11.地方と中央の乖離
孫亮が呉の皇帝に即位し、文武の官の昇進が実施された。昇進傾向は出身に関わらず順当に見える。丞相は置かれず、諸葛恪が太傅という地位で実権を握った。まだ孫亮は10歳に満たなかったから摂政と同義だろう。
ただ諸葛恪は武昌に駐屯していたから、首都移転を計画しつつも、今のところ首都の建業では滕胤らが事務を担当した。
初年は徳政令と関税撤廃を実施し、有力者の関心を得ることに努める。多くの外戚の中でも彼の官位は高かったが、他を圧倒するだけの十分な威勢や求心力はまだ無かった。
徳政令は大商人に対する圧力であり、大きな取引をしがちな豪族にとって有益だった。一方、関税の撤廃は商人にとって有利で、商業活動は奨励される。多くの物産が行き交う利点があり、官吏や地主階級を商取引に導いて貨殖させた。ただし経済発展における相対的な影響力はまだ低かった。
諸葛恪は同じ武昌に配置されていた斉王孫奮や、虎林の琅琊王孫休を地方へと異動させる。国境地帯から外された王たちに軍事的な権限はなく、郡の太守より立場は弱かった。そうして南郡公安以東の軍政はほぼ外戚に掌握された。
この政権を築くのに大きな役割を果たしてきたはずの中書令の孫弘は、諸葛恪に殺された。また地方の監察は廃止される。中書令の官職は存続したが、その強い権限は失われ、有力者に対しての厳正な徴収が行われなくなった。中央の有力者たちの権力闘争は、彼らの私財の増大に比例して過激化して行く。一方で監察による抑圧から解放された地方豪族は復権の兆しを見せた。
代替としての監察機関である大中正はいつ頃かに魏の大公平を模倣して設置されたが、その官職は大公平と同様に、地域の有力者が選ばれる仕組みになっていた。
252年4月、魏では孫権の死に乗じる侵攻計画が上表されていた。対して10月には諸葛恪が揚州江北の東興に進軍して堤防と砦を築く。
12月に魏は東興、武昌、江陵の三方面から侵攻し、荊州の戦力を押さえ込みつつ東興の堤防と砦を破壊する作戦に出た。この堤防はかつて武昌から建業に都を移したとき、巣湖(合肥付近)から濡須への水運を遮ることで都の安全を確保するために築かれたものだったが、恐らく233年に合肥を攻めるときに取り払われていた。
諸葛恪は4万程度の戦力で魏に勝利し、その機に乗じようと画策する。しかし呉の有力者たちは総力を挙げて侵攻することを望まなかった。
続く253年、弟で公安督の諸葛融には魏の西方を攻めさせ、蜀の姜維とも連絡して南安を包囲させた。諸葛恪自身は合肥の戦いでは20万の軍勢を率いるも疫病で兵卒の大半を失い、その威勢を全て失った。孫峻、朱績、全熙、孫壱らによってその一族は滅ぼされた。
253年10月、孫峻が丞相となって政務を引き継いだ。孫峻が築いた新たな体制は、より内向きになる。諸葛恪が死ぬと、その親戚だった南陽王孫和も処刑された。続いて斉王孫奮の廃位、孫登の息子の呉候孫英の処刑、さらに255年には従兄弟の無難督孫儀及び朱公主の処刑が行われる。
孫峻の政敵は同族だった。敗戦によって孫亮の正統性は弱まったのは確かだろう。王族の支持者である有力者たちは近しい王族を皇帝に立てることで中央での地位を獲得しようとしていた。
255年、毋丘倹と文欽が魏に対して寿春で反乱を起こす。孫峻は後詰めとなり、驃騎将軍の呂拠が主力を率いて毋丘倹の救援に向かった。呂拠は孫峻の従姉妹の夫に当たる。
呉にとって寿春を獲得する大きな機会であったが救援には間に合わず、撤収中に追撃を受けて留賛が戦死し、文欽は呉に降った。
孫峻は中央で敵対する勢力を破るため文欽を受け入れるが、降将の文欽は重臣たちからは歓迎されなかった。呉において頻出するこうした扱いは、他国からの降伏者をたびたび反逆に導いている。一応、文欽は後の258年の諸葛誕救援戦で戦死する。それはともかく呉は他国へ降伏することについて魏よりずっと抵抗があったように見える。
孫峻は256年に死に、この政権が抱えていた課題も持ち越される。
孫峻の死後、従兄弟の孫綝が政権を握った。
孫綝は呂拠や滕胤など外戚を排除して、自身の兄弟たちを高官に任命する。ただ外戚でも血縁のある全氏と呉郡朱氏は扱いが異なった。しかしその一方で生え抜きの武官丁奉だけでなく、呉郡豪族と関わりの深い陸抗、華融、孟宗らも貴顕な官に至っている。華融は元々張温に推挙された身で、孟宗は朱拠の配下だった。
また257年、会稽南部から鄱陽にかけての反乱が起きている。揚州において久しぶりの反乱だった。
これまで飢饉が時々発生していたにも拘らず、揚州反乱は20年近く起きていない。鍾離牧伝では戦後に山越の民を兵役に充てているから発端は徴兵だろう。この頃、積極的な徴用が再開したように見える。
政治方針の転換は起こりつつあったが、中央の指導者層はまだ権力闘争の渦中にあった。
当時、外戚で最も威勢のあった全氏は一族同士で訴訟争いをしていた。原因は全琮の子の全緒がこの頃に44歳で没したためだろう。諸伝にある亡命者リストからは省かれている。全氏のうち全琮の家系は、魏で起きた諸葛誕による反乱の最中に魏へと亡命した。
一方、孫綝は朱異を命令違反したとして処刑している。呉郡朱氏のうち朱拠の家系は、従姉妹が朱拠の息子(朱損)と結婚していたから孫綝の外戚であったが、朱異とは血縁が無かった。
朱損と朱熊が孫亮によって処刑されると、孫綝はクーデターを画策した。
258年、全尚親子が孫峻に対してクーデターを起こすも失敗し、配流させられて全氏は没落した。全氏が衰亡すると孫亮は廃位されて会稽王となり、后の全夫人と共に配流された。
そして孫綝は呉郡朱氏と関わりの深い孫休を擁立する。孫休は孫綝にとって同族と言うより、従姉妹の夫である朱損の義兄弟に位置した。同姓同士では結婚しないからこれが一番近い関係だろう。




