10.大皇帝の死
新体制の丞相として歩隲が選ばれた。呉郡呉県の人物では朱拠が昇格していて、また朱異の方は記述にずれがあるようではっきりしない。顧氏の一族は官職表から消えていて、陸氏では陸胤と陸凱が辺境に送られている。
陸抗は5000の兵を陸遜から引継いでから諸葛恪と交代で、武昌から移って柴桑に配置された。柴桑は国境よりかなり後方で、少なくとも250年までは重要な地域ではなく、陸抗が遷ったときも整備されていなかった。
全琮、呂岱、朱然が昇格し、先の論功で不満を抱いていた全緒は雑号将軍となる。政権の中心は孫覇派にあるものの、その中に諸葛恪が紛れていた。
歩隲は247年に没したが、その後任の丞相は判らない。ただ朱拠が249年7月の祭祀のとき丞相代行をしている。呉郡朱氏の特別な立場も血縁関係に基づく。朱拠の子供の朱損が孫峻の姉妹と結婚しており、孫峻のもう一人の姉妹が全尚と結婚していた。全尚は全琮の同族である。
朱然は南郡に留まって歩隲死後の荊州を任される。諸葛恪が武昌に、諸葛融が公安に、歩協が西陵に置かれていて、彼らの指揮も任されていたが名目的なものだったようで、朱然の任務を引き継いだ朱績は命令を無視されている。
戦争はときどき行われている。魏では国内で淮南の放棄が提案される程度に不安定な状態にあったためか、246年の戦争では朱然が柤中で人的資源を万単位で得ていた。
呉の国内では248年に、交州に派遣されていた陸胤が反乱を鎮めて8000の兵を傘下に加えている。中書令孫弘による屯田民からの義兵徴用は、彼らの力の増大を避けるためかもしれない。
孫和の処分は延期されていた。孫和を廃して孫覇を擁立しようとしていた全琮たちは孫和の後援者を排除したことで満足していたし、諸葛恪が孫和の親戚だという理由もある。
孫覇の扱いも変わらず、彼が皇太子に立てられる事は無かった。
権力構造が変化したことは、246年に大銭が廃止されたことからも推測出来る。高額通貨の廃止は土地取引を困難にして、高官職から追い出された呉郡豪族が揚州にある彼らの地盤によって復権することを抑えることが期待できた。特に陸遜は晩年に私財を残さなかったことから、復権することは無いように見えた。
勿論、理想は現実に反映されるものではない。
高額通貨は庶民には勿論無関係で、晋書食貨志には余りにも高価で実用性が無く、人々の間で煩いとなっていたと評されている。これは大銭から銅銭などへの換金が容易でなかったことを示す。
249年に没した朱然の墓の出土銅銭に大銭が存在したことからも、高額通貨の供給自体は断たれたとしても、富者に限れば使用に耐えなくなるまで私的な運用が続いたことが察せられる。呉郡呉県出身を除く有力者も私的に高額通貨を保管していて、彼らの財産を保っていた。
249年、朱然と全琮が没すると、再び政権は揺らいだ。文官トップの丞相不在の中、武官のトップ二人が亡くなると、孫覇派の中からは諸葛恪を抜擢せざるえなかった。実際のところ武官最高位である上大将軍の呂岱はまだ存命だが、もう90歳近い。
250年、派閥対立の再発を防ぐために、後継者の変更が提案された。孫権の子供には孫休、孫奮、孫亮がいたが、現在の政権に於いて最も望ましいのは全尚の娘と結婚した孫亮だった。
8月、対立構造として利用されていただけの孫覇は処刑され、彼の宮に侍っていた有力者の子弟たちである楊竺・呉安・全奇・孫希の4名が処刑された。諸葛恪の長男の諸葛綽は処刑を免れたが、諸葛恪に殺された。
孫和は幽閉されて名目上の南陽王となり、孫休と孫奮にもそれぞれ王位が与えられて虎林(丹楊北部)及び武昌に置かれる。孫和の幽閉に反対した朱拠は左遷されることになり、孫弘の活躍によって10月に処刑された。
こうして二宮の変の第二幕が終わる。
朱拠の立場は、その翌年の251年に娘が孫休と結婚しているところからみると判然としない。多分、孫亮の正室に関して不満があったのだろうか。わからない。一応、孫亮自身は彼の妻である朱公主の兄弟になる。また朱拠の娘はこの後の251年には孫休の后になっている。
11月に孫亮が擁立されると、名士と江北豪族たちによる政権は短期間に終わり、諸葛恪、滕胤、孫峻、全尚、呂拠らによる外戚政権が約束された。
250年の末、魏ではようやく内訌が終息し、外征に目を向けるようになった。10月に文欽による偽計が失敗すると、翌月に王昶が呉領の荊州の江北地域を奪うため南郡へと進軍する。
他方、蜀では246年に蒋琬が死んだ。247年に費禕が地位を継承してから戦略が修正され、侵攻計画は涼州一本に絞られる。
248年には漢中に駐屯し、249年には魏から夏侯覇が投降して姜維に節が与えられた。その秋の戦いで魏に大敗し、費禕は魏との戦争を取り止めた。しかし費禕が主力軍の指揮権を握り続け、姜維が軍事行動するときは1万の兵力だけを貸し与えた。
蜀の支援は期待できなかった。
複数の戦線で行われた会戦では呉が敗れ、安北将軍譚正が捕虜となって2人の将軍が戦死し、数百の犠牲者と数千の捕虜を出した。魏は長江渡河に成功するものの主要な都城を攻め落とすことに失敗し、江北地域を奪い取ることを諦めた。
この後、荊州方面の国境地帯には魏の砦がいくつか築かれ、呉の軍勢が江北に出ることを阻害した。
251年末、孫権は病に臥せる。減税を行い、また翌年には大赦や祈祷師に頼るも孫権は71歳で死んだ。
252年4月、大皇帝という諡号が贈られ、亡骸は歩皇后と潘皇后、そして孫登の眠る蒋陵に葬られた。




