第67話 柳川の秋
柳川の朝は、早かった。
宗茂は、夜明け前に——目を覚ます。
床の中で、しばらく——天井を見ていた。
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七十を過ぎた体。
起き上がると——膝が、痛む。
腰が——重い。
しかし——
目だけは、まだ——生きていた。
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縁側に出る。
花宗川が——見える。
秋の朝の川が——白く霞んでいる。
霧が——川面を、包んでいた。
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「……今日も、流れているな」
小さく、言う。
毎朝——こう言う。
柳川へ帰ってから——ずっと、こう言っている。
「今日も、流れているな」
「ああ、流れている」
それだけで——
この朝が、始まった。
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十時が、縁側に——茶を持ってくる。
「殿——」
「ああ」
「寒くはありませんか」
「大事ない」
「もう少し——着込まれては」
「大事ないと言っている」
「……はい」
十時も——白髪になっていた。
顔に——皺が増えた。
しかし——
その目は、変わらなかった。
静かな目。
宗茂のそばに——いつもいる目。
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「十時」
「はい」
「お前は——老いたな」
「殿も——老いましたよ」
「そうだな」
「二人とも——老いました」
「ああ」
「しかし——」
十時が、川を見る。
「川は——老いませんね」
「そうだな」
「変わらず——流れています」
「ああ」
「誾千代様が——言った通りに」
「……ああ」
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茶を、受け取る。
温かかった。
両手で——椀を包む。
誾千代が——白湯を包んでいた手を、思い出す。
「水は、待っています」
その言葉が——生まれた日を。
「……覚えているか」
小さく、言う。
川に向かって。
「お前が——この言葉を書いた日を」
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答えは——返らない。
川が——流れるだけ。
しかし——
それで、十分だった。
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鎮幸が——庭に来る。
五十年来の——家臣。
その足が——少し、遅くなっていた。
「殿」
「鎮幸」
「今日も——川を見ていますか」
「ああ」
「毎朝——」
「ああ」
「飽きませんか」
「飽きない」
「なぜですか」
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宗茂は——川を見る。
「昨日と——同じ川ではない」
「はい」
「水は——入れ替わっている」
「はい」
「しかし——川は、同じだ」
「……はい」
「人も——そうかもしれない」
「どういう意味ですか」
「俺も——昨日と同じ俺ではない」
一拍。
「しかし——立花は、同じだ」
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鎮幸は——
川を見る。
しばらく——黙っていた。
「……道雪殿も」
「ああ」
「そう言いそうですね」
「そうだな」
「紹運殿も——」
「ああ」
「そういう男でしたね」
「……ああ」
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三人は——
縁側に並んで、座る。
川を——見る。
老いた三人が——
川を、見ている。
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「鎮幸」
「はい」
「お前は——まだ、戦えるか」
鎮幸が——少し間を置く。
「……やってみなければ、分かりません」
「正直だな」
「はい」
「俺も——やってみなければ、分からない」
「殿も——ですか」
「ああ」
「七十を過ぎて——」
「ああ」
「……呆れた殿だ」
鎮幸が、低く笑う。
「そうか」
「はい」
「しかし——」
「はい」
「ついていきます」
「知っている」
「どこまでも」
「知っている」
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その年の冬。
島原から——報せが来た。
「島原で——一揆が起きています」
「規模は」
「大きい——とのことです」
「幕府は」
「出兵を——要請しています」
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宗茂は、報せを——
黙って、聞いた。
十時が、言う。
「殿——」
「ああ」
「七十を過ぎています」
「知っている」
「島原は——遠い」
「知っている」
「それでも——」
「ああ」
「行くのですか」
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宗茂は——
縁側から、川を見る。
花宗川が——流れている。
「……九州の民が、苦しんでいる」
「はい」
「柳川の殿様が——黙って見ていられるか」
「……はい」
「立花の義が——そこにある」
「はい」
「ならば——行く」
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十時が——
目を閉じる。
「……承知」
「十時」
「はい」
「お前は——残れ」
「殿——」
「柳川を——頼む」
「しかし——」
「増時に——頼んだ時と、同じだ」
一拍。
「柳川を——守ってくれ」
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十時は——
しばらく、黙っていた。
「……承知」
小さく、言う。
その目が——揺れていた。
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出陣前夜。
宗茂は——一人で、花宗川のほとりに立った。
夜の川が——暗く、光っている。
月明かりが——水面に映っている。
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「……道雪殿」
空を——見上げる。
「もう一度——戦います」
「七十を過ぎましたが——」
「まだ、動けます」
一拍。
「お前に——教わったからです」
「足が動かなくても——出る」
「それが——道雪殿でした」
「俺も——そうします」
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「紹運殿」
「あなたは——七百で三万を相手にした」
「俺は——老いた体で、島原へ行きます」
「勝てるかどうか——分かりません」
「しかし——」
「やるべきことがある限り——動く」
「それが——あなたに、教わったことです」
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「誾千代」
川を——見る。
「また——少し、行ってきます」
「今度は——遠くには行きません」
「九州の中だ」
「すぐに——帰ります」
「水は——待っていてくれるか」
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川が——流れる。
月明かりが——揺れる。
その揺れが——
頷くように、見えた。
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「……ありがとう」
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鎮幸が——庭に来る。
「殿——」
「ああ」
「明日——出ますか」
「ああ」
「俺も——行きます」
「知っている」
「止めませんか」
「止めない」
「なぜですか」
「お前が——残る方が、不自然だ」
鎮幸が——低く、笑う。
「……そうですね」
「ああ」
「どこまでも——ついていきます」
「知っている」
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二人は——
川を、見る。
老いた二人が——
夜の川を、見ている。
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「鎮幸」
「はい」
「俺は——いつまで、戦えると思う」
鎮幸が——少し間を置く。
「……死ぬまで」
低く、言う。
「そうか」
「はい」
「俺も——そう思う」
「はい」
「立花は——死ぬまで、戦う」
「はい」
「それが——道雪殿から受け継いだものだ」
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川が——流れる。
風が——吹く。
夜の柳川が——静かだった。
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「……雷は」
宗茂が、小声で言う。
「はい」
「消えないな」
「……はい」
「道雪殿の雷が——俺の中にある」
「はい」
「俺が死んでも——」
「はい」
「立花が続く限り——」
「はい」
「雷は——消えない」
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鎮幸は——
答えない。
ただ——
川を、見ていた。
その目が——
静かに、濡れていた。
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翌朝。
立花の旗が——動く。
老いた将が——先頭に立つ。
七十を過ぎた体で——
まだ、前を向いていた。
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十時が——城門から、見送る。
「……殿」
小さく、言う。
「必ず——帰ってきてください」
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かつて——
誾千代が言った言葉と——同じだった。
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宗茂は——
振り返らない。
しかし——
「ああ」
一言だけ、答える。
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立花の旗が——
秋の空の下を、進んでいく。
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雷は——
まだ、消えていなかった。
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次回、最終話「雷は消えず」。




