19.月に吼えれば。
ずるりと男は壁に背をつけたまま、崩れ落ちた。
全部で三人。
カードゲームを興じているところを襲撃され、抗う間もなく床に転がる羽目になった形である。
イヴァンが隊を率いて出て行った後、瑞希が見つけておいた結界装置を〈紫鎧〉が破壊して、幽閉されていた部屋から出たのだ。
そして、ここで詰めている男たちを見つけ、〈紫鎧〉が襲撃、今に至ったのである。
「死んで――ないよね?」
瑞希はそのうちの一人の様子をしゃがんで窺う。
全く動かないので、見ただけでは判断がつかない。
「僕の力では、さすがにそのぐらいの体型となると、吹っ飛ばすことで精一杯さ。
打ちどころが悪くない限り、そう簡単には死なないんじゃないのかな」
〈紫鎧〉は男に興味を示すことなく、テーブルの上に散らばっているカードを捲っていく。
選んでいき、ジャックが四枚並ぶ。
首を傾げて、どのジャックにするか悩んでいるようだ。
「――君は、トランプの絵札のモデルを知っているかい?」
「え? そんなことを言われても、知らないわ」
瑞希は立ち上がり、テーブルの前へと寄る。
〈紫鎧〉がジャックを見ていることから、ジャックのモデルを知りたがっていることはわかった。
〈紫鎧〉の隣に並び、一緒になって首を傾げる。
――風が突き抜けていく。
ハート以外のジャックが弾け飛んだ。
瑞希は驚いて、一歩後退る。
少女は涼しい顔でハートのジャックを眺めている。
「なるほど、これが〝友〟か。
――遅かったね、ジャンヌ。
待ちくたびれて、僕たちで脱出を図ってしまったよ」
〈紫鎧〉は部屋の出入り口を見やる。
瑞希も倣って見やれば、暗闇の向こうから人の姿が生まれ出てくる。
サプレッサーを装着した機関拳銃――グロック18Cを持つヘカテ。
ヘカテはサプレッサを外し、〈紫鎧〉へと銃口を向ける。
「しばらく見ないうちに、随分と可愛い姿になったわね。
見違えたわ。
あんたの趣味? それともアタシに恋焦がれるあまり女装趣味に走ったの?」
「ジャンヌ、冗談はいらないよ。
第一、僕が好きでなったわけじゃないさ。
どこの誰なのかもわからない神父が、こんな体にしてくれたのさ。
昔から、僕は教会と折り合いが悪いのかな。
あの時は異端審問で処刑され、今度は女の体に変えられてしまうのだから。
ま、鎧の時よりかは動きやすくなったけどね。
とはいえ、慣れない女の体というのは、色々と戸惑って困ってしまうけどね」
〈紫鎧〉はかぶりを振り、背中から黒々とした触手をあらわとした。
触手が蠢く。
「ねぇ、待ってよ」
瑞希が二人の合間へと入る。
両手を広げ、〈紫鎧〉を庇うようにヘカテへと立ちはだかる。
ヘカテが怪訝の目を向けてくれば――
「今は、ここから逃げるほうが先決だと思うの」
と瑞希は返した。
しかし、ヘカテは聞く耳を持たないようだ。
瑞希の前まで寄ってくると、横へと追いやるのだ。
「ミズキは先に帰ってて。
アタシはこいつと決着をつけないといけないから」
「で、でも――」
「もうミズキが傷つくところを見たくないもの。
アタシの周りにいる人たちが傷つくのは見たくないもの」
ヘカテの言葉に、瑞希は口をつぐむ。
言い返せない。
一度ヘカテの目の前で大きな傷を負った過去があるからこそ、負い目となって何も言い返せなかった。
「ジャンヌの言うとおりに帰っても構わないよ。
以前のように邪魔されても困るし。
君だって、以前のように身を投げ出すことができるわけじゃないだろ?
それに、君とはここから逃げるまでの約束だからね。
これ以上邪魔するというのなら、以前のような目に遭ってもらうことになってしまうよ」
〈紫鎧〉に対しても、何も言い返せなかった。
二人の対峙を見ているだけ。
十四年前と同じ光景――
瑞希は自らの腹をさする。
僅かにある膨らみ。
〈紫鎧〉の言うとおり、今や自分だけの体ではない。
腹の中には安雄の子を宿している。
もし、十四年前と同じことをしようものなら、子どもに障るどころの話ではなくなってしまう。
守らなければならない、大事な命なのだから。
二歩、三歩と下がった。
俯瞰で見るほどに。
こんなところで、何も戦わなくたっていいのに。
みんな無事で帰ればいいだけのことなのに。
そんな念を浮かべて下がるに下がり、背中が壁に触れる。
もう下がれない。
前に出て二人を止める勇気もない。
帰れと言われても、放っておいて帰るわけにはいかないと感じている。
二人は対峙したまま動かなかった。
瑞希がここから出て行くのを待っているのだろうか、単に相手の出方を待っているだけなのか。
「――瑞希、ここは危険だ。出るぞ」
横から声と手が伸びてきて、瑞希の腕を掴んでくる。
驚き、見やれば安雄の姿。
「安雄さん?」
「街が今、警戒態勢で多くの警官がパトロールに駆り出されているんだ。
そしたら、百合垣から連絡があってな。
ここへと来れば、あいつと会った。
さ、行くぞ。
ここはあいつに任せておけばいい」
「でも――」
「いいから。
お前は身重なんだぞ。わかってるだろ」
「は、はい……。
――ヘカテ、無事に帰ってきてね」
瑞希はヘカテへと見やる。
ヘカテは動かない。
でも、耳には届いている筈だ。
ヘカテの返事を待つ間もなく、安雄に連れられて部屋を後にした。
◇
建物――雑居ビルから出れば、雨風の酷さがよくわかる。
入り口の端で雨風から隠れようと思うのだが、吹き込んでくるものまでは逃げようがない。
そこへ、車が滑り込むようにして、二人の前に止まった。
ドアが開き、男が出て傘を差した。
「色々と聞いています。
さ、車にお乗りください。家までお送りします」
「ベルクトさん!?」
瑞希は男――ベルクトへと頭を下げる。
「お久しぶりです。
ヘカテ様には何かと我が商会を利用していただいております。
そういうわけということでもありませんが、リディアお嬢様から迎えに行くようにと連絡がありましたので、馳せ参じました」
ベルクトが傘を向けてくる。
瑞希を招き入れ、後部座席へと通してくれた。
隣に安雄が乗り込んでくる。
最後にベルクトが運転席へと乗り込むと、車は走り出した。
見る見るうちに雑居ビルから離れていく。
「すみません。私のせいで――」
「お気になさらないでください。
これも我々と縁があったからです。
瑞希様には我々も色々とお世話になりましたので」
「私は何もしていません。
社長がいたから――社長の後ろ盾があったから、私が勝手に出しゃばっていただけに過ぎません」
「ご謙遜を。
誰も、そのようなこと思っていませんよ。
もし、瑞希様の言っているとおりだとしたら、瑞希様のために誰も動いたりしません。
違いますか?」
「そう……ですか。
――ありがとうとみんなに伝えたいです」
「でしたら、無事だったと皆に見せてあげればいいのです」
「そうですね。ありがとうございます」
「いえいえ。
――それよりも、今日は本当に騒がしい日ですね。
外をご覧ください」
ベルクトの言葉に、瑞希は外を見やる。
雨脚が激しくなる一方の灰色の街が横に流れていき、黒やグレイのスーツ姿をいくつも見て取れた。
どれも商社マンというには、違う雰囲気がある。
もっとおどろおどろしいと言うべきか、威圧感を漂わせている。
雨の中でピリピリしているだけなら、ああも威圧感はないだろう。
「警察官ですね。
あのようにして動き回っております。
まあ、我々の働きを警戒しているのでしょう。
我々商会はリディアお嬢様につくようになりますからね。
この街で〝戦争〟を起こすわけにはいかない、という表れなのでしょう」
「戦争……ですか」
「ええ、まぁ、リディアお嬢様がこの街にいる限り、起こり得る可能性がありますので、致し方ありませんね。
大人しく国にいらしてくれればこの街にとってはよいのでしょうが、お嬢様にも思うところがあるからこそ、国を離れてこちらへと訪れているのでしょうし」
◇
雨風がうねる。
空もうねる。
雨風を、黒いうねりが引き裂き、閃光が穿つ。
ヘカテは身を低くして黒い触手が薙ぎ払ってくるのをかわした。
トリガーを引き、発射。
〈紫鎧〉が黒い触手を広げ、銃弾を逸らしていく。
互いの必殺の一撃を繰り出すものの、全てが当たらなかった。
必殺の名を覆していく。
互いのことを知っているからこそ、互いの動きを先読みして行動。
それも、如何に相手の攻撃を受けないように動くからこそ、攻撃が二の次になって、結果的に与えられないでいた。
当たればそこで終わりになるからこその、守り主体の攻めとなっている。
何度目の攻防を繰り返し――雨風が視界を遮るように邪魔してくる。
何ゆえ二人が雨風の吹き荒れる屋外――それも雑居ビルの屋上にいるのか。
単に屋内での縦横無尽に動き回っているうちに、戦場として狭く感じてきたからこそ、広い場所に移って来たに過ぎない。
――ヘカテのグロック18Cが、発射しなくなった。
ドラムマガジンによって増弾しておきながらも、撃ち切ってしまったのである。
ヘカテはため息をつき、投げ捨てる。
「ジャンヌ、どうしたんだい?
もう、僕の勝ちということかな?」
〈紫鎧〉はほくそ笑み、触手を伸ばしてくる。
うねり、鋭い速さをもって襲い掛かってくる。
しかし、確実に勝ったつもりでいるようで、捻りのない真っ直ぐな攻撃。
対して、ヘカテは駆けた。
〈紫鎧〉へと、遅い来る触手など恐れもせず、真っ直ぐに――
一つを避け、二つを避け、交差するものも避け、少女のすぐ前へと潜り込んでいく。
僅かに見える、見下ろしてくる〈紫鎧〉の顔は驚きに満ちている。
あれほどまで勝ち誇っていた顔はどこにもない。
ヘカテは左掌底を〈紫鎧〉の右胸下――レバーブロウの要領で叩き込む。
〈紫鎧〉の顔が苦悶に歪む。
「アタシはこの十四年もの間、ミズキからたくさんのものを教わった」
踏み込み、右掌底を鳩尾目がけて叩き込めば、〈紫鎧〉の体がくの字に折れる。
「ホマレからたくさんのものを学んだ」
さらに踏み込んで、右手で〈紫鎧〉の右腕を掴み、その懐へと潜り込むと背負うような形となり――さらに踏み込み――大きく体当たりをするように――貼山靠――〈紫鎧〉を吹き飛ばした。
体重を乗せて、さらには自らのオドを衝撃へと付加させての吹き飛ばしに、〈紫鎧〉は宙を舞った。
着地――転げていった。
動きが止まると、伸びていた触手が吸い込まれていくかのように、〈紫鎧〉の背へと戻っていく。
「この街にたくさんのものを貰ったの。
だから、あんたにはもう負けないし、あんたにアタシの周りを汚させたりもしない」
悶絶する〈紫鎧〉へと、ヘカテは歩み寄り――見下ろす。
雨風で乱れた髪に、その冷々とした眼差しは、羅刹の如く。
〈紫鎧〉は口をパクパクさせるだけで、言葉を発せられない。
咳き込み、たまらず胃の中のものを吐き出した。
「ジル・ド・レ、もう終わりにしよ。
何百年もずっと続けてきたことを、ここで終わらせよ。
今日は満月。
アタシの力で終わらせてあげるから」
空は分厚い雲で覆われている筈なのに、空から光が降りてくる。
ヘカテの背後の空に、雲の穴――台風の目――があり、満月を覗かせている。
「台風の中心がこの街の上を通るように、あらかじめ準備がされていたの。
台風を消すことまではできないけど、誘導するように魔術を用いていたのよ」
ヘカテはポケットから動物を模した置物を取り出した。
淡く光を帯び、魔具として起動している。
和葉が何かと弄んでいた代物。
天候を操る魔具として、かつて天候を操った者の名を冠して、〈ハットフィールドの犬〉と呼ばれている。
そして、台風が来るということをテレビが報じていたことに、この魔具を用いて満月をうまく現れるように調整していたのである。
「――んぐうぅ、ジ……ャンヌ……そこまでして……」
「そこまでしないと、アタシたちの因縁を断ち切ることなんてできないじゃない」
「そうか……僕の負けだよ。
今回こそ、ね。
さ、やっておくれ。
後腐れのないように」
〈紫鎧〉は両手を広げ、大の字になり、息をつく。
観念した――諦めと寂しさの入り混じる顔。
ヘカテは両手を〈紫鎧〉へと掲げた。
「残念ながら、そういうわけにはいかない。
折角の〈願望器〉の使用を無駄に終えるわけにはいかないのでな」
声――それも今の今までここにはヘカテと〈紫鎧〉しかいなかった。
屋内のイヴァンの部下たちが目を覚ましたとは思えない。
ヘカテは振り返る――が、視認するには遅く、至近に迫る大きな影。
黒い神父服――ルドルフ・フォン・モルゲンシュテルン。
ヘカテの胸元に衝撃――激しい痛みが走る。
ルドルフの右手、五指が鷲掴みの形で突き立てられていた。
指が食い込み、力を込められれば、骨が軋み――折れた。
ヘカテは悲鳴を上げ、胸元を押さえ、床に転げる。
ルドルフは指についた血を振り払うと、〈紫鎧〉へと見下ろす。
アメジストの瞳が暗闇の中だというのに、鮮明な色を帯びている。
「娘、お前の体が必要だ。
その体で願いを達しようという者がいるのでな。
そのために、来てもらおう」
ルドルフが〈紫鎧〉へと手を伸ばしていく――
「冗談じゃ、ないわよ」
ヘカテは立ち上がった。
ルドルフの指が突き刺さった筈の胸元は、血の跡を残して塞がっている。
自らの魔術により、強引に傷を塞いだのである――飽くまで治癒ではない。
満月であれば、〈月の魔女〉を信仰するヘカテの力は増大するからこその応急処置。
強制的に塞いだだけなので、表情に苦悶が残り、痛みを耐えていることは相手に伝わってしまう。
「ほぅ、立てるのか。
大人しく寝ていれば、命が助かったかもしれぬというのに」
ルドルフの視線――目標がヘカテへと切り替わる。
首に下げられているロザリオが月光を浴びていような光を放つ。
――その横、〈紫鎧〉の触手が伸び、ルドルフを貫かんと襲い掛かった。
霧散。
触れることもなく消えていく。
ルドルフの覆う〝加護〟が触手を遮ったのである。
「前にも言っただろう。
神の加護があるのだ。
魔性のものなど、触れることも叶わぬ」
ルドルフは〈紫鎧〉へと一瞥をくれ、ヘカテへと向き直るなり、駆けた。
現れた時と同じ、瞬く間に至近へと寄り、一撃を食らわせんと腕を振りかざす。
ヘカテは動けなかった。
反応できるか否かでなく、痛みが行動そのものを許してくれなかったのである。
意思における命令コマンドを、体がエラーを返してキャンセルしてくるのだ。
ルドルフの手が伸び――ヘカテの前へと白い壁が躍り出て――生々しい音とともに白い壁からヌラリとした液体を伴った腕が生えた。
「ぬぅ、そこまで動けたか」
白い壁の向こうからルドルフの声――白い壁へと腕が飲み込まれていく。
代わりに、生温かい液体を吐き出して、ヘカテを濡らしていく。
白い壁が倒れこんでくる。
ヘカテが支えれば――
「ジャンヌは……僕のものだ……。
誰……にも……渡さない……」
白い壁――〈紫鎧〉は吐血、咳き込み、体をヘカテへと預けてくる。
どうして、とヘカテは尋ねようも、言葉が出てこない。
とても軽い〈紫鎧〉の体、温かさ――抱きしめた。
フラッシュバック――瑞希を思い起こさせる。
十四年前の光景が蘇ってくる。
全身から力が抜けてしまうかのよう――〈紫鎧〉を抱えたまま座り込んだ。
手探りで、どうにか止血できないかとするが、大きく穿たれた傷を塞ぐには今や無理な状況だ。
それこそ、〈奇蹟〉でも起きない限り。
「これでは、その体は使いものにならぬか。
無念だ。自ら〈願望器〉の無駄遣いの手助けをするとは」
ルドルフが歯軋りをし、見下ろしてくる。
再度襲ってくる様子はない。
――遠くからサイレンが響き渡る。
いくつも重なって聞こえ、街の中を奔走しているようだ。
「街も騒がしくなってきたか。
これ以上、ここに留まるわけにもいかぬ。
命拾いしたな――」
ルドルフが身をひるがえしたかと思えば、すぐさま姿が消えていた。
夜の闇へと帰っていくように――。
「……ねぇ……ジャンヌ?」
「何?」
「引導を……渡してくれ……よ。
惨め……に、消え……ていく……より……ジャンヌの……手……で……」
〈紫鎧〉の手が力弱く、ヘカテの頬を撫でてくる。
〈念 僕は半分の願いが叶った。
悔いはあるけど、達成感も僅かにはあるんだ。
体こそ違えど、君はここにいる。
僕と話もしている。
そして、今の僕の体は、あの時の君と同じ、最も君が輝いていた頃と同じなんだ。
あとは、この体に君が入ってくれればよかったけど、そうもいかなくなってしまったし。 念〉
〈紫鎧〉が微笑む。
言葉として口にできず、〈念話〉に切り替わっている。
〈紫鎧〉として子どもを食い荒らしていた時と違い、とても穏和で優しい。
〈念 早くしないと、月が隠れてしまうよ。 念〉
「わかったわ。
それじゃ、向こうに逝ったら、ラ・イルによろしく言っといてね。
それだけじゃないわね。
ともに戦った、戦友たちに」
〈念 うん……。 念〉
〈紫鎧〉はゆっくりと目を閉じた。




