幕間:和葉 3.行った先に待つものは。
栗花落ビルの薄暗い階段を一歩一歩、ゆっくりと上がっていく。期待と不安が階段の段を重ねるにつれて大きくなっていく。この階段はあと何段あるのだろうか。段を上りきるまでに、このはち切れそうな胸が持つのだろうか。鼓動が早まっていく。息切れするのではないかと思えるほどに呼吸も早まっていく。
何よりも、切れ端のメモによれば最上階である五階にそのネコジシ商会があると書かれているので、そこまで階段を使って上がっていかなければならないということが、拍車をかける。運動が苦手というわけではないし、身体的に階段を上るに不都合というわけでもない。ひたすら上っていくことが、心境と妙に相まっていくので困ったものである。
かといって、エレベータのひとつでもつけてほしいとぼやいたところで、古い雑居ビルに求めるものでもない。
なので、諦めて上がっていくしかない。
五階へと辿り着くころには、深々と息をつくほどに疲れてしまう。これから話を聞かなければならないのに、この調子ではどこまで持つのかさえ不明瞭だ。
物悲しい廊下が伸び、その先にスチール製のドアが見える。ドアの前まで歩めば、そこに黒猫のエンブレムと「子子子子商会」の文字が描かれている。他には何もなく、せめて呼び鈴でもあればと思いながらもドアノブへと手を伸ばす。鍵はかかっていないようで、回せばすぐに開いた。
ドアの向こうには二人。一人は白髪の男。左半面に大きく走った傷跡が何よりも目立ち、厳格さの滲み出た表情は修羅道を歩んできた者を思わせる。もう一人は――心臓が高鳴る――ここへと来る前に見た深紅の髪の女。髪の色が奇抜だからということではないだろう。その女の持つ雰囲気を感じ取って、思わず身震いをしてしまう。こうして改めて見ると、存在が奇異すぎるように感じられた。
そして、険悪な雰囲気が二人の間にあった。とても入り込めそうな状況にない。話を聞きたいなんて言えるところじゃない。だが、ここまで来たのに何も得ないで帰るわけにもいかない。
「客人――」
男が和葉へと見やり、口を開く。
「先客があってな、中で待っててくれ。その辺の椅子、勝手に使ってくれて構わねえからよぉ」
そう言って、女へと視線を戻す。
「生憎とよぉ、この店はもうワシのもんじゃねえんだ。孫のネネコに譲っちまったんだよ。なのに、ワシに言ってきてもよぉ」
男は煙草の箱を手に、トントンと叩いて一本を取り出す。
「あなたは、この街を統治していると聞いている。だから、あなたの力添えをと思って、ここまで来たの」
女の声は、その見た目――赫々と燃え上がるような髪の色とは逆に、とても冷たく響いて聞こえる。
「そんなことを言われてもよぉ。この街を牛耳ってるわけじゃねえぜ。この界隈をまとめてたのは確かにあったけどよぉ、昔の話だ。こんな老いぼれのワシに頼むよりも、矢鮫のババアと栗花落のババアに頼んだ方が早いだろうに」
「矢鮫組はまだですが、栗花落の仲介の方からあなたの返答次第だと伝えられたの。だから、こうして願い来たのよ」
張り詰めた雰囲気なのに、どうしてかそれを確定するに至らない。女の口調と雰囲気がそう思わせるので確定していいはずなのだが、男の持つ雰囲気がどうしても不確定の要素を持ってきてしまう。何がそうさせるのだろうか。見た目はどう見ても構えない方がおかしいだろと思わんばかり。となれば、男の口調、持つ雰囲気だろう。飄々と、まるで柳の枝のユラユラと揺れる掴みどころのなさが場の雰囲気をあべこべにさせようとしている。
何とも気味の悪い、と顔をしかめてしまう。
「栗花落のババアめ、こういうことに関して無頓着すぎる。この辺の土地の多くはババアの持ち物だっていうのによ。入ってくる者出て行く者は拒まねえ主義ってえのも、考えものだな。というか、面倒くさいことを他人に押し付けてるのか、あのババア。今度家賃を負けてもらわなきゃならんな。
んで、それよりお前さんが何でこの街を選んだのか気になるのぉ。咲耶家といやぁ山の中ででっけぇ屋敷を構えた名家だろうによぉ。都会にでも憧れたのか? 都会なら、ここよりもいいところなんていくつでもあるだろうによぉ、咲耶霞さんよぉ?」
男は呆れ加減に煙草へと火をつけて、紫煙を天井へと吐き出した。
「私は家を出た身。咲耶の姓を使っていても、家とは関係がない。そして、〝私のような者〟でも住める場所を探していたの。ここは私にとって住まうに適していると思ってのことよ。他に深い意味はないわ」
「家を出たねぇ――まぁ、ワシからはともかく言えることはないのぅ。どこに誰が住もうと知ったことではないからよぉ。となると、矢鮫のババアの判断かのぅ」
「ですが、あの人は飽くまで〝人を束ねる者〟。〝私のような者〟は、あなたのような人でなければならないと思っています」
冷たい口調がどこまでも続いていたと思ったが、こればかりは実に男へと伝えようという意思が和葉にも伝わってくる。それだけ真剣な話なのだと分かり、だからこその張り詰めた雰囲気がいつまでも消えないでいるのだろう、と。
「困ったのぅ、引退した身なんだがよぉ――」
男は唸るようなため息をついて、煙草を灰皿へと載せて、女――霞から和葉へと視線を移す。
「嬢ちゃんの件はちぃっと時間が欲しいな。その前にこっちの話を済ませちまおうか。で、お前さんはどんな用でここへと来た?」
席を立って、和葉の前へと寄ってきた。
「生憎とこの店を預かっている孫はおらんし、店番頼まれてるはずのチビジャリもどこかで遊び呆けておらんからなぁ。仕方なくという理由で店番代理のワシが話を聞くことになってんだがよぉ」
男は和葉の肩へと手をやり、近くの椅子へと座らせる。そのまま手を離すこともなく、見下ろしてくる。
和葉は言葉に詰まった。不可解な物について教えてほしい、と率直に聞いていいのだろうか。聞いたところで答えてもらえるか分からない。それどころか何のことを聞いているのかと逆に問われてしまうかもしれないという恐れがある。かといって、不可思議な物を別のたとえにして言うにしても、うまく思いつかない。いっそのこと魔法なんて言葉を使おうとも考えたが、なおさら呆れられてしまうことだってあり得るだろう。
「用があるんだろ? その用件を言えばいいんだがなぁ。用もないのにここへと訪れるもんなんていねえからよぉ」
男は首を傾げる。和葉は俯き、言葉を出せない。しかし、何のためにここへと来たんだと自らに言い聞かせて、頭を上げる。
「聞きたいことがあって、ここへと来ました。ここへと来れば教えてくれると聞いたので」
「ほぅ? こんなところに来て教わるようなことがあるのかのぅ? そういうことを誰かに言われたのか? というか、聞いたから来たんだから、誰かが言ったのか。で、誰だ?」
「え? えぇ、はい。その、僕の友人に……」
浄一の名前を出そうとしたところでためらった。素直に出してもいいものなのか、これで浄一に何かあっても困る。なので、名前は伏せておこうというのである。
「そいつの名前は?」
しかし、男の目がそれを許してくれそうにもない。
「ほれ、答えんか。其奴にここのことを教わったのだろ? ここはな、お前さんのような〝一般人〟の来るようなところじゃねえんだよ。なのに、ここに来て教えてくれってぇのは――」
目に声に重圧を覚え、和葉は動けない。息苦しい。答えないとこのまま窒息してしまいそうな恐怖がある。
「水地浄一……彼に教わりました。ここへと来れば、僕の知りたいことを教えてくれると言っていたのです」
もう逆らうことも叶わず、口が動いていた。意識ではどうすることもできなかった。
「ほぅ、あの茶坊主か。己の立場を分かっておるから、節操のないことはせんだろうがなぁ。あの茶坊主が教えたというのなら、信用してもいいかもしれんなぁ」
男は和葉から目を離し、霞の前へと戻っていく。今度は霞の鋭い視線がとても痛い。敵意なのか、視線が鋭いだけでそう感じてしまっているだけなのか。
「お前さんから見て、あの坊主は〝狩る〟対象か?」
「ただの〝一般人〟じゃない。〈異端〉に堕ちてもいないのに、狩れるわけがないわ。でも、こちら側を知ろうだなんて、褒められたことでもないけどね。あんな〝曖昧な物〟、知らない方がいいのに」
霞はパイプ椅子を手に、和葉と離れた位置の壁際へと置いて座った。
二人が何か物騒なことを言っているようなのに、和葉はうまく理解できていない。霞の視線がそれを認識させてくれないようだ。
「だが、知りたいと言うんだから、教えてやった方がどうであれ手っ取り早いだろうよ。そのあとは坊主次第だしなぁ」
再び男の視線が向く。二人同時に見られると、圧迫感がより強くなる。とてつもなく強い向かい風が吹き飛ばそうとしているかのよう。
「さて、理由を聞かせてもらおうか? ただの興味本位で知りたいとは思わんだろうからなぁ」
男がパイプ椅子を手に、和葉の前へと置いて座る。
「僕は、母のために――」
和葉は言われるがままに、少女と出会った時のことを男へと話した。
「――さて、どこから説明すればいいんだかなぁ」
和葉の話を聞き終えた男は、立ち上がるとスチールデスクの前へと歩む。その上にある灰皿から煙草をとり、長々とついた灰を気にすることもなく三度吹かすと、紫煙を天井へと放ってから和葉の前へと戻ってくる。
「ねぇ、私にも一本貰えるかしら? ちょっと落ち着かなくて」
横槍というわけでもないが、霞が焦れったそうに言葉をかけてくる。男は煙草の箱、ライターと放っていくと、霞は器用に受け取って一本取り出して火を灯し、紫煙をまとってぼんやりとしている。和葉と男の話が終わるまで煙草を喫んで待っていようというのだろう。
「そんな煙草如きで〝抑えられる〟とは思えねえがなぁ」
「暇を持て余してイライラしているよりか、気を紛らわしている方がいいと思っただけよ」
霞は相手にしないでくれと言わんばかりにそっぽをむいて、煙草の火を赫々と灯す。
「ま、そう言うのならいいか。――さて、話の続きといこうか。お前さんの知ろうとしていることはなぁ、正に曖昧なもんなんだ。その辺りは、茶坊主から聞いているんじゃないのか?」
「〝奇蹟〟のようなもの、とても信用ならないもの、万能でもないとも言っていました。ですが、僕には必要なものだと思っています」
率直に返す。
男はふむと頷き――
「〝奇蹟〟なんて曖昧な物に頼るなんてやめておけ。関わっても幸せにはなれねえ。不幸になるのがほとんどだ。ワシは好きで関わっちゃいるが、そこの嬢ちゃんは不幸になった例だ」
脅しのつもりなのか、単に事実を述べているだけなのか。男は霞を親指でさす。霞は話の引き合いに出してほしくなかったようで渋い顔をしている。一見どこが〝不幸〟なのかが分からない。髪の色は、どう見ても染めたものだ。〝不幸〟なんてものが原因とは思えない。霞の持つ雰囲気といえど、霞自身が周りに敵意に似た雰囲気を出しているからであって、それも〝不幸〟と呼べるものか怪しいものだ。
どのような〝不幸〟なのか考える間もなく――
「お前さんはそんな世界に足を踏み入れようとしているんだ。悪いことは言わねえ。今のうちに引き返した方がいいんだ。第一、楽して〝奇蹟〟なんぞ手に入れても、何にもなりゃしねえぞ。悪銭身につかずって言うだろ。金でなくたって、同じことが言えるのが世の中ってもんだろ」
男の説得が分からないわけではない。それを分かった上でこうしてここにいる。だから和葉は真っ直ぐに男を見据える。
「それでも僕は何としても知りたいのです。たとえ、僕が不幸になろうとも――」
「ったく、聞き分けのない坊主だ。その調子だと、普段から周りに頑固者って言われてんだろ? お前さんだけが不幸になるってぇなら、話は早いんだがよぉ。そうもいかねえのが世の中だ。そこはワシたちだろうと〝一般人〟だろうと関係なく同じだ」
男は落ちかけている灰に気づき、慌ててスチールデスクから灰皿をとる。灰皿に灰を落として一息つくと――
「ワシが何言っても、引く気はねえだろうし、さてどうするかなぁ」
煙草を灰皿へと押し付けて、スチールデスクに戻した。
「――ワシは引退した身だというのに、他にワシの代わりをするようなのは……いねえな。どいつもこいつも役に立たん。それこそ、魔具に頼るのと同じか。ハハハ、所詮ワシらも魔具と変わらんか」
男の言う〝魔具〟に、和葉は何かを感じ取った。今はただ引っかかる程度の言葉でしかないのかもしれないが、胸が高鳴ったことに違いはない。
「魔具、というのは何ですか?」
「あ? んだよ、茶坊主は魔具のことも言ってねえのか。面倒くせえ役、全部押し付けやがってよ。そっから説明せにゃならんのか」
男は面倒くさい面倒くさいを繰り返し、棚の前に立つと何かを漁りだす。棚の奥にでもしまってあるのか、手を伸ばしてよっこらせの掛け声とともにとった。
「魔具ってえのはな、まあ、人によっちゃ〝奇蹟〟に見えるかもしれねえなぁ。でも、現代科学ほどの信用もねえような代物よ」
スチールデスクの上に数種類並べられていく。どれも何なのか窺い知れない物。ただの置物にしか見えないもの。ガラクタとしか見えないもの。ガラスの土産物だろと言いたくなる物。その辺に転がっていそうな石。他にも色々だ。
「こっちに来て見てみろ。これが魔具って言われてるもんだ。ま、ほんの一部でしかねえけどな」
男が手招くので、和葉はスチールデスクの前に立つ。並べられた物をひとつひとつ見ていき――ひとつに目が留まった。カナリア色の石。譲葉が気分を悪くした時に少女が使用していた物と同じ。こうして改めて見てみれば、カナリア色の配色の中、中心に黒い点がある。そして、その様相から自然物でなく、人工物であることも窺えた。何かを煉って固めた物のようだ。
「そいつが気になるのか? 〈シヴァの目〉とか〈大黒天珠〉とか言われてるんだが、誰が何を考えて名づけたんだかな。名は大層なんだが、実際のところ大したもんでもねえ。二日酔いの気付けには使えるがよ。んだから、〈酒天童子の酒の友〉なんて呼ぶもんもいるな。まあ、どこまでもいい加減なものだ。はっきりいって、こんなものに頼るぐらいなら、酒飲む前にウコンでも飲んでおいた方が効果的だ。ほら売ってるだろ、ウコンの入った飲み物――って、子どもにゃまだ分からねえ話か」
「それのお陰で母は助かりました」
「あ? 酔い覚ましでか? ああ、使い方次第じゃ、酔い覚まし以外にも使えるか。効果は血流の調整だかんな。こいつが欲しいのか? 魔具としては二束三文だが、坊主の年だとちとバイトしねえと難しいな」
「え? ええ、それで母がよくなるのなら」
バイトして手に入るものなら、楽なものだ。期待の目を男へと向ける。
「ならねえよ。こんなもん、どこまでいっても姑息にしかならねえ。その時だけの物だ。ま、聖人面して〝祈れば病気が治る〟なんて言う阿呆な宗教団体よかマシかもしれねえけどな。病気なら、医者に見せた方が早い」
男は手のひらを振って辟易とした息を漏らす。
「でも、医者では、病院では母をよくするに至らないのです。なら、何でもいいから、すがれるものにすがりたいのです」
和葉は男へと凄みをもって見据える。男はここまで迫られることに煙たそうな顔で見返してくる。
「〝盲目〟には何を言っても無駄よ。言うよりも、その身に分からせた方がいいんじゃないのかしら」
女が天井へと紫煙を大きく吐きかけてから言った。
「そりゃ、お前さんも同じだろ。〝盲目〟のようにワシに言うんじゃ、この坊主と変わらんよ」
男がカカカと笑うと、女は顔をしかめた。
「そうだなぁ、言っても聞かんお前さん方に、一勝負してもらおうか」
男はスチールデスクに並べられた魔具のひとつを手にして言った。どこからそんな話の流れになったのか、和葉も女も男を訝しく。
「ワシが何を言っても聞く耳持たんだろ? なら、勝った方に、というわけだな。坊主に知りたいことを教えてやるし、嬢ちゃんにはこの街に住めるように手を回してやる。どちらにとっても悪い話じゃねえだろ。ワシとて、引退して暇を持て余しておったから、いい暇潰しになる」
豪快に笑い出すと、手に持っていた物を和葉へと預けてきた。置物だが、動物らしいというだけであって、何の動物なのか分からない。
「と言ったのはいいんだが、何で勝負させるかだなぁ。んなこたぁ、おいおい決めるとするか」
「僕はそんなことをするために、ここへと来たわけじゃありません」
「私だって同じよ」
二人してため息をつく。
「あぁ、そういや名がまだだったなぁ。ワシはネコジシ商会の留守番役、もとは前の組長なんだがよ。子子子子誉だ」
二人の反論に耳を傾けることもなく、男――誉は豪快な笑いのままに、自らの胸を叩きながら名乗った。




