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13.交州危機

 264年8月、濮陽興と張布は孫休の息子を擁立せず、孫和の息子で、23歳の孫晧を帝位につける。帝位に相応しい人物としては孫策の長男の孫奉や、孫覇の子供たちが他に居たが、その中でも孫和の息子であることは、呉郡の豪族にとって二宮の対立の出来事からして魅力的な筈だった。

 即位後、順当な昇進が行われた。

 この頃政権を左右していたのは皇帝に上言する役目を持っていた散騎常侍の万彧である。孫休にとっての濮陽興がそうであったように、孫晧が帝位に就く前に交遊関係を結んでいた人物だった。同じ官職に王蕃・楼玄・郭逴がいた。


 9月、皇后には滕牧の娘が選ばれるが、他の皇帝と違って即位前から結婚していたので権力闘争的な背景は無いか。外戚の滕牧は高い官位と爵位を得た。また孫晧が実母である何姫を太后にするために、朱太后は景皇后に降格させられた。何姫の親族は列候となる。

 太子はまだ立てられなかった。ただ幼少だっただけかもしれないし、他に理由はあるかもしれない。

 11月に濮陽興と張布も処刑され、265年には景皇后や、孫休の子供たちのうち年長者二人も殺された。呉郡朱氏の扱いは、朱宣が孫晧の時代に驃騎将軍になっていることから冷遇されたとはいえない。景皇后が処刑されたのではなく、暗殺されたという記述はこのためだろう。

 万彧によって行われた外戚影響力の排除だろうか。いずれにせよ孫休政権からの継続性はここで終わる。名士からなる散騎と、宦官からなる中常侍はこれより孫晧政権の中に食い込んだ。


 魏からの降伏を要請する使者は264年10月に派遣される。彼らは11月から12月頃に呉に到着し、帰順することを求めた。政変後の孫晧政権はこれの返答のために265年3月に使者を送った。これが政変の起きた事情の一つだろう。



 265年9月、西陵督歩闡の進言により、陸凱の反対を抑えて都は武昌に移された。外交的には既に魏と講和を結んでいたにも拘らず、軍事的な要地に移ったのは理解に苦しむ。

 陸凱は当時、巴丘督を担当していた筈である。ある意味、孫休時代の報復のようにも見えるが、陸凱が直接的な監察対象であると看做されたのだろうか。当然ながら呉の中央には殆ど力が残っていないから違うだろう。

 むしろ267年に行われた建業の宮殿新設を踏まえると、当時の建業宮が老朽化したため、武昌宮の再利用が提案されたというべきだろうか。武昌宮は時々利用されていた宮殿だが、ここ10年ほどは使われていなかった筈だった。


 265年12月に魏は滅び、晋が建国された。ただ実際に権力が移ったのはもっと前なのであまり関係ない。司馬昭の慰問に使者を送るなど両国の講和状態は継続されていた。

 266年2月には、呉では晋を攻撃すべきかどうかの議論が行われていたが、結局、翌月には再び使者を派遣している。8月には陸凱が左右丞相の一人に選ばれた。

 266年10月に建業を脅かす反乱が起きると、267年に都は建業に戻されて宮殿が新築される。巴丘督には陸凱と交代で万彧が任命され、陸凱は中央で政務についた。

 陸凱が政権を担った3年間、呉では名士豪族に対する処刑が行われていない(王蕃の処刑は266年正月)。左右丞相の制度下において豪族と散騎・常侍は協力的な関係にあったように見える。監察の排除や徴用の撤廃、推挙制度の再考など陸凱伝に挙げられた20条の案件は履行されていただろう。

 269年11月、陸凱は晩年に彼の支持勢力を陸氏の一族に限らず後任として重用するように願った。そして陸抗は昇進こそしなかったが、荊州西部にある五つの都城の総督となる。



 孫晧が新たに司徒・司空の制度を設置したときに政権の性質は転換する。元々丁固と孟仁は司空の役割を持った御史大夫にいたが、司徒となった丁固は政務を司った。丁固は会稽山陰の人で、元は丁蜜という名だったが、何故か滕密の名を避けて丁固と改めた。

 司徒と司空の設置によって丞相の権限を削ったのか、いずれにしろ中央においては宦官の何定は269年から272年までの間、重要な立ち居地にあった。

 268年9月、呉は晋の合肥・襄陽・江夏へ攻撃を仕掛ける。どうも主要な目的は交州の回復にあったようである。


 交州で呂興の反乱が起きた後、呉は反乱地域を広州として分割した。呂興は魏と連絡していたが、彼の部下に殺される。その後は晋によって地元の有力者の爨谷が交阯太守に任命され、その死後を馬融が引き継いだ。

 268年頃、馬融が死んだ。蜀に駐屯していた晋の将軍霍弋は、後任として楊稷及び毛炅ら将軍たちを交阯に派遣した。晋と呉の戦争はこの緊張によって再開したのだろうか。

 一方、呉は交州の一部を晋に奪われてから、呉領の方の交州では徴用がまともに出来ず、守備隊の規模も減少していた。 呉は戦争の初年に交州に配備していた守備隊が壊滅させられると、九真と日南で楊稷を撃退する271年10月まで積極的な遠征を行うようになる。

 交州戦争中の270年に孫晧は交阯遠征を放棄した将軍の李勗を処刑。さらに271年正月、孫晧は母や后妾ら後宮を引き連れてまで長江を渡河した。孫晧の母は何氏で、大勢の后妾は官吏の娘たちだから危険に曝したといえる。

 中央の権威を知らしめるためか、或いは恫喝的な態度で以って戦争を継続することを強要したのだろうか。


 交州は戦勝に貢献した蒼梧太守陶璜が交州牧に任命されて半ば領主のような形で統治することになり、広州の方では課税もされなかった。呉の政府にとっては有益性は無かったが、大土地所有者には利益があったし、遠方故に中央の統制は効かなかった。



 中央では270年以降、毎年のように要職高官やその一族が配流・処刑されるようになった。陸凱に嫌われていた宦官何定が272年に処刑された。武官の丁奉は彼自身の没後にその一族が配流させられているし、丁奉と仲が悪かったといわれる留平も自殺させられた。

 恐らく中央を強化するために武官に対して積極的に行われた粛清によって、地方の軍事指揮官から中央政府への信用は失墜し、前線に配されていた夏口督孫秀や西陵督歩闡は晋への亡命を選択した。


 272年7月、晋の征虜将軍王渾が呉の国境で威勢を示すと、武昌左部督薛瑩と江夏督魯淑ら10万が弋陽へと派兵された。薛瑩らが戦争に敗れた翌月、右丞相万彧は自殺を強いられ、また西陵督歩闡は使者を派遣して晋に降伏する。


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