第8節:【7ヶ月〜8ヶ月/7月〜8月(夏)】 「ハイハイ自力移動」と「山嶺のドワーフ族との極秘交易」
■ 第8節:【7ヶ月〜8ヶ月/7月〜8月(夏)】
「ハイハイ自力移動」と「山嶺のドワーフ族との極秘交易」
【生後7ヶ月(7月中旬・1歳の誕生日まで:あと5ヶ月)】
日差しがギラギラと照りつける7月中旬。最果てのアルカ村にも、青々とした夏の木々の匂いが満ちあふれていた。
ボロ小屋の畳まれた布団の上で、サリマはぐっと四つん潰しの姿勢をとっていた。 小さな腕と膝で床をしっかりと捉え、お腹をぐっと床から浮かせる。
(腕と足の体幹バランス……うん、完璧! ずり這いの段階は卒業よ!!)
右手と左膝、左手と右膝。 交互に床を力強く蹴り出すと、サリマの小さく丸い身体がスイスイと前進を始めた。
トコトコトコ……!
「あらあら、ガノス様! 見てくださいな! サリマが……サリマが完全なお腹を浮かせた『ハイハイ』をしておりますわ!」
かまどで薪をくべていたエリスが、目を丸くして歓声をあげた。
「おおおっ! 本当だ! ずり這いじゃなくて、手足で床を蹴って進んでいるぞ! すごいぞサリマ!」
ガノスも作業の手を止め、膝をついて嬉しそうに手を叩く。
(ついに『自力移動の自由』を完遂したわーーーーっ!!)
胎内での細胞時代から始まり、生後一ヶ月のぐにゃぐにゃだった身体を経て、ついに自分の意思で自由自在に行きたい場所へ移動できる機動力を手に入れたのだ!
サリマがハイハイで真っ先に向かったのは、部屋の隅にある「地下貯蔵穴の隠し床板」だった。
トコトコトコ……パタン。
小さな手で板を叩き、サリマはペタリと直接床板に手のひらを押し当てた。
(ふふふ……これよ、これ!!)
前世の二十九歳社畜バイオ研究者としての瞳が、爛々と輝く。 これまでは親に抱っこされて地下へ連れて行ってもらうしかなかった。だが、自力でここまで来られるようになったことで、親の目を盗んで床板越しにスキル【キン】の波動をダイレクトに地下穴全体へ届かせることができるのだ!
(ターゲット設定:地下穴に保管されている全ての熟成酒の土壺! 雑菌の侵入を生物学的に100%ブロックし、有用酵母の低温発酵スピードをミリ単位で超精密コントロール……!)
手のひらを通じて、微細な菌の波が地下の暗闇へと染み込んでいく。 サリマのダイレクトなサポートを得たことで、地下穴の「熟成酒(原液)」は、雑味やエグみが完全に削ぎ落とされ、王都の最高級ワインすら凌駕する至高の領域へと一気に昇華を遂げつつあった。
「ガノス様……なんだか、床板の隙間から……すごく爽やかで甘い良い匂いが漂ってきますわね」
エリスがクンクンと鼻を鳴らす。
「ああ……。サリマが隠し板に触ると、いつもあのお酒が良い匂いをさせるんだよなぁ。本当にこの子は『福の子』だな」
ガノスが優しくサリマを抱き上げ、頬をすりすりと寄せた。
「あう〜っ! ぶぶっ!」
(ふふん! お父さん、地下のお酒は完璧に仕上がっているわよ! あとはこの最高の知恵と資源をどう使っていくか……ね!)
◇
【生後7ヶ月半(7月下旬)】
流れの冒険者ラグナスたちが外の世界へ広めた「アルカ村に存在する凄腕の解毒・発酵技術」の噂は、思わぬ方向へと波及していた。
アルカ村の裏手に聳え立つ『赤岩山脈』。その深い洞窟の奥に集落を構える、頑固で誇り高き亜人種族——『山嶺のドワーフ族』である。
ある夏の夜。しんしんと静まり返ったボロ小屋のドアが、トントンと低くノックされた。
「……ん? こんな夜更けに誰だ……?」
ガノスが怪しんでサビついた包丁を腰に差し、慎重にドアを開けた。
そこに立っていたのは、人間の大人よりも二頭分ほど背が低く、しかし横幅はガノスの倍近くある筋骨隆々の男だった。胸元まで伸びた立派な赤い髭を蓄え、背中には巨大な鍛冶用の鉄ハンマーを担いでいる。
「おい、人間。お前がこの集落の村長か?」
地響きのような太い声。ドワーフの小頭・バルドだった。
ガノスは息を呑んだ。
「ど、ドワーフ族の方……!? 一体何の御用でしょうか? 俺たち人間とドワーフ族は、お互いの領域を侵さない約束のはず……」
「硬いことを言うな。噂を聞いて出向いてきたのだ」
バルドは赤い髭をワシワシと掻きながら、鋭い眼光でボロ小屋の中を覗き込んだ。
「麓の冒険者どもが騒いでいたぞ。『最果ての村に、毒角大鹿の毒を一瞬で消し去り、天上のものと見紛うような美味い熟成酒を醸す人間がいる』とな。ドワーフの酒好きの誇りにかけて、確かめに来た」
「お酒……でございますか」
ガノスは一瞬ためらったが、バルドの背後に漂う誇り高くも威厳ある雰囲気に覚悟を決めた。
「分かりました。旅の途中の客人です、お入りください。……ただし、代官の手下には秘密にしてくださいよ」
ガノスは地下穴から、サリマが昼間【キン】で超精密調整を終えたばかりの「熟成酒(原液)」を小瓶に注いで持ち破ってきた。
「ほう……これがその酒か?」
バルドは不機嫌そうに小瓶を受け取ると、蓋をぽんと外した。
瞬間。
ふわり……!!
狭い部屋の中に、まるで熟した果実と万物の滋味が凝縮されたような、神聖なまでの芳香が弾けた。
「な……ッ!?」
バルドの赤い眉が跳ね上がった。ドワーフ族は生粋の酒造りの名手でもある。そのバルドの鼻腔が、この液体の異常なまでの完成度を即座に感知したのだ。
「こ、これは……雑穀の酒だと……!? なぜこれほどまでに不純物がなく、香りが澄み渡っておるのだ……!?」
バルドは震える手で小瓶を口へと運んだ。
ごくり……。
「……っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
バルドの手から小瓶が滑り落ちそうになり、慌てて両手で抱え直した! 彼の顔が真っ赤に染まり、目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した!
「う……美味すぎる……!! 美味すぎるぞぁぁぁぁっ!! なんだこの酒は……!? 喉を通る瞬間に火のようなエネルギーが宿り、その後に花畑のような甘みが広がる……! ドワーフが百年生きて醸す酒すら、この一本の前には泥水に等しいわぁぁぁっ!!」
バルドは部屋の中で地摺りのような歓声をあげ、叫んだ。
「人間!! いや、ガノス村長!! この酒をどこで手に入れた!? どうやって作ったのだ!?」
「ははは……我が家で仕込んでいるのですよ。……この子と一緒にね」
ガノスがエリスの横で目を丸くして座っているサリマを指さした。
サリマは無邪気に「あーうー!」と手を振ってみせた。
バルドは膝をつき、赤ん坊サリマの顔を穴が開くほど凝視した。
「この幼子がか……? いや、ただ者ではない気配を感じる……。神の祝福を受けた醸造の奇跡子か……!」
バルドは深く胸に手を当て、ドワーフ流の最高の敬意を示した。
◇
【生後8ヶ月(8月中旬・1歳の誕生日まで:あと4ヶ月)】
ドワーフのバルドとの運命的な出会いは、アルカ村に「劇的な技術革命」をもたらすことになった。
「ガノス村長! 相談がある!」
バルドは数日後、再びボロ小屋を訪れた。今回は背中に巨大な革袋を何個も担いでいた。
「俺たちドワーフは酒に命を懸けている。あの神の熟成酒を、定期的に俺たちの集落へ分けてはくれんか!? もちろん、タダとは言わん!」
バルドが革袋を床にぶちまけると、そこからジャラジャラと転がり出たのは——黒く光る最高品質の『鉄製品』の山だった!
「これは……精錬された鉄のクワに、鎌……それに頑丈な鉄の包丁に斧まで……!?」
ガノスが息を呑んだ。
代官の支配下にあるアルカ村には、サビて刃の零れた古い農具しか与えられていなかった。鉄製品は高価で、代官が村人の反乱を恐れて流出を厳しく制限していたからだ。
「俺たちドワーフは鍛冶のプロだ。こんな鉄具なんぞいくらでも作れる! だが、お前たちのあの酒とジビエ肉は、俺たちには絶対に作れん!」
バルドはニヤリと不敵に笑った。
「どうだ村長? 代官の目を盗み、俺たちの鉄具・鉱物と、お前たちの熟成酒・発酵ジビエ肉を『極秘にトレード(裏取引)』しないか!?」
(きたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!)
エリスの膝の上で話を聞いていたサリマは、心の中でガッツポーズを叩きつけた。
(これよ! これが私が狙っていた『経済的裏ルート』よ!! 代官に頼らず、近隣のドワーフ族と直接繋がることで、生産力と防衛力を底上げするの!!)
ガノスもサリマの瞳の強い輝きを見て、バルドの手を力強く握り返した。
「受けましょう、バルドさん! 俺たちの熟成酒と発酵生ハムを納めます! その代わり、村の畑を耕す頑丈な農具と、狩人のための鉄の矢尻を譲ってください!」
「決まりだ! ドワーフの誇りにかけて、最高の鉄具を揃えてやるぞ!」
◇
こうして、アルカ村と山嶺のドワーフ族との「極秘の裏交易ルート」が正式に開通した。
ドワーフからもたらされた頑丈な鉄のクワと鎌により、村人80人の農作業効率は従来の倍以上に跳ね上がった。土壌改善が進んでいた共有畑は、ドワーフの鉄具によって深くまで耕され、秋の収穫に向けた雑穀たちは見違えるほど青々と力強く成長していった。
さらに、狩人ダンにはドワーフ特製の「鉄の矢尻と頑丈な仕掛け罠」が手渡され、山での魔物狩りの成功率は劇的に向上した。
「見てくれ村長! ドワーフの罠のおかげで、今日も大きな『トゲイノシシ』が獲れたぞ!」
「よし! すぐに解体して、サリマ特製の麦芽と塩で仕込んで燻製生ハムにするぞ!」
村の食料庫には、高栄養なジビエ生ハムと熟成酒がどんどんストックされていった。
ハイハイで部屋中を移動できるようになったサリマは、ドワーフから届いた鉄の道具や食材の保管場所を定期的に見回り、ミクロの【キン】のスキルで雑菌やサビの発生を防ぐメンテナンスを怠らなかった。
(ふふん、順風満帆ね! 畑の作物は絶好調、魔物肉のストックも完璧、ドワーフとの取引で鉄具も勢揃い……!)
サリマはかまどの横で、小さな手足をバタバタさせながら満足そうに「あーうー!」と声をあげた。
しかし。村が急速に豊かになり、活気を取り戻していく裏で、不吉な影が再び忍び寄っていた。
「……おかしいな」
8月下旬、村を巡回していた若い農夫のピートが、不安そうな顔でボロ小屋へ駆け込んできた。
「どうしたピート?」
「村長……山へ向かう街道の遠くに、代官の偵察兵らしき馬の影が見えました。……俺たちの村が最近妙に活気付いているのを、怪しんでいるのかもしれません」
ガノスは表情を硬くした。
「……秋の収穫期が近い。代官の手下どもが、また無理難題を言いに来るかもしれん。全員、ドワーフの鉄具と隠し酒の存在は絶対に口外するなよ!」
「はいっ!」
(出てくるわね……悪徳代官ども……!)
サリマの瞳に、前世アラサー社畜バイオ研究者の冷徹な光が宿る。
(去年は収穫の半分(50%)を年貢として奪われ、お腹下しビスケットでささやかな『ざまあ』をお見舞いしたけれど……。今年はドワーフとの取引品まで隠しているのよ。もし見つかったら村が焼き払われるピンチだわ)
(……なら、今年のビスケットには、去年以上の『強力なバイオの罠』を仕込んであげるわ!!)
生後九ヶ月、十ヶ月へ向かう秋の訪れとともに、代官の抜き打ち捜索という最大の過酷な試練と、サリマの新たな「バイオ仕返し作戦」が牙を剥こうとしていた。
『1歳の誕生日(12月25日)まで:あと4ヶ月』




