7.一挙手一投足を考えて動かないと、どこで誰が見ているか分からない。
取り残されたからといって、何もしないわけにもいかない。途方に暮れていたって、何も進まない。
どうしたらいいのか――誰も教えてくれないのなら、自分で考えて動かなければならない。
しかし、行動が空回りしてしまうのではないかという焦燥感に、どうしようもなく不安に満たされてしまう。いつもの〝役に立たない〟と言っているからこその、自棄根性が出てしまう。
無理に考えても行き詰るだけなので、ひとまず木陰へと逃げ込むにした。
陽射しから逃れればこの暑さに苛立つこともないだろうし、考える環境を整えることもまたいい考えを思いつかせるために必要だ。陽射しにのぼせてしまえば、それこそ自棄根性が表に出てきてしまうので、対処しなければならない。
街路樹なのだろうが、少し広めに作られた広場に大きな木があり、その広場を覆うようにして涼むによさそうな木陰ができている。また、風通りがいいのか、木陰の下に入れば清涼感漂う。だからなのだろう、先客がそこで寝そべって涼んでいるのである。黒猫だ。
こちらに気づくと、黒い色の中に一際目立つ金色の目で一瞥をくれてくる。対称となる色を持っているからこそ印象的に見えてしまうのだろう、威圧感がある。さらには不満と言わんばかりに尻尾を振っている。
でも、逃げないところを見れば、警戒をすれど、美加がそばにいても問題はないのだろう。
「まるで和葉くんね」
黒猫へと愛想笑いで告げ、黒猫の寝ている位置とは反対側に立つことにした。
空気は湿気を帯びているので不快なのだが、そよそよとした風が吹けば、やんわりとした涼しさを得られる。猫が寝そべっているだけあって、過ごしやすい場所なのだろう。もしかしたら、今は一匹しかいないが、ここが〈猫の集会場〉ということだって考えられる。
ゆっくりと息をつく――。目を閉じ、風を感じる。
――黒猫に見覚えがあるような気がしたので、木を盾にして覗き見た。
黒猫といったって、どれも似たようなものだし、前に見た黒猫と別だってあり得る。特徴といったって、黒猫である〝黒〟という配色しか印象に残っていない。
それに、もし同じ黒猫だったとして、どうしようというのか。同じだろうと違っていようと、何かをするわけでもない。
ただ、気になっただけの好奇心でしかない。暑さから逃れるため、ということが一番の理由だ。
黒猫は美加の視線に気づいたようで、煙たそうに、また一瞥をくれて、尻尾を振っている。ますます和葉と重ねて見てしまう。
「やっぱり、黒猫って無愛想よね。うちの近くの三毛猫は、ちゃんと挨拶してくれるんだよ」
こんなことを言ったところで何の意味などなさないことは分かっていながらも、ついつい口に出してしまう。それに黒猫が皆、無愛想というわけでもない。美加の勝手な印象付けだ。和葉のことを〝黒猫〟呼ばわりしているからこそ、余計に黒猫を無愛想な存在として見てしまっている。黒猫と和葉を重ねて見てしまう。
よく見れば、黒猫は首輪をしており、鈴代わりなのだろうか、緑の光る物をつけていた。
記憶の隅によぎる光。
いつぞやの黒猫とやっぱり同じなのではなかろうか。あの時は緑に光る物をくわえていたが、今は首輪にあしらえて身につけているかの違いでしかないのではなかろうか。
――と思ったところで、何が変わるわけでもなく、目の前の黒猫はどこまでいっても黒猫である事実以外の何ものでもない。
しゃがんで少しでもより近くで黒猫を見ていよう。木の陰から出ることはせず、じっと見つめる。
黒猫の態度は相変わらず。
手を伸ばして撫でてみたい。けど、しようものなら、すぐにでも逃げてしまうだろう。
眺めているだけに留めておくしかない。
「あなたの名前は――カズハくん。うん、それがいいよね。ね、カズハくん」
首輪をしているということは、誰かが飼っていて当然だ。そうもなれば、この黒猫には名前があるはずなのである。なのに、勝手に名づけるのもおかしな話だが、黒猫へと話しかける。
黒猫は美加の言葉を理解した上でのことなのか、気だるそうに「ふぇ~」と鳴いて、欠伸をした。
「気に入ってくれたのかな? それとも、駄目だった?」
尋ねるものの、黒猫は顔を背けて、ぐてっと寝てしまった。折角涼んでいるのだからと言いたげな、相手をしてほしくなさそうである。
「カズハくんって名前は駄目だったのかなぁ? 黒猫だからって、カズハくんじゃ、ちょっと可哀想よね。嫌味ばっかりの〝黒猫〟和葉くんと同じだものね」
笑いかける。
それに応じているのか、黒猫の尻尾がひょろりと動いた。その通りだとでも言いたいのだろうか。
それがまたおかしく、再び笑む。
「――ほほぅ、〝嫌味ばかり〟とは心外ですね。誰かのようにうじうじばかりしているのも、どうかとは思いますけどね」
それはまさに唐突というべきか、完全に隙を衝かれたというべきか、どうしてこのタイミングでと疑いたくなる声が、背後から身も凍るほどに冷ややかにかけられる。
思わず体が硬直してしまう。今にもガクガクと震えだしそうな体を押さえつけ、怯えた様子で、よりによってと嘆きながらゆっくりと振り返れば――両手を腰に当てて立つ和葉の姿があった。
ネコジシ商会に行っても会えないのに、どうしてこのような場所で会うのだろうか。最悪である。せめて気を利かせてくれ、とこのタイミングそのものに愚痴をこぼしたい。
「こ、こんにちは、和葉くん」
何とも歯切れの悪い挨拶だろうか。ぎこちない笑みだろうか。自らが迂闊だったからこそのものなのだが、今すぐにでも逃げたくて仕方がない。
対して、和葉はとても冷ややかな表情で、どうしてくれようか、と視線が物語っている。
これは間違いなく嫌味が来る。とてつもないほどの嫌味が襲ってくる。それが分かっているからこそ、体がすくんでしまって、逃げることも叶わない。
「こんなところで何をやっているんですか? ああ、暇を持て余して、ここで時間を潰しているところでしたか」
いつものような物言いではあるのだが、その口調は冷たいまま。暑い日中だというのに、寒さが生まれるというあべこべ。その上、言い逃れができそうにもない。暇というわけではないが、時間を潰していたことは間違いない。
「そうです。そんなことはどうでもいいです。折角ここで会ったわけですし、ひとつ聞きたいことがあります。黒猫を見ませんでしたか? 特徴といえば――黒い猫、としか言いようがないのですけどね」
「黒猫のカズハくんなら、ここに――」
「誰も僕のことなんて聞いていません」
木陰で寝ている黒猫のことだろうと思って答えたはずなのに、和葉の目が釣りあがるだけだ。氷の悪魔なるものが存在するのなら、きっと今の和葉のようなものなのだろう。
「ですから、この木の陰に――」
しゅんとしながらも、誤解を解くべく木陰を指差した。木陰を見れば黒猫が寝ているはずなのだから、和葉のことでないことが伝わるはずだ。
しかし、黒猫の姿がない。今の今まで寝ていたはずなのに、と見渡すものの、どこにもいない。和葉がやってきた拍子にどこかへと逃げてしまったようだ。
「どこにいるのですか?」
全くもって信じていないという視線が貫いてくる。
「さっきまでそこで寝ていたんですけど……」
こうもなるとただの言い訳にしかならない。それも、実のない言い訳と捉えられるだろう。和葉の冷め切った目がとても痛い。
「そうですか。さっきまでいたのなら、まだ近くにいる可能性がありますね」
嘘でないことを伝わったのだろうか。半信半疑のまま、和葉を見るしかない。
「――それと、あなたは黒猫と見ると、僕の名前をつけるのですか? 正直、やめてもらいたいところです」
ふぅとため息をつかれてしまう。厭いてしまったのだろう。
美加はしかりつけられた子どものように肩をすぼめるのみ。黒猫の名前に関しては言い訳ができるはずもない。むしろ、言い訳のしようがない。黒猫と和葉を重ねて見た挙句に、「カズハくん」と呼んだのは紛れもなく事実だし、それを和葉に聞かれてしまったのだから。
ここは大人しく嫌味に耐えるしかない。自業自得なのだから。
「これ以上言っても可哀想なので、ここまでにしておきますか。まあ、僕は忙しいので、暇人相手にかまけている暇などない、と言った方が正しいですけどね」
いつものように〝言葉の槍〟が問答無用に貫いてくる。それも、グリグリと傷口を広げるように捻じ込んでくるのだから、痛みも倍増である。
「あ、それともうひとつ言わせてもらいます」
やはり、いつものようにこれで終わりというわけにはいかないようだ。覚悟をするしかない。次は〝言葉の剣〟が来るのか〝言葉の斧〟が来るのか。
「まさか、童話のようなことを現実にやっている人がいるとは思いもよりませんでした。〝王様の耳はロバの耳〟と言うかのように、木に向かって僕の陰口を叩いているのですからね。しかも、僕の耳にしっかりと聞こえてしまう始末です。
周りに誰もいないからといって、陰口を叩くのはどうかと思いますよ。むしろ、大人なのですから、思ったことでも口に出さないことが普通なのではないでしょうかね。たとえ、誰に聞かれていないだろうと思ったとしても、ね。
諺にありますよね。〝壁に耳あり、障子に目あり〟と。正しくそのとおりなのです。まあ、本人の目に入ってしまうほど間抜けなのはないですけどね」
これは〝言葉の鈍器〟だった。それも左右から何度も叩きつけてくるかのようで、頭がガンガンと痛い。
それに耐え切れなくなり、今にも泣き出しそうな声で――
「ごめんなさい……」
頭を下げるしかない。これで機嫌をすぐに直してくれないだろうが、こうでもしないと後々にまで不機嫌なままになるのが和葉だ。黒猫に〝カズハくん〟と呼んでしまったことが何よりもミスなのだから、仕方がない。
「あの、和葉くん。聞きたいことがあるの」
落ちに落ちた心を引き戻し、言うだけ言ってすっきりしたのだろう和葉へと尋ねる。まだ嫌味を言われる可能性があるが、折角出会えたのだから、という理由だ。
「何です、改まって」
このタイミングで尋ねられるとは思っていなかったのだろう、やや怪訝な面持ちで見てくる。〝カズハくん〟についての話ではないことを察してもらえているようで、すぐさま嫌味が飛んでくることはないようだ。
「最近、この街で事件とか起きていないか、知らない? どんなことでもいいの」
こういう尋ね方は、いささか突拍子がなかっただろうか。とはいえ、長々と尋ねるよりも効率的だと考えての単純な尋ね方である。
「事件?」
和葉は首を傾げる。やはり、尋ね方がまずかっただろうか、と美加は思うも、頷いて答えを待つ。
「そういうのは、僕よりも警察の方が知っているのではないのですか?
――いえ、僕にわざわざ聞くということは、魔具絡みのことですか?」
和葉の顔つきが変わった。〝黒猫〟から〝ネコジシの商人〟と称される男の顔。
こういう顔つきになってくれるのなら、質問すれば茶化すこともなく答えてくれるだろう。
「まだ、魔具が関わっているとか、どんな事件が起きているとか、全然分かっていない状態なんだけどね。でも、もしそういったことが何があったら、教えてほしいなって」
「関わってもいないことを聞くのですか? それとも、まだ漠然として見えていないだけなのですか? まあ、何はともあれ、あなたに教えられるものは、今のところありませんね。飽くまで、〝僕に関しての話〟ですけどね」
そう答えてくれるのだが、和葉のことだから、どこからどこまでが本当で嘘なのか分からない。騙すつもりがあるのかどうかも分からない。
和葉を信用していないわけではない。でも、〝商人顔をしている時の言葉〟は、信用するに至るのかと問われれば、素直に頷けないのも本当だ。
今の和葉は、まさに〝商人顔〟をしているので、何かを隠している可能性が高い。そうでなければ、いつものように嫌味を込めながらあれこれと答えてくれている。
「ということは、特に何も起きていたりしていないのね?」
再確認というわけでもないが、何もないということを信用したい気持ちが心の奥底にあるので、頷いておくことにした。
「ええ、僕から言えることは特にありません。すみませんね、お役に立てなくて」
商人の笑みがそこにある。疑いたくないけど、と思うものの、言葉の全てを信用できない思いが大きい。
「ううん、アリガト」
でも、信用することにした。商人としての和葉であろうとも、信じることに決めたのだ。だから、笑みを向ける。
和葉は美加の視線から逃れるように顔を背けてしまう。隠し事をしているからという感じではなく、なぜか先程の黒猫を思い返させる。顔を背けているのは照れ隠しなのだと感じるのだ。礼を言われることに照れているのだ、と。
思わず、本当に素直じゃないところが黒猫そっくりだ、と笑みが溢れてしまう。
「さて、どちらもさしていい情報を得られなかったということで、僕はこれで失礼します。黒猫を捜さないといけないですからね。全く、どこへと逃げたのやら」
そむけたまま顔を向けることもなく、和葉は去ろうとする。うぅ、と今にも唸りそうな様子で背中を向け、そそくさと、でも何か後ろ髪の引かれているかのような、曖昧な去り方。
後ろ髪を引かれているのは、美加も同じだ。ようやく話をすることができた。昨晩に話をしたが、こうして改めて話すことができたと嬉しくなってくる。
気持ちが弾み、離れていく和葉の背中へと「本当にアリガト」と小さな声で言った。
この気持ちは何だろ、と木陰にしゃがむ。和葉が去ってしまうと次第に寂しくなってくる。折角舞い上がった気持ちが下がっていく。ああ、和葉の部屋で毛布に包まっていた時に感じた気持ちなのだ、とため息――。
「――いや、さ。その年で〝昔の少女マンガ〟みたいなことされてもね……」
落胆のため息をつかれてしまう。
「え? えっ!?」
和葉が離れていって、ここには独りのはずだ。誰がそんなことを言ってため息をついてくるのか――顔を上げれば、目の前に呆れた様子の千代がいる。
情報を探すべく、颯爽とどこかへと行ったはずなのではないのか。なのに、どうしてここにいるのだろうか。
「何よ? 独りで探し回るにも無理があると思ったのよ。もともと、あなたが持ってきた案件だし、不本意だけど、あなたと一緒じゃないと駄目だと気がついたの」
言っていることはよく分かる。それがここへと戻ってきた理由なのだろうことも。
「そ、そう、なの……」
驚きと恥ずかしさにきょとんとすることしかできない。戻ってきた理由よりも、もっと気になることがある。〝いったい、いつから見ていたのか〟、ということだ。
〝昔の少女マンガみたい〟と比喩するのだから、和葉とのやり取りを見ていたことは間違いないだろう。とても恥ずかしいところを見られていたに違いない。
顔が熱くなってくる。夏の暑さなんかどこかへと吹き飛んでしまうほどに汗が噴き出してくる。
そして――落胆。
「それに、いざあなたを捜そうとすると、うまく見つからないのはどうして? 本当に陰が薄くなったの? それとも、何か秘訣でもあるのかしら?」
この落胆した心に〝影が薄い〟という言葉が突き刺さる。
これで何度目だろうか。なぜに、ここまで言われてしまうのだろうか。追い打ちをかけたいだけなのではないのかと、思えて仕方がない。
そもそも、好きで影が薄くなったわけではない。特別目立ちたいわけでもないが、認識されないのは寂しいの一言に尽きてしまう。
それに、颯爽と姿を晦ますことのできる千代に、秘訣があるのかと問われても、答えることなどできない。千代の方が断然上手じゃないかと言い返したいほどだし、自分ですら分からないことなので答えようがないということもある。
「ま、あなたが何をしていようと問題でもないからいいけどね。ただ、今度からは連絡を取るための手段がほしいわね。いちいち捜すのは面倒だから」
それに関しては美加も同意見だ。姿を消した千代から情報を得るに、千代から寄ってくるのを待たなければならない。任意のタイミングでお互いに情報を交換できれば、それに越したことはない。
「携帯電話とか」
とりあえず、手短な物を挙げてみれば、千代は首を傾げる。
「私は持っていないから駄目ね。うちの学校、古風というか校則が厳しいの。ただでさえ、全寮制の上に、外出するのも届けを出して受理されるか難しいところなの。霞姉さんが裏から手を回して外出も外泊もできるようにしてくれているのに、ケータイまで持つとなると、さすがに気が引けるわ」
困ったものよね、と言いたげに苦笑を見せてくる。
「そうなんだ。となると――」
他にどのような方法があるのかを模索しようというところで――
「いいわ。こっちで考えておくし、さっさと終わらせてしまえば、無理にあなたに付き合う必要もなくなるだろうし」
「そ、そうですか……あはは……」
即答されてしまえば、こちらとしても何も言えない。そもそも、せっかく一緒に行動するのだから、もう少し仲良くなってもいいのにという考えが強い。でも、千代から歩み寄ってくれることはないようだ。
そうなると、仲良くなろうと思うことを諦めるしかないのだろう。無理に間を縮めようとして嫌われても仕方がないから、と理由をつけて。
街の中を歩んで行く。千代とこうして歩くのは初めてのことなので、どう行動していいのか分からないということもあったが、概ね千代が先導してくれているようなので、美加はついていくだけの形となっていた。
それに、普段千代がどのようなことをしているのか、窺い知ることにもなった。興味深いというべきか、こういった側面もあるのだなと感じることができたのだ。
それとも、〝足の遅い〟美加に合わせてくれていただけなのかもしれない。
〈異端狩り〉としての千代の姿が、どこにもなかった。女学生としての千代が、美加の前を歩んでいる。
商工会を回り、世間話をするようにして、さりげなく街で何かなかったのかを尋ねていく。こちらが見習いたいと思えるほどに手際のよさを感じ取れる。
愛想のよさを見れば、いつもつんけんしているのは美加だからなのではないのか、と考えてしまうが、今はその考えを振り払うことにした。
商工会の男たちのほとんどは、千代の話よりも遊慧についてを知りたがっているようで、逆に問われることが多い。
何か大変だなと思いつつも、千代は慣れたものでことごとく受け流していく。あとは曖昧なことを言ってやり過ごしていく。見事なものだ、の感心せざるを得ない。
美加は一歩下がった位置でやり取りを見ているだけだった。だからこそ、感心の度合いも強い。
男のうち何人かは美加に興味を持ってアプローチをかけようとしていたようだが、それも千代がうまく言いくるめてくれるので、美加へと挨拶程度の話で済んでいる。
尤も、浮気をしていると遊慧に嫌われるぞ、との一言で、アプローチをかけてこなくなるのだから、どれだけ商工会の男たちは遊慧にぞっこんなのか、呆れるほかない。
それだけ商工会の男たちにとって、遊慧は偶像なのだろう。
これで何軒目だろうか。この街の隅々までよく知らなかったことを自覚できるほどに歩いたようにも思える。
それも、なるべく疲れない効率を考えた上での巡り方をしていた。
地酒でも造っているのだろうか、大きな樽が日干しされている酒屋――そのまま酒蔵といっても過言でないだろう。
その前に立つ陽気なおじさんといった感じの、でも、職人気質を節々に感じさせる店主。体格はさすが酒屋の店主といった様子でがっちりとしていて、動作のひとつひとつが豪快に見える。
千代が声をかけるよりも早く――
「おぅ、いい酒が入ったんだ。霞嬢ちゃんに持っていってやんな」
その手には「大吟醸」と地酒の銘柄が書かれた酒瓶を千代へと預けてくるのだ。
千代が飲むわけではないだろうが、未成年にこうも気安く酒瓶を預ける店主に美加は唖然とする。しかしそれは現代の話であって、昔は子どもが親の酒を買いに行くというお遣いは至って当たり前のようにあったのだから、その名残がこの店主にあるということなのかもしれない。
千代は重たそうに抱えると、これまでと同じように街についてのことを尋ねていく。
「どうだろうねぇ。不景気というぐらいしか思いあたんねぇなぁ。世間様は景気回復しつつあるなんて言っているようだが、あんなもん、大企業を基準として考えてのものだからよぉ。うちらのような小規模でやっているもんからすれば、取りこぼしにどうあやかるかってな話しだな。だいたい、金持ちなんか小洒落た店でしか酒を買わねえし、うちのような小汚ぇ店は、ご近所様しか買わんからよ。景気回復なんて言葉はぁ、またまた先の話だな。
あぁ、でもよぉ、ネコジシの嬢ちゃんを見たな。相変わらずの様子でよ。何考えてんだか分かんねえけど、それと同じ物をくれてやったら、大喜びしてたっけなぁ」
店主はその豪快なままに大笑いを上げて答えてくれた。




