12.蜀の滅亡
258年10月、孫綝は孫休政権を擁立し、丞相の地位に至る。その兄弟はみな高官・列侯となり、朱熊の子の朱宣や孫休の庇護者の張布や濮陽興たちも封爵された。また孫和の子孫も封爵される。その他の文武官は順当に昇格した。
この方針は孫綝によって進められるが、孫和派に対する扱いは以前と一転しているように見える。強固な後ろ盾は復活しつつあった。
陸凱は征北将軍となり、陸胤は歩氏の一族と代わって西陵督となり封爵され、顧雍の次男顧裕は父の爵位だった醴陵侯を継ぐことを許された。また大赦が行われて滕胤の一族で配流されていた滕牧が都に帰還する。
孫休は皇后と太子を選ぶのを保留にした。まだ趨勢が決まっていなかったからだろう。太子に関していえば呉都賦にあるように江南では長子相続に限られていなかった。
2ヵ月後、孫休は丁奉や張布と図って孫綝を殺し、その一族を滅ぼした。
孫休が立った後も、孫綝の定めた方針は維持される。陸抗が荊州西部の軍事総指揮の任を与えられ、また陸遜や諸葛恪の名誉回復も行われた。孫峻によって退任された紀陟も官に復帰し、これまでと違って当たり障りの無い中書令となる。
つまり孫亮時代と違い、官位や軍権と言った見える形での豪族への配慮が良くされていた。ただ武官の高位には生え抜きの朱績・丁奉がおり、文官の高位には濮陽興・孟宗といった人々がいて、呉郡の豪族が全てを掌握しているわけではなかった。
陸胤は記録をそのまま読むと、258年に歩協から西陵督の地位を奪ったことになる。
朱然伝には歩協が歩隲の任を継いだとあり、歩隲伝には歩協が死ぬと歩闡が西陵督を引き継いだとある。この翌年には陸抗が柴桑督から遷って西陵督として赴任したと陸遜伝にあり、孫休伝の264年には歩協と陸抗が共に蜀方面へと出陣していて、孫晧伝での265年には弟の歩闡が西陵督を継いでいる。歩協の息子が恐らく若年故に爵位だけ引き継いで督を継がなかったのと同じことだろうか。
259年、孫休は孫亮時代の商業を意識した政策から石高を向上させる政策へと転換していた。これまでの田地の階級付けについて、呉簡の資料によれば少なくとも230年代には既に灌漑設備の有無を区別して熟田と旱田としていて課税額を変えていたという。つまりこのとき実施が決定したのは田地の整備状況の再調査であろう。
この政策を行うには各地の田地を調査する必要があり、陸氏を西陵督として荊州に送ったのは有力豪族に対する田地調査において公正さを得るための手段だっただろう。何度も書くが、陸氏は荊州では影響力を持たなかった。 各地への監察派遣制度は261年に正式に行われる。光禄大夫が各地の太守を査察して彼らの進退を決定した。こうした調査はかつての監察の役回りと似ているものの、調査自体が既に中央の力だけで果たせることではなくなっていたことを示すかもしれない。
同様に、国家事業による開墾作業は疎まれていたようで、260年に濮陽興が干拓事業のため堤防を築くことになると大きな反対を受けたという。
263年には査察の官である察戦を交州に派遣し、交州での動揺を引き起こすことになる。
孫休の妥協的な政権において、外戚を決めるのは容易でなかった。しかし262年には朱夫人を皇后とし、長男を太子に立てる。続いて濮陽興を丞相として丁固・孟宗を御史大夫とする。孫休はここで政務を離れ、張布に官府を任せて濮陽興に軍事と行政を任せた。
孫休は朱氏を厚遇したようで、朱夫人の甥の朱宣には自分の娘を妻に当てている。まだ孫休の娘は15歳に満たないから朱氏との関係を深くすることに努めたといえる。とはいえ朱氏の生き残りの朱宣にはあまり来歴が書かれていない。
復権した呉郡呉県の豪族たちの中で陸氏は荊州におり、顧氏は顧裕がいたが陸氏より官位は低く、張氏では恐らく張儼が官職に復帰したばかりで、最も中央に近いのが朱氏だった。
同郷者の復権に貢献したかもしれない朱氏だが、孫休が政務を放棄し、政治の実権が張布と濮陽興に移された為に権力を振るうことができなかった。
他の特徴として郡の積極的な分割が行われているが、これは反乱との関連が強いだろう。
孫休の時代、蜀との軍事的連携は殆ど見られなくなった。257年の諸葛誕反乱では呉も蜀も便乗したのだが、蜀は諸葛誕救援ではなくあくまで涼州への侵攻を行っていた。勿論、獲得した領地の帰属問題を考えると妥当ではある。
蜀との交流は継続していたが、260年に派遣された使者薛珝は蜀の国政の腐敗を報告する。姜維は258年から262年まで成都に滞在していたようだから、彼のことも含めて説明しているのだろう。
呉の戦争としては、まず260年11月に吉陽督の蕭慎が魏の鎮東将軍石苞に対して偽降の計を用いようとしているが、失敗したというのが晋書文帝紀にある。
次が263年の戦争で、蜀が滅亡に瀕したときの出征だった。
263年5月、魏の鄧艾と鍾会、諸葛緒率いる軍勢が蜀に侵攻する。
10月、蜀から呉に魏の侵攻の知らせがようやく届いたが、呉が戦争準備をする間に蜀は降伏した。成都は何の防備もしていなかった。
翌年になり、呉の歩協と陸抗らが巴東を攻める。巴東の守将羅憲は降伏を望まず包囲戦になった。前部分の通り庇護者が期待できない限り呉に対して降伏することの利点はあまりなかった。
7月に魏の軍勢が羅憲の救援に駆けつけると、陸抗らは撤退した。
一方、荊州南西部の武陵では魏の郭純の扇動によって五谿の異民族が反乱を起こす。また交州では既に反乱が起きていて、反乱軍が魏の霍弋に使者を派遣している。
263年、交阯太守孫諝による徴用令は熟練した工人に対して行われた。工人たちは建業に派遣される。工人は手工業関係の技術者を示し、公営事業において将作大匠の傘下に置かれる。このときどういった事情で労働力を必要としたのかは判らない。一応、陳留王紀には民衆を徴発して兵士にしたともある。
同様に当時、交州に派遣された察戦が孔雀と大猪を調達させて建業へと輸送する苦役を強いた。建康実録だと孔雀は3000羽用意されることになったという。
交阯郡の官吏であった呂興は蜀滅亡の情勢を見て、交阯太守孫諝及び察戦の鄧句を殺し、反乱を起こす。九真郡と日南郡はこの反乱に呼応した。
魏の霍弋は呂興の救援要請を受けて交阯郡へと援軍を派遣する。
さらに264年4月には魏の軍勢が杭州湾南岸にある会稽郡の句章へと渡航して襲撃した。7月には海賊が杭州湾北岸の海塩県を襲い、司塩校尉駱秀を殺した。
264年8月、危機と混乱の中で孫休は病死した。子供はまだ幼く呉の将来は不安視されていた。




