第65話 豊臣、滅ぶ
報せが、来た。
「豊臣秀頼——自刃」
「淀殿——自刃」
「大坂城——落城」
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宗茂は、その報せを——
黙って、聞いた。
十時が、隣で言う。
「……終わりましたね」
「ああ」
「豊臣が——」
「ああ」
「秀吉公の——」
「ああ」
⸻
誰も——
それ以上、口を開かなかった。
陣の中が——
静まり返っていた。
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宗茂は、大坂城の方角を——見る。
煙が——まだ、上がっていた。
昨日の炎の残りが——
まだ、燻っていた。
「……秀吉公」
小さく、呟く。
「終わりました」
「豊臣が——終わりました」
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風が、吹く。
夏の、温かい風。
その風が——
煙を、散らしていく。
煙が——薄くなる。
薄くなる。
やがて——空に、溶けていく。
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「……消えたか」
宗茂は、言う。
「はい」
十時が、答える。
「煙が——」
「ああ」
「しかし——」
宗茂は、空を見る。
「消えても——あった、ということは残る」
「はい」
「秀吉公が——天下を取ったことは」
「はい」
「立花を——認めてくれたことは」
「はい」
「消えない」
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鎮幸が、低く言う。
「……鎮西一、と」
「ああ」
「言ってくれた言葉は——」
「ああ」
「残ります」
「ああ」
「俺たちが——覚えている限り」
「そうだ」
「立花が——続く限り」
「……そうだ」
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⸻
翌日。
秀忠から——呼び出しがあった。
「立花を——呼べ」
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江戸城。
小さな部屋。
行灯が——一つ、灯っている。
前回と——同じ部屋だった。
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秀忠が、座っていた。
その顔が——疲れていた。
戦の疲れではない。
何か——重いものを、抱えている顔。
「立花」
「はい」
「座れ」
「御意」
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しばらく——
二人は、黙っていた。
行灯の火が——揺れる。
「……終わったな」
秀忠が、言う。
「はい」
「豊臣が——」
「はい」
「俺は——」
秀忠は、行灯を見る。
「複雑だ」
「……はい」
「敵として戦った」
「はい」
「しかし——秀頼は」
一拍。
「俺が——子供の頃、一緒に遊んだ男だ」
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宗茂は、秀忠を——見る。
この男も——
抱えているものがある。
「……殿下」
「なんだ」
「俺も——複雑です」
「そうか」
「秀吉公には——恩があります」
「ああ」
「柳川を——くれた」
「ああ」
「鎮西一、と——言ってくれた」
「……鎮西一」
秀忠が、繰り返す。
「どういう意味だ」
「九州で——一番、という意味です」
「秀吉が——そう言ったのか」
「はい」
「お前に——直接」
「はい」
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秀忠は——
しばらく、その言葉を——考えていた。
「……父上も」
「はい」
「お前のことを——話していた」
「家康公が——ですか」
「ああ」
「……何と」
「恐ろしい男だ、と」
一拍。
「褒めていた」
「……そうですか」
「義のある男は——恐ろしい、と」
「はい」
「損と分かって——動くからだ、と」
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宗茂は——
答えない。
秀忠が、続ける。
「立花」
「はい」
「一つ——聞く」
「はい」
「お前は——今、何を望んでいる」
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第62話と——同じ問いだった。
あの時は——「柳川へ帰りたい」と答えた。
今も——同じだった。
「柳川へ——帰りたい」
「柳川」
「はい」
「関ヶ原で——改易された」
「はい」
「それでも——帰りたいか」
「はい」
「なぜだ」
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宗茂は——
懐を、押さえる。
誾千代の文が——そこにある。
「水は、待っています」
「……水が、待っているからです」
「水が」
「はい」
「柳川の——水が」
「はい」
「妻が——そう書いてくれました」
「……誾千代が」
「はい」
「死んだ妻が——水は待っていると」
「はい」
「それを——信じているのか」
「はい」
「根拠は」
「ありません」
一拍。
「しかし——信じています」
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秀忠は——
しばらく、宗茂を見ていた。
その目が——
第62話の時と、同じように——
何かを、決めようとしていた。
いや。
今回は——
もう、決まっているように見えた。
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「……立花」
「はい」
「お前は——大坂の陣で、よく戦った」
「御意」
「冬も——夏も」
「はい」
「一度も——怯まなかった」
「はい」
「徳川への——義を、示してくれた」
「はい」
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秀忠は——
立ち上がる。
「柳川を——返そう」
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静寂。
⸻
宗茂は——
秀忠を、見る。
「……殿下」
「聞こえたか」
「はい」
「柳川を——返す」
「……はい」
「旧領——そのままに、返す」
「……」
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宗茂は——
目を閉じる。
一拍。
⸻
誾千代の声が——聞こえた気がした。
「水は、待っています」
道雪の声が——聞こえた気がした。
「強さとは、守ることだ」
紹運の声が——聞こえた気がした。
「お前は、生きよ」
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三人が——
待っていた。
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「……ありがとうございます」
宗茂は、頭を下げる。
深く。
「必ず——立花を、続けます」
「ああ」
「柳川を——守ります」
「ああ」
「水を——守ります」
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秀忠は——
小さく、頷く。
「……御伽の話が——よかった」
「殿下——」
「道雪の話。紹運の話。誾千代の話」
「はい」
「あの話を聞いて——俺も、考えた」
「……はい」
「義とは何か、と」
「はい」
「立花の義が——俺には、分かった気がした」
一拍。
「だから——返す」
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宗茂は——
もう一度、頭を下げる。
「……誾千代が」
小さく、言う。
「喜んでいると——思います」
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秀忠は——
答えない。
ただ——
小さく、笑った。
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部屋を、出る。
廊下で——
十時と鎮幸が、待っていた。
二人の顔を——見る。
「……どうでしたか」
十時が、聞く。
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宗茂は——
答える前に。
空を、見上げる。
夏の——青い空。
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「帰れる」
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十時が——
目を閉じる。
鎮幸が——
拳を、握る。
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「……柳川へ」
十時が、言う。
「ああ」
「花宗川へ——」
「ああ」
「水が——待っている柳川へ」
「ああ」
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鎮幸は——
何も言わない。
ただ——
空を、見上げていた。
その目が——
濡れていた。
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江戸の空に——
夏風が、吹いていた。
温かく。
南から——吹いてくる風。
九州の方角から——
吹いてくる風。
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水が——
待っていた。
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次回、第66話「柳川、再び」。




