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14.孫呉王朝の終わり

 陸抗や孫遵ら荊州の駐屯していた戦力及び留慮や朱琬ら中央から派遣した戦力によって晋の軍勢は撤収し、歩闡の反乱は鎮圧された。陸抗が存命であっても荊州に置かれたため、中央にいた呉郡出身の韋曜は処刑されている。

 陸抗が274年に没すると、孫晧は陸凱の一族を配流し、陸抗の子弟は陸抗の兵士を分割相続した。分割相続は異例であり、陸氏の軍閥化を警戒していた孫晧に対する配慮だろうか。或いはまだ子供たちは最年長でも10代前半で大軍を引き継ぐべきではなかったが、代理として適任者がいなかった。


 孫晧は、多くの子供たちに王位と3000の兵士を与えている。王の称号はみな国外の領国の名を冠していて、多分これまでに取り潰した諸侯の爵位をそのまま与えていた。

 豪族傘下にある筈の屯田兵たちが宦官たちの募兵に集まる傾向がある一方で、豪族側からは都へ物資を運ぶ労役を非難されていた。


 孫晧時代の大赦はそれまでに行われてきた大赦と違って頻繁であり、説明できないものが多くある。孫権時代には皇帝の即位、太子・皇后選定の記念や病気や災害を受けての祈願、そして大規模工事のための労働力の確保があり、孫亮・孫休の頃には権力闘争の激化を受けて、一部の罪人を赦すことを目的とするものもあった。

 改元と大赦は蜀書の後主伝で触れているように強く結びついているが大抵は上記の理由が背景にある。275年以降の3年連続の改元時期を含め、この頃は有力者の処分であったり、地方の軍事指揮官の亡命が多発していた。呉書には276年に京下督の孫楷が亡命したことだけがあるが、晋書武帝紀では274年に厳聴・厳整・朱買・孟泰・王嗣が亡命し、277年に邵凱・夏祥が亡命し、278年に劉翻・祖始が亡命している。



 278年、大赦によって陸凱の一族は赦されて中央に復帰し、列候に封じられた。当時、中央政府の要職には呉郡の豪族はほぼ不在で、中央にいた顧栄も身を慎んで角が立つのを避けたという。

 外戚の何氏は呉の末年において大きな勢力を持っていたという。これまで列候になりながらも殆ど存在感が無かったように見えるから、末年に台頭したということだろう。

 九卿の同僚である岑昏も苦役を強いた人物として描写されているが、似たような扱いでいいか。彼については悪評だけでなく、張紘の孫の張尚の助命を嘆願したこともある。


 279年、広州での徴税が行われようとしたとき反乱が発生する。8月には討伐軍が派遣されることになったが、徐陵督の陶濬は武昌で進軍を止めた。弟の交州牧陶璜の軍勢だけが討伐に向かい、反乱は鎮圧された。

 陶濬の予定進路は西道であり多分荊州から南下して向かう予定だったのだろうが、このとき晋軍の襲来が知らされた。



 晋は274年に枳裏城を攻略し、278年10月には応綽が揚州諸軍事王渾の命を受けて皖城を攻略する。王渾の敵情視察を受けて、呉を滅ぼすための計画が羊祜を中心にして立てられていた。

 しかし羊祜は278年11月に病没し、その任務は杜預が引き継ぐことになる。呉の軍勢は精強であると考えられていたが、兵力自体が不足していることは晋にも察知されていた。


 279年11月、晋は呉に6方面から侵攻した。

 全ての前線で呉の軍勢は敗北する。武昌と夏口では戦うことなく降伏。武昌にいた陶濬は建業に赴いて水軍の準備をするも、兵卒たちはみな逃亡する。

 呉の丞相張悌や無難督孫震は牛渚で戦死。西陵督留憲・征南将軍成璩・西陵監鄭廣は西陵で戦死。中夏監(水軍督)陸景・夷道監陸晏・宜都太守虞忠が宜都で戦死。吳都督孫歆は楽鄉で捕虜になり、江陵督伍延が江陵で戦死。平西將将軍施洪は降伏した。

 橫江では牙門将孔忠が敗北して周興らが捕虜になる。高望では俞恭が敗北し、暦武将軍陳代と平虜将軍朱明が自ら降伏して捕虜になった。


 軍隊の敗北の要因には、兵卒の士気の低さが指摘されている。一方、姓で判断する限り吳郡豪族は勿論、多くの武官将校が逃亡せずに戦った。それなら278年の陸氏復帰は、孫晧政権の妥協によって求心力を回復させようとしたことを示すのだろうか。勿論、揚州にのみ影響力を持つ陸氏の亡命は考えられなかったが。

 壊滅的な状況は好転しない。豪族の復帰は方面軍の亡命問題を解決したが、庶民への搾取を再開させたし、中央による彼らの徴兵や徴用を妨げた。互いの利益はかみ合わず、妥協を除いて政体の維持は困難だった。



 280年3月、孫晧は降伏して呉は滅んだ。282年には呉の元の将軍が反乱を起こしているが間もなく鎮圧される。

 名士や豪族たちは故郷に帰って隠遁していたが、陸機らは晋の光祿大夫張華の薦めを受けて故郷に思い入れを抱いたまま都へと移住した。

 揚州は揚州刺史周浚の統治下に置かれ、交州では陶璜がその支配を継続することが許される。周浚は後に揚州諸軍事となり揚州の軍政を握った。


 孫晧は洛陽に移されて数年で死んだ。多くの子供たちがどうなったかは判らない。

 一応、晋代において孫氏の同族では孫賁のひ孫の孫惠や、孫秀のひ孫の孫晷、また同郡同県出身の孫拯が官途に就いている。しかしそれは江北の混乱を受けて任官した者や、すでに洛陽に移っていた吳郡豪族によって召された者で、彼らの任官は孫氏自身の力によるものではなかった。これは帝位を失った孫氏への信頼や配慮が継続していたことも示すか。


 江南では、外戚何氏や宦官など宮廷の権威に依存していただけの有力者が姿を消す。

 孫呉の豪族や名士の一族のうちでその当主は大体洛陽に行ってしまったが、陸瑁の一族や顧氏の傍系は江南に残って活動しているし、南朝劉宋の頃には張氏や朱氏も再び現れる。

 晋が天下を平定すると税制は統一された。晋書食貨志には布と米の課税方式が記されている。少なくとも田地に対しての貨幣による徴税は殆ど無かった。とはいえ貨幣経済は継続し、東晋時代には呉の時代の通貨が用いられていたという。この制度において遠方の地は減税対象だった。江南が対象だったかは判らないが、実施されていれば呉の頃と比較すると軽い税制になっただろう。

 こうして晋成立による恩恵は江南豪族に降りかかった。


 307年に八王の乱を受けて司馬睿が建康に渡ると、江南の豪族たちは当初彼への支持の可否を保留した。揚州諸軍事周馥は周浚の同族であり、彼自身の自立を目指す立場に対して司馬睿の立場は競合していた。

 江南の豪族たちは自身の力にある程度の自信を持っていて、彼らの判断がこの事態を左右した。

 316年に西晋が滅亡して司馬睿は元帝と称し、東晋が成立した。多くの移民名士が北方から逃れてきて地盤の無い彼らが政権運営に参与するとき、江南豪族の力を後ろ盾にするために、かつて孫権政権で進められた妥協方針を踏襲しなければならなかった。

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