8.思いどおりの結果へと導き出せないわだかまり。
「あら、そうなの。ネコジシがこの街に戻ってきていたの」
あまりにも素っ気ないというべきか、言われたから気にしているだけで、言われなければ関心すらも持たなかっただろうともいえる返事を、霞はしたのだ。
むしろ、霞が今関心あるものは、目の前にある様々なフルーツの詰まったロールケーキである。このロールケーキの前では、様々な事象が些細なこととして認知されているようだ。
片や、千代は真剣な眼差しをもって酒屋で得た情報とともに譲り受けた酒瓶をテーブルへと置いた。酒瓶は遊慧が手にして、その銘柄を見るや「まぁ」と嬉々としたため息を漏らしている。その表情から酒屋の店主が言っていたとおりのいい物なのだろうことが窺える。
この緩やかと鋭さの入り混じった空気を前に、美加は慄くことしかできない。自分も話に入っていかなければならないはずなのだが、どう入っていっていいのか悩んでしまうのである。
霞はロールケーキへとフォークを入れ、一口頬張ると幸福の絶頂とばかりに満面の笑みを漏らす。
それに対して千代が眉をひそめる。大事な話をしているのに、どうして真面目に聞こうとしないのだろうか、と言いたげな雰囲気が悶々と漂っている。
霞は口の中の物を飲み込んでから、千代に一瞥をくれ――
「何? 手に入れてきた情報ってそれだけでしょ? あそこの社長が戻ってきたからって、私にとってはそんなに重要なことでもないし、事件が起きているという確証でもないだろうし。そりゃ、あそこの社長だから、何かしらしかねないことは分かっているけど、そんなことをいちいち気にしていられないでしょ。あの社長相手に、気にしてストレス溜めて、白髪頭になるのなんて御免よ。
第一、あそこが何かをやらかしたって、あそこで解決するだろうし。それに私たちに協力なんて求めるようなことはないでしょ。特に今の若社長は、ね」
フォークをフリフリと動かしながら語り、さらにもう一口を頬張った。またもや満面の笑みを漏らしながら味わう霞に、千代は肩を落とすだけだ。
霞が真面目に話を聞かないからなのか、と美加は窺っていたが、どうも目ぼしい情報を得られなかったことが原因だろう。役に立てなかった、とげんなりしていることが伝わってくる。美加自身、役に立たなかったと肩を落とすことがよくあるからこそ、千代の心情もよく分かるつもりだ。
現に、酒屋の店主しかまともな話をできなかったのだから、今以上の情報を出すことができないのは致し方ない。和葉たちに直接関係するのか不明確だが、一応、〝ネコジシに関する情報〟であることには間違いないものを提示するのでやっとのことだ。
「ま、とりあえず、今のところはこれが精一杯のようね。
――うぅん、悪いけど、日を改めてくれる? 今日は今以上のことを調べることができそうもないようだし。次に来る時までには……何か情報があればいいんだけどね」
三口目。朗らかに味わって喜びを噛み締めている霞と、意気消沈としている千代。
またもや美加は話に入れないでいる。今の霞の言葉は明らかに自分へと向けられていると分かっているのだが、何も返せなかった。
おたおたとしているうちに、霞のロールケーキは次々と口へと運ばれ、綺麗になくなったところで、視線を向けてくる。美加が何も答えないから、返事を待っているのだろうか。そうなると、何を答えていいのか困って焦ってしまう。
「ああ、そうだった、そうだったわ。事件とは全く無関係なんだと思うけどね。最近、この辺りの猫がいなくなっているそうよ。といっても、野良猫の話なのだけどね。夏は暑いから姿を見せないだけとも考えられるし、保健所が捕獲しているだけとも考えられるし――それだけのことなんだけどね」
それは思い出したかのような口調だった。それで全てを言い終えたと言いたげに霞はコーヒーをすする。
「猫――ですか?」
美加はきょとんとまだ悩みのこもった声で聞き返す。どうして今の話の流れで猫に関する話が出てくるのか。それも、野良猫がいなくなったことが、事件に関係するとは到底考えにくい。夏だからということも保健所ということも、霞と同じ答えに至る。
なら、なぜ言ったのだろうか。関係がないと分かっていながら、あえて聞く必要があったのだろうか。
霞を見据える――。
深紅に染められた髪、茶色の瞳、どこか異様さがありながらも、とても妖艶で美しいとさえ感じてしまう。今まで会った女性の誰よりも、特に印象の強さがある。
そして、〈異能〉を抱える存在――〝蛇〟を内包している存在だからなのだろうか。その目に見つめられていると、今にも呑み込まれるのではないかという不安、怖さがある。
美加に対して、決して敵を見せることはない。それでも、その存在の大きさ――強大さに慄くしかない。
「どうしたの? 別にとって食いやしないわよ。あなたの方が年上なのに、変なの。
まあ、いいわ。それでね、一応猫について調べておいてくれないかしら? 保健所の方をお願いしたいの。私たちじゃ、お役所関係に聞いて回るのは、さすがに気が引けることだからね」
霞は柔和な笑みを見せてくる。美加の不安を取り除こうというのだろう。その優しさに、美加は頷いて返した。
「では、私は保健所に行って、聞いてみます。
――それと、突然の申し出なのに、色々と協力していただいてありがとうございます」
美加は立ち上がり、深々と頭を下げた。
霞は笑みで返してくる。それも美加に気を遣わせまいとしてくれていることなのだろう。
「気にしないで。私は好きで協力しているの。ね、千代ちゃん」
霞は千代へと窺うと、千代はぷいっとそっぽを向いてしまう。千代に至っては、嫌々やっているんだ、と言いたげ。それがおかしいのだろう、霞はくすくすと笑う。
「ま、千代ちゃんの場合は、〝こっち〟が怖くて協力してくれているのだものね」
テーブルの上に置かれる四つ折の紙。特にどうということのないコピー用紙に見えるのだが、千代はそれを見るなり顔を歪ませて身震いをしている。声も引きつっているようで、出せないようだ。
美加は千代がテストの点数がどうと言っていることを思い出し、あの紙がテストの答案用紙なのだろうと見て、苦笑するしかなかった。やはり千代は年相応の女の子なのだ、と実感した。
◇
シュヴァルツ・カッツェを出る頃には、そろそろ夕刻を迎えようとしている。なのに、一向に涼しくならず、暑さに満ち溢れている。アスファルトが熱をこもっているために、暑さが引かないと分かっていながらも、考えるほど暑く感じてしまうのはジレンマなのだろうか。
首筋を伝わる汗が服の中へと落ちて、気持ち悪い感触に思わず顔をしかめてしまう。それは美加だけでないようだ。目の前の男――保健所の職員も同じだ。
気だるそうに暑さに顔を歪めて、団扇で暑さに対抗している。しかし、生温い風しか生まれず、扇げば扇ぐほど不快感が増すのだろう、イライラとしているようだ。
それでも扇ぐのは、この暑さをどうにかしたいという願望によるものだろう。
「――最近は、野良猫の駆除はしていないなぁ。野良猫の捕獲だってしていないし、そういった仕事も請け負っていない」
これまた気だるそうな声で男は言った。
霞に頼まれたまま、猫の所在について何か知っていないかを尋ねたからこそ、最近のことを調べてもらったのである。
男はファイルに閉じられた文書を捲り、美加へと見せてくる。犬や猫を始めとした、動物たちの駆除の記録のようだ。男の言うとおり、ここ数日の間に動物たちが駆除された記載はない。
「第一、最近は野良猫がいたとしても、猫愛好家が先に保護していることの方が多いから。まあ、駆除するのが我々の仕事だとしても、猫といえど命に違いはないのだから、できるだけ駆除はしたくない。猫を捨てる連中が出てこなければ、それに越したことないんだがなぁ」
男はぼやきつつ、ファイルを閉じた。
「――警察がどんなことを調べているのか知らないが、野良猫どころか野良犬もいないよ。むしろ、蛇やらトカゲやら、飼いきれなくなった生き物が捨てられて、どうにかしてくれっていうのばかりだな。特にワニガメをどうにかしてくれ、なんて言われた時なんか、困りものだね。あれって、ただでさえ希少種だって聞くのに。その上、あの顎はかなり危険だって、怪我したとか、よく聞くし。
まあ、あの手の捕獲対象が出た時は、そちらの生活安全課にも協力を頼むけどさ。飼い主を捕まえてもらわないと、怪我しかねないこちらの溜飲が下がらないし」
「そ、そうですか」
美加は空笑いで返すのみだ。どうして調べているのかを答えるにしても、猫に何の関係があるかも分からない上、事件になっているのかさえも分からない上に、話していいことなのかも分からない。
何より、ワニガメのことを言われても、こちらだって困ってしまう。言いたいことは分かるのだが、としか返しようがない。
男は美加が答えても答えなくても構わないようで、ファイルを棚へと片付けている。
「――とりあえず、猫について知りたかったら、ここよりも猫愛好家に聞いた方がいいな。こっちで捕獲した猫を、全部とまではいかないが引き取ってもらったり里親探ししてもらっているし、猫のことはここで聞くよりも詳しく聞けるかもしれない。
今、地図を描くから、少し待っててくれ」
男はデスクへと戻ると、使用済みの用紙を手にして、裏面へと色々と線を描いていく。
美加は黙ったまま、呆けるかのように待つだけだ。
「それと――」
男が地図を描きながら言葉を紡いでくる。
「この猫愛好家なんだがな。――まあ、その何だ。会えば分かるか。俺の方から言うことじゃないし。ま、頑張ってくれや、とだけ言っておくよ。
ほら、できた」
地図を描き終え、美加へと預けてきた。簡単にできたもので、何本かの線と要所なのだろう名称があるだけのものだった。
◇
夏の夜が、実に混沌としたものに思えるのは、その湿気でどんよりとジメリとした薄気味悪い空気によるものなのだろうか。そう考えはしても、〝何も定まらないこと〟が混沌なのに、イメージをつけてしまうのは実に愚かしいことなのだろう。
気持ち悪い暑さの中で、生温いコーヒーを飲むことが如何に馬鹿らしく思えてしまうのだろうか、とため息をつきたくもないのについてしまう。
冷たいアイスコーヒーなら涼を味わえる。熱いコーヒーなら香りも味も楽しめる。しかし、どちらでもないコーヒーというものは、飲むに堪えないと大声で言いたいほどだ。かといって、捨ててしまうのは勿体ないと感じてしまうので、こうして我慢しながら飲んでいるというわけだ。それがまた愚かしいと思えてしまう。
――ゆえに、気がとても落ち込んでしまっている、と言ってしまいたくなるし、言えば気が休まるのかもしれないという理由も根拠もなく、切望とも絶望ともいえるものを胸に抱える。
一番混沌としているのは、自分自身の心の中なのかもしれない。それを周りの空気のものだと勝手に思い込んでしまっていたのかもしれない。
和葉は黒猫の描かれたマグカップを傾け、ため息をついた。先程まで熱かったコーヒーはすっかり冷めてしまっていて、冷たくなればいいのにこの暑さの中では生温いままでいる。
ネコジシ商会の事務所は夜になってもまだ明かりが灯されている。就業時間があってないような商社なので、和葉の気分次第で夜でも開いているのである。あとは、ヘカテがどう暇を潰しているか、ということもあるだろう。事務所から通ずる部屋はヘカテが寝泊りをしているのだから、邪魔だから帰れと言われない限り、事務所にいても問題がない。
部屋の隅では、いつものようにのんびりとしたヘカテがいる。特にやることもなく、ただ単に椅子に座っているだけだ。和葉のため息が誤ってうつってしまったのか、欠伸を出している。
それを〝気を抜いている〟と見た和葉は再びため息をついた。仕事の手伝いのひとつでもしてくれれば、こうも夜まで仕事をしなくて済むのだろうに、と。とはいっても、事務所の仕事に関して、ヘカテが何もしないのは当たり前のこととなってしまっているので、あえて口に出すこともない。
ヘカテは目を据わらせ、退屈そうに見て返してくる。
「ミカがいないから、寂しいの?」
唐突の質問に、和葉は眉をひそめて、ヘカテへと冷たい視線を向ける。
ヘカテは変わることもなく、じっと視線を向けてくるだけだ。
和葉はもう一度、とても厭いたと言いたげに深いため息をついた。
「どうして、そう思ったのですか? いえ、どうしてそういう考えに至ったのですか? 僕たちが今やるべきことに、あの人は関係がないことです」
冷淡とした言葉。これで向ける相手が美加であったならば、しゅんとさせるに至るのだろう。立場の強さがきっぱりと分かりきった相手だからこそ通用する手段である。
しかし、今回の相手はヘカテとあり、思いどおりにならない。ヘカテの口が歪む。それも、不満ではなく、笑みを作っている。
「へぇ。カズハがそう言うのなら、そういうことにしといてもいいかなぁ」
今にもケタケタとお化けのように笑いかねない。
「何ですか? 含みのある言い方ですね。あなたはあの人にいてほしいのですか?」
「そうだね。いるといないかだと、いてくれた方がいいね。退屈凌ぎになるもの」
ヘカテがカラカラと笑い出すものだから、和葉は不満げに眉をひそめる。
「アタシは、カズハとは違うの。ミカがいれば何もできない暇な時間を潰せる程度にしか見ていないの」
「僕とは違って、ですか。言ってくれますね。僕もあなたと同じ程度にしか見ていませんよ。暇潰しとしか見ていません。でなければ、単なる雑用係です」
勘違いしないでほしい、とフンと鼻を吹かす。
「本当? カズハがアタシと同じようにミカを見ていたの? ふぅん、いいんだけどね。カズハが何を言おうともね。
でも、その寂しさをアタシに当てられても困るから。それだけは言っておくよ」
全くもってヘカテは立場を変えることもなく、欠伸をしながら伸びをしている。和葉と言い合いをしていても退屈だと言いたそうだ。
和葉の不満はより顕著となり、肩をわなわなと震わせている。でも、すぐにその不満をため息とともに吐き出した。ヘカテへと不満をぶつけても、この心のわだかまりを解消することなどできやしないと見てのことだ。
「あの人がいるいないの話はやめましょう。そんな話をしていても、何も利益は得られませんからね」
「余計に寂しくなるもんね」
「勝手に言っててください。
――それよりも、今は別のことです。あの人が僕たちの動向を気にしているようなのです。いえ、あの人を通して、警察が目を光らせているといった方が妥当なのかもしれません。恐らくではありますが、〝公安の人〟の件について動いてるのではないでしょうか」
これにヘカテの表情が変わった。暢気だったものが、気の引き締まったものへと。
「〝コーアン〟って、この間までアタシたちを陰で見張ってた人のこと?」
「ええ、そうです。月光の事件の頃から見張っていたのではないでしょうかね。あのねっとりとした視線が、気に入らなくてどうしたらいいものかと思っていた、あの相手です。公安なのですから、あの人に言えばどうにかなる――とは思えませんし、かといって柳崎さんに言っても、公安のことともなると手の打ちようがなかったでしょうし。
正直、困りましたね。ここで警察が僕たちをマークするとなると、とても動きづらくなります。ただでさえ、今抱えている案件に加えて、社長に頼まれた黒猫捜しもありますからね。何もこんな忙しい時に、と言いたいところです」
生温いコーヒーで口を湿らせつつ語り、飲み干した。立ち上がると、コーヒーメーカから新たにコーヒーを注ぐ。湯気を上げて、まるで息を吹き返したかのようなマグカップへと一口つけ、席へと戻ると、スチールデスクへと置いた。
ヘカテも倣ってなのか、棚の前へと立つと、蛙が葉っぱの傘を持ったイラストの描かれたマグカップを手にコーヒーを注ぎ、スティックタイプの砂糖と粉末ミルクを一匙入れて、ティースプーンでかき混ぜつつ席へと戻る。
「テレビとしては、まだ事件として取り上げていないんですよね。〝事件と事故の両面から〟と述べるに至るだけです。それも、〝変死体が見つかった〟という報道しかされていませんでした。
とはいえ、その公安の死体が見つかったのは今朝のことなので、未だ判断のつかない状況なのかもしれません――ですが、あえて報道規制がかけられていると見た方が妥当でしょうね」
「で、それでアタシたちにどう関わってくると思ってるの?」
「僕たちは重要参考人として〝任意同行〟という名の尋問が待っているでしょうね。今回の件は警察の協力を得ずにやならければならなくなりましたが、それに加えて、警察が色々と僕たちの邪魔をしてくるかもしれません」
やれやれと厭いたため息を漏らす。それに加えて、苦労しそうだ、と目を伏せた。
「ミカたちがアタシたちの〝敵〟に回るってこと?」
「そうですね。そうなるかもしれません。ですので、社長に少しばかし協力願うというのはどうでしょうか?」
目を開けて、ヘカテへと見やる。いい案が浮かぶわけでもないので、思いつく妥当案についての伺い。
「今の社長がホマレなら大丈夫かもしれないけど、ネネコじゃ駄目って言われて終わりだよ」
「そうですね。ヘカテの言うとおりのような気がします。大人しく黒猫を捜していろ、で終わりそうですね。何とも、気の引ける話です」
「ミカは〝向こう側〟だもんねぇ」
「どうして、そこであの人が出てくるのですか? 警察に邪魔されると、仕事がはかどらないと言っただけですが」
「そういうことにしといてあげる」
ヘカテはニヤニヤと何とも嫌らしい笑みを漏らして、マグカップを手にしたまま自分の部屋へと入っていってしまった。
和葉はどこか恨めしそうな視線でヘカテを見送り、ヘカテがドアを閉めて見えなくなったところで、深々とため息をついた。
退屈だからといって、気にしていることを――特に人前に見せない部分のところをつついてくることはないだろうに、と言いたくなってくる。普段からかっているから、ここぞとばかりにやり返してきたのだと考えれば、ここは我慢することが賢明と考えた。感情をあらわにすれば、さらにからかってくるに違いない。それに、今の案件を終わらせられれば、またいつものようにからかってやればいいだけなのだ、と。
今はそんなことよりも、美加へとっさに嘘をついてしまったことが、胸が痛い。美加が公安の人間について聞いてきたことなどすぐに分かったのに、知らないふりをしてしまった。何かないと聞かれて、ないと答えてしまった。
〈青い王〉に関して和解ができたばかりだというのに――この胸にわだかまる思いは何なのだろうか、と弱音の言葉をコーヒーとともに飲み込むことにした。




