20.台風が過ぎようとも嵐が残っている。
ヘカテの抱える少女――〈紫鎧〉が光をまとう。
満月と同じ金色に輝く――とても美しく、儚げに――
〈紫鎧〉の姿が消えていき、紫の鎧だけが残り――それもまた、白へと変わって、砂となって風に乗って消えていく。
――何も残らない自分の手を、ヘカテは静かに見据えた。
残滓すらもない。
ため息も出なかった。
空から降りる光も消えていく。
台風の目が移動していって、満月が雲へと隠れたのである。
暗く、吹き荒れるだけの嵐の夜へと戻った。
「――来るのが遅れてしまった。
んにゃ、ワシなど要らんかったか」
誰かが細々とした声で近づいてくる。
聞き覚えのある声に、ヘカテはゆっくりと息を吐き出した。
今まで呼吸することすらも忘れていたのではないのかと感じるほどに、力が抜けていく。
安堵感――
「無事か、ウン?」
ヘカテの目前に声の主――誉が顔を覗かせてくる。
レインコートのフードから覗けるその顔は、雨に濡れるのを嫌う猫のようにしかめている。
それとも、もともとしかめっ面だったかもしれない。
「……ホマレ、アタシ、疲れた」
ヘカテは誉へと頭を垂れ、そのまま倒れこむ。
誉はヘカテの体を支え――
ヘカテは少女の姿となって、眠った。
◇
「一応、皆無事で済んだようですね」
栗花落ビルの四階に、それぞれが戻り――和葉はタオルで髪を拭きつつ言った。
その前にはうな垂れる美加が立つ。
「何ですか、その顔は?
無事だったのでしょ?
なのに、どうしてあなたは――また自暴自棄ですか?
この際、どうでもいいですね。
それよりも今は――」
和葉はタオルを美加へと預け、歩む。
その先には椅子に座るイヴァンとその首筋に刀の先を突きつける千代。
イヴァンは諦めというか、戦意が一切ないもので、大人しい。
対して、千代がいつ手にかけるのかわからないほどに殺気立っている。
和葉が宥めたところで、収まりそうもない雰囲気がある。
「とりあえず刀を下ろしてください。
それと、さっさとあなたも体を拭くなり、着替えたりしたほうがいいですよ」
しかし、言っておかないとならないと思って言う――のだが、案の定である。
千代は敵意に満ちたを視線を向けてくるのだ。
これでは誰が敵なのかわからない。
それでも、少し間を置いて、ため息をついてから刀を下ろして、イヴァンから離れていく。
こうなると、単に霞以外から指図を受けることが嫌なのだろう。
不貞腐れていることが見え見えである。
千代を宥めることのできる霞は、このフロアにいない。
ネコジシ商会の事務所で遊慧に付き添ってもらって休んでいる。
この数日に色々とあって疲弊しているからなのだが、さらに濡れたことで風邪の引き始めの症状が出ているので、この場にいることを遠慮したのである。
風邪をうつされても困るので、和葉は了承をしたのだが、せめて千代を宥めてからにしてほしかった、と愚痴をこぼしたくなる。
とはいえ、今さらなので、ぐっと堪えることにした。
また、ヘカテもここにいない。
消耗が激しく、少女のまま運ばれてきたので、部屋で休んでもらっている。
もうこれ以上〈紫鎧〉の被害は出ないということなので、今はゆっくりと休んでもらおうというのである。
彼女らの代わりというわけでもないのだが、霞を連れてきた隆文とヘカテを抱きかかえてきた誉がいる。
隆文には後始末をしてもらうためにいても構わないのだが、誉はヘカテの名代だと言っておきながら、今回の事件に関して興味を示しているのだろう。
話を聞きたがっているだけのようだ。
後始末のほうは、する気がないようで隆文に全て押し付けようという魂胆が見え見えである。
後始末といっても、イヴァン及び部下たちとこのフロアへと押し寄せてきた目出し帽たちの身柄を引き渡すというものだ。
すでにイヴァンを除いた者たちは、〝然るべき機関〟へと渡された後となり、ここいはイヴァンだけが残っている。
「ここへと連れてきて、どうするつもりだ?
君は目的を果たした筈だ。
なら、吾も彼ら同様に引き渡さなければならなかったのではないのかね?」
イヴァンが口を開く。
目的とは、瑞希を助け出すこと。
確かにイヴァンから瑞希の居場所を教わり、助け出すことはできた。
瑞希は安雄とともにベルクトが家へと帰された、と連絡を受けている。
なので、目的を達している。
イヴァンの言うとおりである。
でも、和葉にとって用はまだ終わっていない。
「警察に渡せばよかった、と?
それについては後回しです。
あなたと話をしたかったのです」
和葉は首を横に振る。
「話? 何のために。
聞いて何を得る?」
イヴァンは怪訝のままに視線を鋭くする。
戦意はなくとも、意義に疑問があれば抗うと言いたげの目。
「何を得られるか、と問われますと困りますね。
――そうですね。
少なくとも彼女はとても話したがっているので、僕はその仲介役といえばよかったですかね。
僕が何かを得る以前の話となるわけです」
和葉はイヴァンからフロアの隅にいるリーリャへと見やる。
リーリャとイヴァンの視線が交錯した。
「本当なら二人きりにしたほうがいいのでしょうが、僕たちも居座らせてもらいます。
念のため、という形ですがね」
和葉はリーリャに場を譲るため、イヴァンの前から離れた。
未だ俯いている美加の腕を掴み、窓際へと連れて行く。
美加は抵抗もなくついてきた。
窓際で美加は壁に背をつけて、丸くなるように座った。
和葉は一つ息をつき、隣へと座った。
見やれば、今にも泣きそうな顔をしている。
目に涙を溜めていた。
この場合、どのような言葉をかければいいのだろうか。
悩む間もなく――
「私は何もできませんでした」
もう何度耳にしただろうか。
辟易とさえする言葉が美加の口から漏れる。
「またそれですか。
いいですよ、何も謝らなくて。
それと、今回はあなたのお蔭で皆無事で済んだのですから。
襲ってきた側が怪我をしたのは、まあ、自業自得で片付けられますし、なおさら気にするほどのことでもありません。
なので、〝何もできない〟は要りません。
話は聞きました。
蒼い蝶が出てきたそうですね。
あれは、あなたに預けていたそれが起動したものです。
ということは、あなたが起動させたということになります。
よって、助かったとなれば、あなたが助けたのですよ」
和葉は美加の首に下げるペンダントを指差す。
蛍光灯の光を浴びて、蒼だったものが鮮やかな青として灯っている。
美加はペンダントトップを手にした。
眺め――和葉を見やってくる。
「魔具である、と渡した時に言いましたよね。
それを身につけているあなたが起動させない限り、力を発揮できません。
僕は飽くまで起動できる段階までしてあっただけで、その場にいない限り、起動そのものを関与できませんので。
もう一度言います。謝らないでください。
あなたが皆を助けたんです。
ですから、胸を張ってください。
一番の功労者なのですから」
和葉は柔らかな笑みを見せる。
美加は戸惑い、はにかみ、再び俯いてしまう。
和葉はため息をつくしかない。
今の言葉で少しは気が楽になってもらえたらと思うしかないのだ。
もう少しかける言葉がよければいいのかもしれないが、どのような言葉がいいのか思いつかないので、どうしようもない。
視線をリーリャとイヴァンへと向ければ、リーリャがイヴァンの前まで車椅子を走らせ、止まる。
二人がロシア語で話を始めた。
他人に聞かれたくなかったのかとも思ったのだが、イヴァンが日本語を得意としていないと考えるが普通か。
それに二人ともロシアの出身なのだから、母国語で話すことが自然といえよう。
「――ようやく、ゆっくりとお話ができますね」
「ああ、あの時はすまなかった。
復旧はもう少し時間がかかると思っていたのだが、もうそこまで動けるようになったのだな」
「はい。色々な人たちの尽力のお蔭です。
――それで、なぜ今になって行動を起こすようなことをしたのですか、〝お父様〟?」
「……どう言えばいいのだろうな。
正直なところ、行動を起こす気など始めはなかった。
祖国から逃げ続けることを嫌った部下が勝手に――いや、言い訳にしかならんな。
それを抑えることができなかったのだから。
――それに、年老いたことが一番の理由なのかもしれん。
部下と同じ、逃げるのも疲れた。
ずっと離れていたお前を見たかった。
話をしたかった」
「それでしたら、いつだってできました。
お父様が会いたいと言えば、私はいつだってお父様に会いにいきます!」
リーリャの一段と大きくなった声に、フロア一帯の雰囲気が変わる。
誰もが気まずそうに二人から視線を逸らす。
「お前を人の体に戻したかったのだ。
人の体に戻ったお前を抱きしめたかったのだ。
今さら言うようなことでもないのかもしれんが、それが一番の目的だったのだ。
そうなれば、その機械の体は部下たちにくれてやり、吾はお前と一緒に暮らせると思っていた。
――でも終わりだ。全て終わった。
今日の満月に合わせて人の体に戻す予定だったのだが、天気は嵐のど真ん中だ。
さらに得体の知れない体は滅したそうだからな」
イヴァンは意気消沈と深々とため息をついた。
その手をリーリャは取る。
両手で抱え、優しくも寂しそうな笑みを向けた。
「お父様、国に帰りましょう。
罰を受けることになってしまいますが――それでも私は毎日会いに行きます。
お互いに触れることができるかわかりませんが、会話できるように頼んでみますから」
◇
翌日は昼前に雲が晴れ、台風一過となって青々とした空が広がっていた。
台風の運んできた湿気がジトジトとした空気を作っているのだが、その分陽射しが燦々と降り注ぐので、不快感を相殺してくれる気分に――
なれていなかった。そういう空気ではなかった。
ネコジシ商会にどんよりとした雲が残っていた。
いや、雰囲気というべきだろうか。
美加が俯き、スチールデスクの前に立つ。
和葉はいつもの席に座り、今回の件における商会の損害額がいくらになるのか目算して顔をしかめている。
街の損害についてはネコジシ商会に支払い請求が来ていないので胸を撫で下ろしているのだが、栗花落ビルの損害は全て支払うこととなっているのでげんなりとしているのだ。
四階の使用料に、〝ラングレー〟が好き放題撃ってくれたために修繕費が加算されてしまったのである。
さらには、もともと古い建物とあって、あちこち朽ちてきているわけだが、その修繕費まで計上されている理不尽さについての苛立ちは誰に向ければいいのだろうか、とその顔に書かれている。
和葉は請求書の束をスチールデスクへと放る。
いくら見たところで金額が減るわけでもないので、ため息をつき――
「いい加減、その陰湿な空気をどうにかできませんかね?
これでは、ストレス発散のためにあなたをからかって遊ぶにも、ためらってしまうじゃないですか。
さ、いつもみたいに年上ぶってください。
そうすれば、ここぞとばかりに倍返しにしてあげますから」
「………………」
両手を広げて言ってくる和葉に、美加は俯いたままだんまり。
「これだけ言っても、何も言い返さないのですか。
そういう気分にもなりませんか?
まあ、無理に明るく振舞えとは言いません。
ですが、瑞希さんは無事に戻ってきました。
イヴァン大佐の身柄も確保――リーリャたちへと引き渡すことができました。
〝ラングレー〟の人たちは〝然るべき機関〟に任せましたので、しばらく大丈夫でしょう。
彼らとしても、失態を重ねてしまったことが、彼らの国に知れたでしょうし、面子とやらでうまく動けないでしょうからね。
ま、〝大国としての矜持〟があれば、の話ですが」
和葉は立ち上がる。
棚の前へと歩み、マグカップを二つ用意してコーヒーを注いでいく。
いつもなら美加に全てやらせるのだが、和葉自らやるのは美加の消沈振りを見てのことだろう。
いつもからかって遊ぶ〝黒猫〟が珍しく表立って気を遣っているようである。
「……あの和葉くん……」
「何です?
何かわからないところがありましたか?
難しいことを言ったとも思えなかったのですが」
「瑞希お姉さんが無事に戻ってきたって、どういうことなの?
瑞希お姉さんに何かあったの?」
「おや、言ってませんでしたか?
あの人の〝悪い癖〟とやらが出てしまったようで、何の因果か、大佐たちに囚われてしまったのです。
まあ、ヘカテが見つけ、無事に解放するに至ったわけですけどね」
「聞いてません。
そんなことになっていたなんて……」
美加は和葉を睨んだ。
和葉は素っ気なく受け流し、三毛猫のイラストが描かれたマグカップを差し出してくる。
「別にあなたにだけ話さなかったわけではありません。
リーリャにも四塔遊慧にも話していませんでした。
まあ、彼女たちのことですから、誰かに話を聞いているかもしれませんけど。
あなたを仲間外れにしようとか思っていませんので、変な勘繰りはしないでくださいね」
美加がマグカップを受け取らないと見ると、和葉はスチールデスクへと置いた。
自分の席へと戻り、黒猫のイラストが描かれたマグカップを傾ける。
「和葉くん……」
「今度は何です?」
「これを返し忘れていたので、返しておこうと思って」
美加はポケットからペンダントを取り出す。
蒼い石のペンダント――和葉から借り、自分たちを守ってくれた魔具。
スチールデスクの上へと置く。
未だにこのペンダントからあの蒼い蝶が出てきたことに、信じられない思いがあり、見据える。
「ああ、それですか。
預けたままでしたね。
――そうですね。
何と言いますか、あなたにそれを預けてた僕が言うのも変な感じですが、因果でしょうかね」
和葉はペンダントを手にすると、掲げて蒼い光に目を細めている。
何か感慨深いものがあるのだろうか、美加は和葉に倣ってペンダントを見据える。
手元で見る蒼と何ら変わらない色。
「〈蒼い王〉が何事もなく起動し、休止してくれたことはよかったです。
まあ、強大でありながらも、暴走のしにくさが、これの価値なんですがね。
いつぞやの暴走した時は困ったものでした」
ペンダントをスチールデスクの引き出しへとしまう。
雑な扱いに見えるのだが、それも和葉の言うとおりなら、〝暴走のしにくさ〟によって引き出しにしまっておいても問題ないということなのだろう。
――〈蒼い王〉。
美加の胸が高鳴る。
記憶が、閉ざしていた記憶が逆巻いてくる。
脈打つ心臓が、記憶を引き上げるポンプのように汲み上げてくる。
もう、一度勢いのついたものはそう簡単に止まるものでもなく――
鼓動に合わせて、目の前に見えるあの時の光景――
三人の男、白矢――そして、今回の件。
自分に向けられてきたいくつもの殺意――
震えが止まらない。
抑えきれない。
ポンプによって吐き出される勢いのある水の如く。
「〈蒼い王〉というのは、それのことなんですか?
私があの時襲われたのは……和葉くんがそれを持っていたからなんですか?
じゃあ、あの時私にあれを渡したのは、それをあの人たちから隠すためだったんですか!?」
スチールデスクへと手を突き、乗り出すようにして、半狂乱に叫ぶ。
その拍子にマグカップが倒れ、こげ茶色の水溜りを作り出す。
和葉はきょとんとした様子だ。
どうして叫ぶことがあるのだろうか、と問うような視線。
「何を言っているのですか?
ああ、〈蒼い王〉の件のことも話していませんでしたか?
これはですね――」
「もういい!
そうですね。
何の役にも立たない私ですから、身代わりとして消費するのが一番ですよね!」
美加は歯を食いしばり、今にも漏れ出しそうな嗚咽を抑えつけ――きびすを返して、駆けた。
和葉が呼び止めてくるが、聞く耳を持たない。
スチール製のドアを乱暴に開け、勢いそのままに廊下を駆けた。
ネコジシ商会を出ると、もう感情を抑えきれなくなってしまっていた。
泣き喚き、階段を一気に駆け下りていく。
何度も踏み外しそうになったが、転ぶことなく栗花落ビルの外へと出た。
行き交う人たちの視線が幾度となく差してくるのだが、全く目に入らない。
構わずに駆け続けた。
信じているものに裏切られた、のだと胸にして――。
◇
「ねぇ、カズハ。
ミカが怒ってたよ。
ちゃんと話さなかったの?
ミカはカズハのこと、信頼してたんだよ。
なのに、あれじゃ――」
顔色の悪いヘカテが部屋から出てくる。
少女の姿のまま、まだ体力が回復していないのだろう。
それに負わされた傷が癒えていないのだから、なおさらのこと。
寝ていたら美加の叫び声が聞こえたから、気になって出てきたのだろう。
部屋のから盗み見るぐらいなら、事務所の隅でじっと静観しているのがヘカテだ。
寝ていられないほどの声だったのだろう。
「話すも何も、僕の話を聞く気が全くないようでしたよ。
あれでは取り付く島もありません」
と返すのだが、ヘカテはため息をついて部屋へと戻っていってしまう。
悪いのは和葉のほうなのだ、と言いたげな背中に見える。
和葉は訝しくまま、なぜ責められなければならないのか、とコーヒーを飲んだ。
引き出しからペンダントを取り出す。
〈蒼い王〉とは別の、一度は美加にあげ、お守りとして借りたものだ。
返しそびれたそれは、美加の心境を表しているのか、悲しい光を放っていた。




