――不要になった空間。
私はゆっくりと室内に入り、扉を閉める。
音が、遮断される。
外の喧騒も、拍手も、すべて。
完全な静寂。
その中で、私は一人になる。
しばらく、何もせずに立っていた。
時間の感覚が曖昧になる。
やるべきことは、分かっている。
整理。
手続き。
報告。
だが、体が動かない。
なぜかは、分からない。
分からないまま、私はその場に立ち続ける。
やがて。
ゆっくりと、椅子に腰を下ろす。
手を、膝の上に置く。
姿勢は崩さない。
ただ、視線だけが、宙をさまよう。
――役に立たない。
その言葉が、頭の中で反響する。
先ほどまでは、ただの事実だった。
だが今は。
少しだけ、重さを持っている。
それが何なのか、私はまだ理解できない。
理解する方法も、知らない。
だから。
私は、ただそれを受け入れる。
――私は、もう必要とされていない。
それだけだ。
部屋の中は、静かだった。
あまりにも静かで。
自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
華やかな舞台の裏で、静かに崩れていくものがあります。
まだ感情は動いていませんが、その「動かなさ」が何を意味するのか。
第5話では、彼女の過去――
なぜここまで“完璧”になったのかが明かされます。
少しでも続きが気になった方は、ブックマークしていただけると嬉しいです。
この物語は、ここから深く沈んでいきます。




