最終話 雷は消えず
柳川の春が——来た。
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花宗川が——光っている。
春の日差しが、水面を白く染めていた。
葦の新芽が——岸に、顔を出している。
柳の枝が——緑になっていた。
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宗茂は、縁側に——座っていた。
島原から——帰ってきた。
戦は——終わった。
最後の戦が——終わった。
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体が、重かった。
島原の陣で——無理をした。
七十を過ぎた体で——
戦場に立ち続けた。
膝が——言うことを聞かなくなっていた。
腰が——常に、痛んだ。
しかし——
縁側から、川は——見えた。
それで、十分だった。
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「……流れているな」
小さく、言う。
毎朝——こう言う。
「今日も、流れているな」
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十時が——茶を持ってくる。
「殿——」
「ああ」
「今日は——顔色が」
「大事ない」
「しかし——」
「大事ないと——言っている」
十時は——
しばらく、宗茂を見ていた。
「……そうですか」
静かに、言う。
その目が——何かを、知っていた。
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茶を、受け取る。
温かかった。
両手で——椀を包む。
「……温かいな」
「はい」
「誾千代も——こうして、白湯を持っていた」
「はい」
「肥後で——」
「はい」
「こうして——椀を包んでいた」
「……はい」
「水は、待っています、と——書いた日に」
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川が——流れる。
春風が——吹く。
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鎮幸が——庭に来る。
その足が——さらに、遅くなっていた。
「殿」
「鎮幸」
「今日も——川を見ていますか」
「ああ」
「……変わりませんね」
「ああ」
「俺たちも——変わりませんね」
「そうだな」
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鎮幸が——縁側に、腰を下ろす。
老いた二人が——川を見る。
「鎮幸」
「はい」
「お前は——立花に仕えて、何年になる」
鎮幸が——少し考える。
「……道雪殿の頃から数えれば」
「ああ」
「五十年——を超えます」
「そうか」
「はい」
「長かったな」
「長かった——ですね」
一拍。
「しかし——」
「ああ」
「短かった——気もします」
「そうだな」
「あっという間に——」
「ああ」
「ここまで、来てしまいました」
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川が——流れる。
二人は——黙っていた。
その沈黙が——
温かかった。
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「鎮幸」
「はい」
「一つ——聞く」
「なんですか」
「後悔は——あるか」
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鎮幸は——
川を、見る。
しばらく——黙っていた。
「……ありません」
静かに、言う。
「本当か」
「はい」
「関ヶ原で——負けた」
「はい」
「柳川を——失った」
「はい」
「浪人に——なった」
「はい」
「それでも——」
「ありません」
一拍。
「殿と——共に来た」
「ああ」
「それだけで——十分です」
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宗茂は——
川を、見る。
「……俺も——後悔はない」
「はい」
「義のために——動いた」
「はい」
「全部——義のために」
「はい」
「それだけだ」
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春風が——吹く。
川面が——さざ波立つ。
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その夜。
宗茂は——床に就いた。
体が——重かった。
目を、閉じる。
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眠れなかった。
しかし——
苦しくは、なかった。
ただ——
色々なことが、浮かんでくる。
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道雪の顔が——浮かぶ。
輿に乗ったまま、戦場を駆けた男。
落雷で足を失っても——槍を手放さなかった男。
「宗茂よ。強さとは、守ることだ」
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紹運の顔が——浮かぶ。
七百で三万を相手に、微笑んで死んでいった男。
岩屋城の炎の中で——宗茂に向かって言った言葉。
「お前は、生きよ」
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誾千代の顔が——浮かぶ。
泣かない目。
揺れない姿勢。
几帳面な文字。
「水は、待っています」
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三人が——
宗茂を、見ていた。
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「……生きました」
宗茂は、言う。
目を閉じたまま。
「道雪殿」
「雷は——消えませんでした」
「紹運殿」
「言われた通りに——生きました」
「誾千代」
「帰ってきました——約束した通りに」
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三人が——
微笑んでいる気がした。
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「……もうすぐ——そちらへ行きます」
小さく、言う。
「待っていてくれますか」
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答えは——返らない。
しかし——
胸の中が、満ちていた。
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夜明け前。
十時が——部屋に来る。
「殿——」
答えが——ない。
「殿」
もう一度、呼ぶ。
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宗茂は——
目を閉じたまま、横たわっていた。
その顔が——
穏やかだった。
眠っているような顔。
しかし——
その息が、止まっていた。
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慶長元年——ではない。
寛永二十年。
立花宗茂——七十三歳。
柳川の地で——最期を迎えた。
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十時は——
しばらく、宗茂の顔を——見ていた。
「……殿」
小さく、呼ぶ。
答えは——ない。
「……お疲れ様でした」
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やがて——
鎮幸が、来る。
部屋に入る。
宗茂の顔を——見る。
しばらく——
黙っていた。
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「……逝ったか」
低く、言う。
「はい」
「……そうか」
「はい」
「……眠るような顔だな」
「はい」
「穏やかな——」
「はい」
「立花らしい——最期だ」
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鎮幸は——
宗茂の前に、座る。
頭を——下げる。
「……道雪殿のところへ——行ったか」
小さく、言う。
「紹運殿のところへも——」
「誾千代様のところへも——」
一拍。
「よかった」
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縁側から——
春の風が、入ってくる。
花宗川の——水音が、聞こえる。
川が——流れている。
変わらず。
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十時が、縁側を——見る。
「……水は」
小さく、言う。
「流れていますね」
「ああ」
鎮幸が、答える。
「変わらず——」
「ああ」
「誾千代様が——待っていた水が」
「ああ」
「殿が——帰ってきた水が」
「ああ」
「今も——流れている」
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二人は——
しばらく、川を見ていた。
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「鎮幸」
十時が、言う。
「なんだ」
「立花は——続きますね」
「ああ」
「殿が——逝っても」
「ああ」
「続きます」
「ああ」
「雷は——消えない」
「……ああ」
「道雪殿の雷が——」
「ああ」
「宗茂殿の中に——あった」
「ああ」
「そして——立花が続く限り」
「ああ」
「雷は——消えない」
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春風が——吹く。
花宗川が——揺れる。
柳の枝が——大きく、揺れる。
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まるで——
雷神が、答えているように。
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立花の旗が——
春の空の下に、立っていた。
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この物語を——結ぶ。
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雷神と恐れられた男、立花道雪に拾われた少年は。
二人の父の義を受け継ぎ。
乱世を駆け抜け。
敗れても。
失っても。
前を向き続けた。
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西軍大名で——唯一、旧領へ帰った男。
戦国最後の——名将と呼ばれた男。
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その男が——柳川で眠る。
花宗川のほとりで。
水の音を——聞きながら。
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水は——流れている。
雷は——消えていない。
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立花宗茂——
その名は、残る。
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雷は——
消えず。
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——了——
宗茂の物語を最後まで見届けていただき、心より感謝いたします。
本作のような『逆境からの再起』がお好きな方へ、現在、異世界戦記**『魔剣の王女』**を毎日更新中です。
第50話にて衝撃の覚醒シーン(挿絵あり)を公開したばかりです。宗茂とはまた違う、魂を削る戦記をぜひ覗いてみてください!




