9.猫屋敷にいるのは猫だけとは限らない。
――翌日、晴天はどこまでも広がり、建物の合間から空へと立ち上る入道雲。
テレビの天気予報で「とても暑くなるでしょう」という〝呪いの言葉〟を言っていたことを思い出して、頭の中でグルグルとその言葉が回っている。
いや、すでに〝呪いの言葉〟のとおりであることに、苦しみもがいているところだといってもいい。頭の中で意識がグルグルと回りだしている。目が回りそうだ、と滅入りそうになる。
そうも言いたくなるのは恰好にある。仕事着なのだから文句は言えないのだが、夏用の薄手のパンツスーツであっても汗が滴る。汗が着ているものを湿らせていくので、とても重く、また、気持ち悪い。
クールビズという言葉があったなと思いはするものの、人と会うような場合にいくら暑いといっても着崩すというのはいかがなものなのか、という考えが出てきてしまって、たとえ頭が固いなと言われようとも、しっかりとスーツを着るということに至っている。
鬱蒼と気だるく気重にうんざりと、暑さに討ち負けてしまいそうな気持ちになってしまう。
あとどのぐらい歩けばいいのだろうか。この暑さに耐え続けなければならないのか。
保健所の職員から貰った猫愛好家の家への地図を参考に、街を練り歩いているのだが――どこでどう道を間違えてしまったのか、目的地になかなか辿り着かない。それも、この暑さの下では、テンションが下がる一方で、モチベーションの維持など到底無理に近い。
目的地が見つからないことに対してか、この暑さに対してか、とても重たいため息をついてしまう。余計に暑さが増したように感じた。
どこへと行けばいいのか、住宅街の一角、十字路の真ん中で立ち尽くす。四方を見回しても、どの方向へと行ったらいいのか。遠くに逃げ水でも見えそうなほどに暑さがきつく、そろそろ我慢も限界で、暑さに文句を言いたい――。
美加は暑さに何度もくじけそうになりながらも、歩き続けた。
そして、ようやくというべきか、やっとというべきか、目的地へと辿り着いたらしい。
一見、そこは武家屋敷なのかと思ってしまった。むしろ、この街――特に人の多く住む場所、かつ、家の建ち並ぶ場所に広大な土地があるものだと驚きを隠せない。それどころか、郊外まで歩いてきたのかと思ってしまう。
でも、周りを見れば、同じような家が並んでいるので、街の中だと認識させられる。
あえて言うのなら、別世界、いや、別次元へと迷い込んできたのかと思うほどだ。
立派な塀を伝うようにして門へとやってくれば、大きな表札が目に入る。「矢鮫」とあり、どこかで見たか聞いたことのあるような印象がある。しかし、知り合いに「矢鮫」を名乗る者はいないし、どこで知った名前なのかと首を傾げるばかり。思い出せないのなら、あまり重要でもないのだろうということにした。
その門の前には、見知った顔がいた。この家の者なのか、それともこの家に用事があっただけなのだろう。獣耳のついたカチューシャにセーラーワンピースという奇抜な恰好をした、ネコジシ商会の前で会った少女だ。
「こんにちは」
ともかく、少女がこの家の者かはさて置き、声をかけた。
少女はこちらへと振り向くと、パァッと花を咲かせたように笑みが広がる。そして、目標定めて向かってくる様は、まるでロケットかミサイルか、撃墜する勢いで抱きついてくるのだ。でなければ、ボール目がけて突っ込んでくるアメフト張りのタックルだ。体を貫く衝撃に息を漏らすほどなのだから、身構えていないとレスリングのように倒されてしまうのではなかろうか。
「へへへぇ、あん時の姉やんやぁ。こないなところで会うなんて、奇遇やねぇ」
さらには、膨らみの乏しい胸へと頬ずりしてくる。その表情には、もう少し大きければと言いたげな物足りなさが出ている。
美加は少女の勢いにたじたじとなり、素直にというべきか泣く泣くというべきか、受け入れるしかない。
「姉やんはぁ、いいにおいがするなぁ。落ち着くんよぉ」
相変わらずの関西弁モドキ。口癖なのかわざとやっているのかすら、窺い知れない。
美加はゆっくりと静かに少女の頭を撫でる。少女は気持ちよさそうに眉尻を下げている。猫のように、今にもグルグルと喉を鳴らしそうだ。
「この家の子なの?」
このタイミングなら聞けるだろうということで、撫でながら尋ねる。少女の頭がもぞもぞと動いているので、首を横に振っているようだ。違うということらしい。
「ここはなぁ、用があって来たんよぉ。頼まれごとされててなぁ。でも、なかなかうまくいかんでなぁ、報告しに来ただけなんよぉ。もうちっと待ってってなぁ」
少女が美加から離れていく。どこか物寂しそうな顔。
「せやからなぁ、うち、もう行かなあかんよぉ。ほな、姉やん、またなぁ」
でもすぐに笑顔へと戻ると、手を振って向かってきた勢いそのままに、ベクトルが逆になっただけなのかと思えるほどに元気一杯に駆け去っていく。その後姿は、そんなに慌てると転んでしまうのではないかと心配になるほどだ。
少女の姿が見えなくなるまで見届けると、門へと見やった。これほどの家に住まうのだから、余程すごい人なのかもしれないと気を入れなおし、門をくぐっていく。
門の向こうは、さらに別次元が広がっている。大きな屋敷、広い庭園。〝外〟の暑さを忘れてしまうほど、緑風が涼を作っている。
石畳の通路が伸び、竹箒で掃除をする男の姿がある。強面、サングラスにスキンヘッド、向こう傷にガッチリとした体型で黒スーツ。典型的というか、ステレオタイプのヤクザ者がいるのである。
男が美加に気づいたようで、見やってくる。サングラス越しのはずなのに、視線が鋭く突き刺さってくる。
「お客人ですかい? 〝矢鮫組〟にどのような用で?」
とても重く威圧感のある声に、美加は思わず身震いをしてしまう。今にも逃げ出したい。
そして、思い出した――
矢鮫という名は、昔からこの辺りを仕切ってきたヤクザであることを。義と任侠を重んじ、近辺住人たちとうまくやっている――と聞くが、いざ目の前にすると、竦んでしまうほどに怖いものがある。
それも、気兼ねなしにヤクザの家へとやってきてしまったのだから、なおのこと。それに、警察官であることが知れたらと思えば、さらに倍がけ。
「お客人?」
男が近づいてくる。答えなければと思うのだが、喉が強張ってしまって、声を出せない。
男が目の前に立つと、美加のはるか上から見下ろしてくる。身長は二メートルを越すのではなかろうか。男の後ろにちょうど太陽があり、威圧感と陽の暑さに目が眩む。このまま倒れてしまいそうだ。
いっそのことこのまま倒れてしまえば、何も考えずにすむのかもしれないという考えがよぎる。いや、ここで倒れても何も解決しないのだから、と心の中で首を横に振った。
「コレ、お客人が怖がっているじゃないかい」
別の声。少々しゃがれた女の声に、男は美加に頭を下げて離れていく。元いたところへと戻るなり、掃除の続きを始めた。
「おや、初めて見る顔だねぇ。うちに何の用かねぇ」
白髪混じりの初老の女。眼鏡をかけ、どこにでもいそうな恰好、矢鮫組の屋敷でなければ〝普通のオバサン〟という感じにしか見えない。
それに、白い毛並みの猫を抱えている姿は、猫愛好家のようだ。いや、ここが教えてもらった〝猫愛好家の屋敷〟なのだから、目的の猫愛好家そのものなのだろう。
でも、男がこの女に従っているところを見れば、間違いなく矢鮫組の幹部、それもかなり上の階級のものと見るべきか。
「え……えと……保健所の方から、こちらを教えてもらって……」
おたおたとしながらようやく出せた声は、ひどく裏返ってしまっている。ここで変な受け応えをすれば、コンクリートに詰められて東京湾に沈められてしまうのではないのか、などという恐怖が頭の上から圧し掛かってくるので、もうこれ以上にうまく言葉を言えないでいる。
そんな美加の態度に女は目を丸くさせると、余程おかしかったらしくカラカラと笑い出した。
「なぁに、とって食いやしないよ。さ、ついておいで。アハハ、そんなにそこのが怖かったかい? 見た目はそれなりだが、中身はまだまだヒヨッコさね。うちの男衆は皆怖い顔ばかりで、客人も満足にもてなせないんだからねぇ。大きな図体のくせに、情けないもんだよ。それと、何かされそうになったら、アタシに言っておくれ。さすがにもうろくしているが、矢鮫組の連中ならいくらでも説教はできるんだからさ」
女が顎をしゃくった。屋敷に上がれということなのだろう、玄関へと足を進めていく。美加はそのあとを大人しくついていくだけだ。横目で見る男は「すいやせんでした」と頭を下げて、大きな体を小さくさせている。
「そうだい、名前がまだだったね。矢鮫眞紀だ。旦那はとうの昔に逝っちまったし、矢鮫組の看板は若いのに譲っちまって、今や猫と気まま暮らしさね。
で、あんたは――保健所のアンちゃんに教えてもらったと言っていたから、そうかい、あんたが所轄の刑事さんかい。なるほどね。あまり刑事に見えないと言っていたが、本当のようだね。ああ、気を悪くしないでおくれよ。これでも褒め言葉なんだからさ。刑事というと大概が威圧的な態度を取るんだが、あんたはそうじゃないから気を許せるってことさ。もっとも、第一印象での話なんだけどね。
それで、アタシに聞きたいことがあるんだってね。遠慮しないで、中へとお入り」
女――眞紀は歩きつつ言い、玄関の戸を開ければ、多重に響く猫の鳴き声が迎えてくれた。
◇
「粗茶ですが、どうぞ」
美加の前に出された湯飲み茶碗は、白地に青の線がやんわりと入ったものだ。その中を覗けば、淹れられたお茶の透き通った緑に、美加の顔が映し出される。
美加は遠慮がちに――むしろ、恐れながら「お構いなく」と返した。
お茶ひとつに何を恐れるのかということになるのだが、お茶を持ってきた相手がパンチパーマの強面なのだ。またもやステレオタイプ。それも、ドスの利いた声なのだから、怖くないわけがない。
「すまないねぇ、こんな男どもしかいなくて。もう少し綺麗どころがいればよかったんだけどね。アタシの隠居生活には必要ないと思って、大半はせがれのもとにやっちまったのさ。それに、残った者も、ちょうど皆出払っちまってね。
ほれ、客人が怖がっているじゃないさ。あんたはさっさと出ておいき」
美加の向かい側には、数匹の猫をまとう眞紀がいる。手のひらで男へと払って見せれば、男は頭を下げて応接間より出て行った。
拾い応接間に二人きりとなるものの、美加から話しかけることができないでいた。男がいなくなったといっても、矢鮫組の屋敷の中にいるという事実が、体を強張らせるのである。
「困ったものだねぇ。アタシに話を聞きたいのはあんただろうに。あんたが黙ったままじゃ、アタシは何を話せばいいのか分からないよ」
眞紀は猫を押しのけ、自らの湯飲み茶碗に手を伸ばし、ズズッと音を立てて飲む。しかし、その手が止まり――
「ああ、刑事さんということだから、あれかい? うちの馬鹿どもが〝カタギ〟の皆様にまた悪さでもしたいのかい? それならそうと言っておくれ。馬鹿には灸を据えないとならないからねぇ」
困ったものだねぇ、とため息をつく。
美加がいつまでも話を切り出さないものだから、変な方向へと勘繰られてしまっているようだ。
どうやって取り繕うかとあれこれ悩みつつ――
「あ、あの、その、そういうわけではなくて……」
ようやく出てきた言葉も、たどたどしく、俯いたままだ。
眞紀が怪訝に、いや、どのような用で美加がここへと来たのかさっぱり分からないと言いたげに見てくる。
「何だい、馬鹿どもの話じゃないのかい?」
「猫……」
とにかく恐れをなしている場合ではない、と意を決しても、結局出てくるのは一言のみ。自分自身が情けなく恥ずかしく思えてくる。こういう時、誰であっても物怖じしない和葉がいれば、話がすんなりと進むのだろうにと思ってしまう。しかし、和葉がここにいるわけではないので、自分で話を進ませなければならない。何よりも、自分に課せられた仕事なのだから、しっかりとしなければならない。
ゆっくりと視線を上げる。眞紀が猫の一匹――白い猫を抱えて見ている。
「猫? ああ、こいつらのことかい? どうしてもねぇ、猫が好きで野良猫や迷い猫を見つけては拾ったり保護したりしてきてね。ご覧の有様さ。だからか、ここは〝猫屋敷〟なんて呼ばれているよ。アタシなんか、〝猫オバサン〟で通ってしまっているほどさ」
カラカラと笑った。
「そうじゃなくて、ですね……。最近の、この辺りの猫についてを……」
「この辺りの猫? ああ、そういえば、保健所のアンちゃんから、そのことを聞いてくるようなことを言われていたねぇ。やだよ、もうろくしてきて、忘れていた」
白い猫へと頬ずりしながら言うのだが、反省しているのか疑わしい。これもまた、美加がいつまでも話を切り出せないでいたからこそ、方向性を見失った結果なのだろう。
「はい。ですので、そのことを……」
これで話は脱線せずに済みそうだ。しかし、眞紀はずっと猫にかまけているので、どこまで話をしてくれるのか疑ってしまう。
「そうだねぇ、確かに、この辺りの猫はいなくなってるねぇ。いや、そうともいえないかねぇ。何かに導かれるようにして、猫たちがどこかで集まっているとも聞くねぇ。だから、この辺りから猫が一時的にいなくなるらしいねぇ。
――とりあえず、そのぐらいさ。気ままな猫たちのことさ、〈猫の集会〉でも開いているのかねぇ」
「ねこのしゅうかい?」
「同じところに集まるのさ、猫ってのはね。ま、縄張り意識の強い猫が集まるのだから、そこがその仔たちにとって居心地がいいのだろうねぇ。だから、集会を開いて猫たちが議論を繰り広げているんだ、っていうのさ」
眞紀が話していく間にも、猫たちが眞紀へとまとわりついていく。頭やら肩やら、どっちが主体なのか分からなくなるほどだ。それこそ、〝猫オバサン〟という呼称も納得できる。そんな中でも眞紀は気にしていないようで、むしろ、猫とじゃれ付くのを楽しんでいるかのようである。
美加は、その光景を見ているだけだ。眞紀を見ていると、ここがヤクザの屋敷であることを忘れてしまいそうになる。どこに強面の男たちが潜んでいるのかも分からないのに、気が緩んでしまいそうだ。それとも、猫たちが美加の心情を読み取って、落ち着かせるように取り計らってくれているのだろうか。
「さて、どうしようかねぇ。猫に好かれていると自負したいところなんだけどねぇ。さすがに猫たちに聞こうと思っても、言葉が通じないからねぇ」
眞紀が赤虎の猫を抱えながら首を傾げる。それにつられて、赤虎の猫も首を傾げる。
一匹がテーブルの上へと乗り、美加の前へと歩み寄ってくる。愛らしい眼差しが撫でてほしそうに訴えてくる。
美加が手を伸ばせば、その猫は頭を摺り寄せてくる。グレイの毛並みの猫で、青い瞳がとても印象的。撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「おや、気に入られたようだねぇ。気難しい仔なんだけどね。あんたには、何かあるのかねぇ――なんて、言うのは大げさかねぇ」
猫の塊と化した眞紀が笑った。それに連れ従うように猫たちが一斉に鳴いた。それがおかしくて、つられるように美加も笑った。
「でもまた何で、そんな話を聞きたかったんだい? 刑事さんというから、どうしても構えちまうよ。うちの馬鹿どもが何かと血の気が多いのばかりだからねぇ」
「え、えと、それはどう答えていいか……」
むしろ、どこから答えていいのか――。
事件が起きているらしいので、調べなければならず、魔具も関わっているのではないかという考えが浮き上がっているので、魔具の線から調べていくこととなり、野良猫がいなくなっていることが事件や魔具と関わりがあるのかの調査をしようとして今に至る。
――わけなのだが、それを説明するにも、そのまま言うわけにもいかないだろうということで、どういう説明をすればいいのか。
「悩んでしまうことなのかい? それとも、〝一般人〟に話せないことなのかい?」
ゾクリとくる悪寒。ドクンと高鳴る鼓動――。
眞紀が何かをしたわけではない。ただ、眞紀の物言いに引っかかるものがあった。和葉にヘカテ、霞に千代、その他魔具に関わる者たちの言い方――〝一般人〟。
眞紀もまたそういった者たちの一人なのだろうか。でも、自ら〝一般人〟と言っていることから、関わる者でなく知っているだけの人なのかもしれない。
「身構えなくてもいいさね。ほら、猫たちが逃げてしまう」
今まであれほどのうのうとしていた猫たちが、いつの間にか隅で固まっている。それもどれもが尻を向けて尻尾を丸めて収めてしまっている。
「公安の死体と何か関係があるのかい? 連中も、アタシらに目を光らせていたからねぇ。こっちとしてはいい迷惑なんだよ。
何だい? アタシが〝その手の話〟を知っているのが不思議かい? 知り合いにいるのさ、〝その手の話〟を知っているのがね。だから、こちらも〝その手の話〟を耳に入れることなんてできるのさ」
眞紀は一休みと茶を飲んで息をつく。
「気をつけな。公安を〝やった〟のは、アタシらのようなヤクザ者じゃないよ。ま、ある意味〝傾奇者〟であることには違いないけどね。
それと、猫についてを調べるのはいいけど、気をつけな。下手に猫に関わると、寝首をかかれるよ。特に、厄介なのがこの辺りを走り回っているからね。〈獅子の瞳〉を持って、どこに行ったのかねぇ、あの仔は。脱走癖があって、困りものだよ」
眞紀は遠い目で天井を仰いだ。




