82話 正念場
明海三十九年 9月17日 払綿土 某所 上空
谷を抜けるごとに銃声が聞こえてくる。
その音が、俺たちに焦燥感を確実に与えてきていた。
「……っ!」
操縦桿を強く握りしめる。
追い立てられた緊張感の表れとはまた違うものだ。
寧ろ逆だろう。
こんなにも緊張感があるべき場面だと言うのに、俺の身体がふわふわと浮いているような感覚に捕らわれ、身体が宙から離れていくのを引き留めるために操縦桿を握ったと言える。
この機体で出来るだけの旋回を行っているため、身体は浮くというよりも、席に縛り付けられているような感覚が正しいが、今の精神が正気ではないのか、そう感じてしまう。
「無人防空網に入れば追手は来ないはずだ。それまで持ち堪えられればいい。向こうも焦って無理な飛び方をして近づいて来ているだけだ。落ち着け」
シゲが落ち着いた声で言う。
「ああ」
短く返す。
思考を通わせた返答をしようとすると、手元まで狂いそうだった。
やっていることはほんの数十分ほど前に行ったことだというのに、先の引き上げての救助を終えてから、手も足も、心も頭も震えていた。
飛行機の操縦士として初めて乗った日、教官以外の人間を初めて乗せて飛んだ日、葵を初めて乗せた日、どれもこれも不思議な感覚があったが、それは「いつもと違う、若しくは初めてで、そういう日」だったからだと思っていたが、現状を鑑みるとどうやら俺はここまで極端に精神に“来る”ものがあったらしい。
民間人を乗せて戦場となっている空を飛ぶということが、どれだけ精神に不安を与えるのか。
乗せる前はそれほどのことだとは思っておらず、極端なまでに地面に接近して低速で行う救出の方が難しいことだと思っていた。
だが、瞬間的な難しさは低いとはいえ、戦場となった谷を抜けて、追い回されている状況というのはジリジリと精神を削ってくる。
それは総合的な精神の消耗度合いでいうと、救助のそれよりも段違いに磨り減る量は多い。
『そろそろ無人防空網に再突入する。このまま速度を維持せよ。再突入まで数十秒もない、高確率で追手がそこで引き返す可能性が高いからといって、気を緩めるな、引き締めろ』
『『「了解」』』
隼翠隊一番機の航空士、間糠中尉の声に、対応する全員が返した。
肉体への負荷、精神の不安定さに堪えながら飛び続けること更に数十秒。
『無人防空網に突入した。飛び方を変える必要性があるのは分かっていると思うが、行きと帰りで印象の変わる地形があることを空母所属部隊は忘れがちだ。改めて気を付けろ』
しかしながら、追手もこれでこないだろう。
追われるのは本当に神経がやられる。
ほっと一息、吐こうとしたときだった。
再び緊張を促す無線が入った。
『悪い報せだ。追手はまだついて来ている』
「嘘だろ……」
無線を聞き、シゲが呟いた。
ある程度速度を出せるこの機体であっても、ある程度低空で谷の間を縫うように飛ばないと無人防空網に掴まり、被弾してしまう。
少なくとも最高速で劣るであろうあの機体で突入してきたことは、ここまで俺たちを撃ち墜としたいと言う覚悟か執念、若しくは狂気があるのか。
それとも防空網の装置には自国の機体を識別する機構でも備えているのだろうか。
敵味方識別装置は自国や伊銀田、その他の国でも開発されているという装置だが、どの国も正式に実装されたなんて話は聞かない。
実は払綿土軍では実用段階にまで開発されているのかも知れない。
『狂ってやがる……防空網も連中を狙ってるのに……どこまでの執念なんだ』
嗚呼、嬉しいような、悲しいような。
彼らが彼らの防空網に撃ち墜とされる可能性があるのと同時に、彼らが本気で俺たちを狙っているという事実が明るみになった。
どこまでの狂気だ。
――――――ッ……!!!。
甲高い反跳音。
「当ててきやがった……!?」
「まずいな……」
相当驚いたのか、シゲは音のする方に振り向き、大声を上げていた。
それに対して俺が落ち着いて返す。
いつもとは逆の光景だ。
『全機、対地警戒飛行に加え、対空警戒飛行の挙動も加えろ。但し、だからと言って対空砲に落とされるようなことはするな』
隼翠隊からも焦りの声が落ち着くことはない。
最早旋回で追いつかれているのか、敵機の銃声が定期的にはっきりと聞こえるようになる。
いや、それとももうすでに精神が異常をきたし、銃声の幻聴が聞こえるようになってしまったのか。
『こちら幟、被弾している。どうにかならないか』
幻聴ではない。
これが新たな幻聴でも生み出しそうなくらいの動揺があった。
数秒、間をおいて無線が入った。
『城詰機から明元機。主嚮導を任せられるか?』
『了解、任された。だが城詰機は何を?』
『偵察機は攻撃機よりも身軽で、航続距離も長い。落とすことこそ出来はしないと思うが、時間稼ぎくらいはしてやるさ』
『……お気をつけて』
『ないとは思うが、こっちが墜ちたら嚮導は全て任せる』
『縁起でもない』
防空網も半分程まで通過した。
国境はそこからあと少しだ。
逃げる六機に、追う二機。
日は沈み、宵闇はもうすぐそこまで来ていた。




