第66話 柳川、再び
柳川が——見えた。
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水路が——光っていた。
秋の日差しが、堀の面を白く染めている。
葦が、風に揺れる。
岸に並ぶ柳の木が、枝を垂らして水面に触れそうになっている。
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二十年前と——
何も、変わっていなかった。
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宗茂は、馬を止める。
動けなかった。
足が——止まった。
いや。
止めたのでは、なかった。
止まった。
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「……柳川だ」
小さく、言う。
誰にも——聞こえない声で。
「帰ってきた」
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十時が、隣で——
黙っていた。
しばらく——
何も言わなかった。
やがて。
「……帰りましたね」
声が、震えていた。
「ああ」
「二十年——」
「ああ」
「長かった——」
「ああ」
「……本当に、長かった」
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鎮幸が——
馬を降りた。
柳川の土を——
両手で、すくう。
その土を——
顔に近づける。
匂いを——嗅ぐ。
「……この匂いだ」
低く、言う。
「柳川の——土の匂いだ」
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その手が——震えていた。
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行軍が——止まる。
百二十名が——
柳川を、見ていた。
誰も——口を開かない。
誰も——動かない。
ただ——
この景色を、目に焼き付けていた。
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やがて。
城下から——人が、出てきた。
「宗茂様——!」
「立花様が——帰ってきた!」
「立花の旗だ——!」
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民が——集まってくる。
老人。子供。女。
二十年前には——まだ生まれていなかった子供まで。
立花の旗を——見上げている。
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宗茂は——
その顔を、一人ずつ、見る。
見知らぬ顔。
しかし——
柳川の顔。
「……ここへ——帰ってきた」
小さく、言う。
「民の——顔が、ある」
「はい」
「水路が——ある」
「はい」
「柳川が——ある」
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城門の前に——
増時が、立っていた。
薦野増時。
柳川に残って——二十年、守り続けた男。
その髪が——白くなっていた。
顔に——深い皺が刻まれていた。
しかし——
目だけは、変わらなかった。
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「……お帰りなさいませ」
増時が、言う。
その声が——かすかに、震えていた。
「増時」
「はい」
「守ってくれたか」
「……はい」
「柳川を——」
「はい」
「水路を——」
「はい」
「民を——」
「……はい」
増時の目が——赤くなる。
「立花の城は——まだ、ここにあります」
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宗茂は——
増時の肩を、叩く。
言葉は——いらなかった。
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夕暮れ。
宗茂は——一人で、庭に出た。
花宗川のほとりへ。
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川が——流れていた。
変わらず、流れていた。
二十年——
戦が続いても。
改易されても。
浪人になっても。
誾千代が死んでも。
この川は——変わらず、流れていた。
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宗茂は、川のほとりに——立つ。
水面を——見る。
秋の光が、水面に散っている。
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「……誾千代」
小さく、言う。
「帰ってきた」
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答えは——返らない。
川が——流れるだけ。
「水は、待っています、と——書いてくれたな」
「……待っていてくれたか」
「二十年——」
「ずっと——」
「ここで、待っていてくれたか」
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風が、吹く。
川面が——さざ波立つ。
その波が——
宗茂の足元まで、来る。
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「……来たぞ」
宗茂は、言う。
「帰ってきたぞ」
「道雪殿の——立花へ」
「紹運殿が——守ろうとした九州へ」
「お前が——待っていてくれた柳川へ」
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目が——乾いていた。
しかし——
胸の中が、満ちていた。
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「道雪殿」
空を——見上げる。
「雷は——消えませんでした」
「紹運殿」
「生きました——言われた通りに」
「誾千代」
「帰ってきました——約束した通りに」
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風が——強くなる。
川が——揺れる。
柳の枝が——大きく、揺れる。
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まるで——
三人が、答えているように。
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十時が——庭に出てくる。
「殿——」
「ああ」
「鎮幸が——」
「なんだ」
「泣いています」
「そうか」
「止まらないそうです」
「……そうか」
「珍しいですね」
「珍しくない」
一拍。
「あの男は——いつも、そうだ」
「……はい」
「肝心な時に——泣く」
「はい」
「だから——好きだ」
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十時が——
川を見る。
「……花宗川が」
「ああ」
「変わっていませんね」
「ああ」
「二十年——」
「ああ」
「待っていてくれましたね」
「……ああ」
「誾千代様が——言っていた通りに」
「ああ」
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二人は——
しばらく、川を見ていた。
水が——流れる。
光が——散る。
風が——吹く。
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「十時」
「はい」
「お前に——一つ、礼を言う」
「何が、ですか」
「二十年——離れなかった」
「……当然です」
「当然では——ない」
「しかし——当然でした」
「……そうか」
「俺たちは——立花の家臣です」
「ああ」
「立花が——ある限り」
「ああ」
「どこまでも——ついていきます」
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宗茂は——
川を見る。
水が——流れている。
変わらず。
待っていたように。
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「……誾千代」
もう一度、呟く。
「お前の言った通りだった」
「水は——待っていた」
「俺が——帰るのを」
「ずっと——待っていた」
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一拍。
「ありがとう」
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川が——流れる。
風が——吹く。
柳の枝が——揺れる。
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その揺れが——
まるで、頷くように見えた。
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夜が——来る。
柳川の夜。
水路の水音が——聞こえる。
虫の声が——聞こえる。
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立花の旗が——
夜風に、揺れていた。
二十年ぶりに——
柳川の空の下で。
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雷は——
還ってきた。
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次回、第67話「柳川の秋」。




