第6節:【3ヶ月〜4ヶ月/3月〜4月(春)】 「首すわり・視界の広がり」と「地下穴の低温嫌気カビ危機」
■ 第6節:【3ヶ月〜4ヶ月/3月〜4月(春)】
「首すわり・視界の広がり」と「地下穴の低温嫌気カビ危機」
【生後3ヶ月(3月中旬・1歳の誕生日まで:あと9ヶ月)】
最果てのアルカ村にも、ようやく厳しい冬の終わりを告げる春の兆しが訪れ始めていた。
山々に積もった白雪が日光を受けて少しずつ溶け出し、屋根の茅葺きからはポタリポタリと澄んだ水滴が絶え間なく落ちる音が聞こえてくる。
ボロ小屋の畳まれた布団の上で、サリマは小さな身体をぐっと丸め、ぐーっと自分の小さな首を持ち上げた。
(……ふぅ! 首の骨格と筋肉……うん、かなりしっかりしてきたわね!)
サリマは自分の意思で、ぐっと頭を持ち上げ、左右へと顔を振ってみせた。
生後一ヶ月、二ヶ月の頃は、首がぐにゃぐにゃで寝返りすら打てず、視界と言えば煤けた天井か、自分を覗き込む両親の顔くらいしか見えなかった。しかし生後三ヶ月を迎え、首がしっかりとすわり始めたことで、自分の意思で視界を広く見渡せるようになってきたのだ。
「あらあら! ガノス様、見てくださいな! サリマが自分で首を起こして、あちこちキョロキョロ見渡していますわ!」
エリスがかまどで野草茶を煮出しながら、嬉しそうに声を弾ませた。
「おお! 本当だ! 首がすわってきたな! ほうらサリマ、お父ちゃんだぞ〜!」
ガノスが作業の手を止め、ゴツゴツした顔を近づけて目尻を下げ、サリマのお腹を指で優しくつつく。
「あう〜っ! ぶぶっ!」
サリマは無邪気な赤ん坊の笑い声を上げながらも、心の中では理系研究者としての知性がぐるぐると回転していた。
(首が動くだけで、得られる視覚情報が桁違いに増えるわ……! 部屋の間取り、かまどの構造、お父さんが薪を置く位置……全部見える! これなら、もっと直接的に周囲の環境に働きかけられるわね!)
「サリマ、首がすわったら抱っこでお外へも行きやすくなるな。今日は春の雪解けにあわせて、地下の『保存穴』の様子を見に行くんだが、一緒に行ってみるか?」
ガノスがサリマを優しく抱き上げ、安定した姿勢で自分の胸に抱き寄せた。
(保存穴……! 地下のあの『隠し熟成酒』の保管場所ね! 行く行く、絶対行くわ!)
「あう〜! あう〜っ!」
サリマが必死に両手をバタバタさせてアピールすると、ガノスは「がはは、サリマも乗り気だな!」と満足そうに笑った。
◇
【生後3ヶ月半(3月下旬)】
地下の保存穴は、ボロ小屋の床裏に隠された小さな梯子を下りた先、ひんやりとした静寂の中にあった。
土の匂いと、微かに漂う麦芽の甘酸っぱい香り。
ガノスはサリマを片腕でしっかりと抱きかかえ、もう片方の手でカンドラ(土器の燭台)をかざしながら、ひんやりとした通路を進んでいく。
「よしよし、サリマ。ここが村の命綱を隠してある場所だぞ。代官の手下どもには絶対に秘密の場所だからな」
ガノスが小声でサリマに語りかける。
通路の左右には、村人たちが密かに運び込んだ無数の土壺が、壁に沿って整然と並べられていた。サリマが胎内時代から【キン】のスキルでミクロに熟成を助けてきた、大切な『隠し熟成酒』である。
サリマはガノスの腕の中から、真ん丸な瞳を凝らして周囲を観察した。
(ふむふむ……年間を通じて気温が安定している地下穴。冬の間は乾燥して完璧な保管環境だったけれど……ん?)
サリマの小さな鼻が、微細な空気の変化を捉えた。
(……待って。この匂い……何かしら?)
春の雪解けの季節。外で溶けた雪解け水が土壌を伝い、地下穴の壁面にじわりと染み出し始めていたのだ。
地下穴の湿度が急激に上昇。そして——微かな、しかし決定的な「黒カビの胞子臭(嫌気性腐敗菌の発生臭)」が、サリマのバイオ感覚を刺激した。
(まずい……! 冬の間の乾燥していた時期は問題なかったけど、春の雪解け水が地下穴の壁から侵入して、湿気が溜まり始めてるんだわ! 壁際の特定の壺の周りで、悪性の嫌気性黒カビが繁殖しかけてる!!)
前世のバイオテクノロジーの知見が警鐘を鳴らす。
低温でじっくりと仕込んでいる熟成酒(原液)にとって、悪性のカビや嫌気性腐敗菌の混入は致命的だ。ひとたび腐敗菌が壺の素焼きの微小な隙間から侵入すれば、中の有用酵母は全滅し、酒は酸毒(酢酸・酪酸)の泥水と化してしまう。
(お父さん! 早く気づいて! 壁際の、あの奥の壺の周囲の湿気が危険域に達してるのよ!!)
サリマは必死にガノスの顔を見上げ、「あーうー!」と声を張った。
だが、ガノスはサリマの頭を優しく撫でるだけだ。
「そうかそうか、暗くて少し怖いか? 大丈夫だぞ、お父ちゃんがついているからな」
(違う! 怖がってるんじゃないの! 危機なの! バイオハザード(腐敗)の危機なのよ!!)
サリマは己の無力さに歯噛みした。
首がすわったとはいえ、依然として言葉は出ない。指をさして「あの壺が腐敗菌に汚染されかかっている」と論理的に説明することなど、生後三ヶ月の赤ん坊には不可能なのだ。
(どうする!? どうやって『特定の壺の異常』をお父さんに伝えればいいの……!?)
考えるのよ、茅理紗!
大人の思考で解決できないなら——「赤ん坊の特権(感情爆発)」を全力で使うしかない!!
「ふ……ふぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!(超大音量)」
地下穴の静寂を切り裂くように、サリマは火がついたような大号泣を開始した。
「うおっ!? どうしたサリマ!? 急にどうしたんだ!?」
ガノスが慌ててサリマをあやす。
しかし、サリマはただ泣くだけではない。
身体を限界まで反らせ、両手を壁際の特定の壺の方向へとバタバタと激しく振り乱し、その壺に近づくと泣き声を限界突破させ、離れると少し泣き止むという「極端なリアクション(センサー)」を繰り返したのだ!
「ふぎゃあああっ!(左の壺へ接近)……ひぐっ……(離れる)……ふぎゃああああああっっ!(左の壺へ接近)」
「えっ……? なんだ……? サリマ、お前……この壺が嫌なのか……?」
ガノスが首をひねった。
サリマが必死に拒絶の手を振る先にあるのは、壁の最も湿った凹みに置かれた大きめの土壺だった。
ガノスは不審に思いながらも、サリマを腕に抱いたまま、その壺の前で膝をついた。
カンドラの火を近づけ、壺の表面と周囲の壁をじっくりと観察する。
「……ん? なんだこの壁の湿り気は……? それに、壺の蓋の周りに……白い薄カビが生え始めている……!?」
ガノスがハッと息を呑んだ。
「しまっ……! 雪解け水が壁のひび割れから伝って、ここに溜まり始めてたのか! このまま放置してたら、中の酒が全滅するところだったぞ……!」
(気づいてくれたぁぁぁぁぁっ!! ありがとうお父さん!!)
サリマはピタリと泣き止み、「ヒック……あう」と涙目を拭いながら安堵の溜め息をついた。
◇
【生後4ヶ月(4月中旬・1歳の誕生日まで:あと8ヶ月)】
ガノスはすぐさま村の若い衆であるピートを呼び寄せ、地下穴の大改修に取りかかった。
「ピート! この壁際の一角は雪解けの湿気が溜まりやすい! 壺をすべて中央の風通しの良い架台の上へ移動させるんだ!」
「はいっ! 村長、よく気づきましたね……! 俺たち、冬が明けた油断で地下の湿度のことまで気が回ってませんでした!」
ピートが汗を拭いながら、腐敗しかけていた壺を慎重に持ち上げる。
「俺が気づいたんじゃない……。サリマが教えてくれたんだ」
ガノスが地下穴の入口でエリスに抱かれているサリマを振り返り、真剣な眼差しで語った。
「サリマ様が……? ええっ、赤ちゃんがですか!?」
「ああ。サリマがこの壺の前でだけ、まるで危険を知らせるみたいに大泣きしたんだ。おかげで被害が広がる前に防げた」
ピートは目を丸くしてサリマを見つめた。
「す、凄ぇなサリマ様……。生まれた時から村に甘いお菓子(麦芽糖)をもたらしてくれたと思ったら、今度は地下の熟成酒まで守ってくれるなんて……。まるで神様の使いみたいだ……」
(神様じゃないわよ、バイオ研究者の記憶を持つアラサー女子よ! でも、腐敗を防げて本当に良かったわ……!)
サリマはエリスの胸の中で、誇らしげに「ふふん」と胸を張った。
だが、サリマの真の仕事はここからだった。
表面のカビを拭き取り、風通しの良い架台に壺を移動させただけでは、一度増えかけた嫌気性腐敗菌の胞子を完全に抑え込むことはできない。放置すれば、数週間後に再びカビが繁殖してしまう。
(お父さんたちが環境を整えてくれた……。なら、ここからは私のミクロのスキルの出番ね!)
サリマはガノスに抱っこされ、新しく中央の架台に並べ替えられた壺の群れに近づいた瞬間、そっと小さな手で壺の表面に触れた。
(スキル【キン】——発動!)
サリマは集中力を極限まで高めた。
(ターゲット設定:土壺の周囲および素焼きの隙間! 腐敗を引き起こす黒カビ菌の増殖代謝を抑制! 代わりに、環境に害のない有用な『乳酸菌』と『安全な野生酵母』の占有率を高め、カビの侵入を生物学的にブロック(競争的排斥)するのよ!!)
目に見えないミクロの攻防。
サリマの指先を通じて、微細な生命のバランス調整が壺全体へと広がっていく。
魔法のように一瞬で清浄になるのではない。土の中に元々存在する菌の勢力図をほんの少し書き換えることで、カビが二度と繁殖できない「安全な常在菌環境」を作り上げたのだ。
数日後。
ガノスが再び地下穴の点検に訪れた。
「……不思議だ」
カンドラの光で壺の表面を検分していたガノスが、思わず感嘆の声を漏らした。
「あれだけ湿気でカビかけていた壺が……すっかり表面が乾燥して、カビの跡も綺麗に消えている。まるで、良い菌が悪いカビを追い払ったみたいだ……」
ガノスはそっと壺の肌を撫で、傍らでエリスに抱かれているサリマを見つめた。
「サリマ……お前は本当に、不思議な子だな。村の食べ物も、お酒も、お前が見守ってくれている気がするよ」
「あー……うーっ!」
(ふふん、お父さん! 私のバイオ技術があれば、地下の熟成酒は絶対に腐らせないわ! 代官なんかに渡さない、最高の秘伝酒に育て上げてあげるんだから!)
◇
【生後4ヶ月半(4月下旬)】
春が深まり、村の周囲の野山には青々とした新緑が溢れる4月下旬。
地下穴のカビ危機を乗り越えたサリマは、また一つ大きな成長の段階を迎えていた。
「あうっ! ぶぶーっ!」
「あらあら、サリマったら! ガノス様、見てください! サリマが自分でコロンとお腹をひっくり返しましたわ!」
ボロ小屋の畳まれた布団の上で、サリマは見事に「寝返り」を成功させていた。
「おおーっ! 寝返りをしたか! 成長が早いなぁ!」
ガノスが作業の手を止め、嬉しそうにサリマの元へ駆け寄ってくる。
(ふぅ……! ついに寝返りが打てるようになったわ!)
サリマはうつ伏せの姿勢でぐっと両腕を突き立て、視界がさらに高くなった部屋の風景を見渡した。
これまでは親に抱っこされるか、仰向けで天井を見るしかなかった。だが、自力で寝返りが打てるようになったことで、「自分の意思で身体の向きを変える」ことができるようになったのだ。
(寝返りが打てる……ということは、自分の意思で気になる方向へ身体を移動させる第一歩が踏み出せたってことよ!)
サリマはうつ伏せのまま、ぐっと足を踏ん張ってみた。まだハイハイまでは出来ないものの、お腹を軸にしてズリズリと数センチだけ前進(ずり這い)することができた。
「サリマ〜、お父ちゃんの方へおいで〜!」
ガノスが数歩離れた場所でしゃがみ込み、両手を広げて手招きする。
「あうっ! (今行くわ、お父さん!)」
サリマは小さな手足を懸命に動かし、ズリ、ズリ、と前へ進んだ。
前世では、パソコンの前で画面の数値を眺めるだけの孤独な毎日だった。
けれど今、自分の幼い身体を一つひとつ動かし、家族と触れ合い、自分の知恵で村の食糧と酒を守り抜いている。
(言葉は話せない。身体もまだ満足に動かない。……でも、少しずつ、確実に私は成長している!)
ガノスの懐へたどり着いたサリマは、父親の太い首に小さな手を回し、ニカッと満面の笑顔を向けた。
「がはは! よく頑張ったなサリマ! えらいぞ!」
ガノスがサリマを軽々と抱き上げ、くるくると部屋の中で回る。エリスがそれを見て、あたたかな笑い声をあげる。
降り注ぐ春の陽光の中で、家族の笑顔と、香ばしい発酵ビスケットの匂いが部屋いっぱいに満ちていた。
しかし。サリマがすくすくと成長する一方で、赤ん坊としての避けて通れない「次の壁」が、すぐ目の前にまで迫っていた。
初夏を迎える生後五ヶ月、六ヶ月——そう、「離乳食」の開始と、外の世界からの「流れの冒険者たち」の来訪である。
大人と同じ固形物が食べられない赤ん坊の胃腸に、この最果ての村の粗末な雑穀をどうやって安全に消化させるのか? そして、外からやってきた冒険者たちが持ち込む「毒を持つ高級魔獣」の肉をどう解毒するのか?
サリマのミクロなバイオの知恵と、新たな出会いが待ち受ける次の季節が、静かに始まろうとしていた。
『1歳の誕生日(12月25日)まで:あと8ヶ月』




