14.年月は経てども、人がそう簡単に変わりはしない。
満月を迎えるまで、あと少しというところだろうか。
次第に膨らみつつある月は、体を丸める金色の猫か。
ぬくぬくと眠っている姿に見えなくもない。
そして、残りの欠けている部分は、隠している尻尾のよう。
夜の街が明かりを灯す中で、ビルの上はとても静かで暗い。
明かりといえば、ビルの端に見える赤い明かりの航空障害灯ぐらいのもの。
他は露ならではの湿り気を帯びた空気に歪められてしまい、うまく光が届かない。
ビルの縁には双眼鏡で街を見下ろしている影がある。
そのほとんどが闇に溶け込んでしまっているのだが、ところどころ赤い明かりによって姿が浮かび上がる。
ヘカテだ。
そのヘカテへと近づく姿。
何の警戒もなく、真っ直ぐに近づいてくる。
だからか、ヘカテも何の警戒も持たずに、近づいてくるのを待つ。
「どう? 見つかった?」
緊張感のないおっとりとした口調で尋ねてくる。
ヘカテはため息をつきつつ、双眼鏡から目を離し、振り返った。
「大人しく家にいればいいのに。
ミズキは何もしなくていいんだよ」
困った顔で言う。
近づくほう――瑞希はビニル袋を下げ、笑んでいる。
袋を広げ、中から何かを取り出すと、預けてきた。
ヘカテの言うことを全く耳に入れていない。
「ヘカテ、ちゃんと食べてる?
忙しいからって、食べてないってことないよね?」
コンビニのおにぎりである。
差し入れのつもりらしい。
「食べてるし、ミズキに頼まなきゃならないほど困ってないよ」
ヘカテは双眼鏡を首に垂らすと、おにぎりの封を開けて、かじりついた。
中は塩気のある固形物ということはわかるのだが、正直何の味かまではわからなかった。
味覚が乏しくなってきている。
それだけ疲労が溜まってきているのだろうか。
瑞希に言われて、ようやく自分が忙しいのだということを自覚できた。
だからといって、「忙しい」を口にしたくはなかった。
瑞希はヘカテが食べる様を見て、さらに笑みを浮かべてくる。
過去の記憶が蘇る。
ヘカテが食事を取っていると、瑞希は決まって眺めてくるのである。
そして、どこか嬉しそうに笑むのだ。
「それじゃ、私は帰るわね。
これ、食べてね。
本当は手作りのものがいいのだろうけど、この時季だと長持ちしないから困るのよね」
瑞希はヘカテがおにぎりを食べたことで満足したらしく、ビニル袋を預けてきて、くるりときびすを返した。
両手を掲げ、空を仰ぎ――
「月が高いなぁ。そろそろ満月かぁ」
吠えるわけでもなく、月へと言うのだ。
ヘカテも倣って月を見る。
瑞希の言葉に何か意味があるのだろうか、気になって待つことにした。
でも、何もない。
月から瑞希へと視線を変えれば、ヘカテを見据えてくる。
その目は何を言おうとしているのだろうか。
「みんな隠れちゃって、どこにいるのかわからないんだよね?
いつ動くかわからないんだよね?
だったら、ヘカテが相手の立場だったら、どうする?
――なんてね。
それでわかれば、苦労しないよね」
瑞希の笑みが闇の中へと消えていく。
独りに戻り、ビニル袋を足元に置くと、再び双眼鏡を手にして、街を見下ろす作業に戻った。
「アタシだったら、満月の夜に事を起こすわよ。
だからこそ、先に見つけておきたいの。
ロシア人が動いたのと〈オルレアンの乙女〉が消えたのは同時期だったんだもの。
何かあると見るしかないじゃない。
今度こそ、ミズキが怪我するようなことが起きないように、アタシで止めたいの」
虚空へと向けて、言い放った。
◇
ビルから下りてくれば、いつもの夜の街がある。
色とりどりの明かりで装飾されたデコレーションケーキのような、人を砂糖の甘さで惑わす街。
人々が多く行き交っているが、誰もが自分に一生懸命で周囲に気を遣っていられないようだ。
動きがとても忙しない。
瑞希の〈魔眼〉から、行き交う人々の〝色〟が見える。
今もなお、〈人の枠〉に収まっているか否かを見定められる能力は健在で、生まれついてずっと見えてきた世界。
かつては、人々の違いを見えない〝一般人〟に憧れもあった。
でも、この〈魔眼〉のお陰で様々な人と巡り会えたことは紛れもない事実であり、変えがたい人生を送ってきたと自負さえしている。
だから、〈魔眼〉持ちという〈人の枠〉から外れた人生も悪くないな、とかつての憧れはどこかへと行ってしまった。
――視界の隅、ふと気になる〝色〟が見えた。
どのような〝色〟なのかはわからなかった。
すぐさま人々の中に紛れてしまって、見えなくなってしまったからである。
ただ、頭の片隅に見たことのある〝色〟だという認識がある。
だからこそ気になってしまう。
ただの顔見知りなのかもしれないし、それ以外の何かがあるかもしれない。
人々の合間を縫い、視界の隅で捉えたと思しき場所へとやって来た。
誰かがいるわけではなく、何かがあるようにも見えない。
周囲を見渡すも駄目。
これ以上認識を強めようとすると、周囲の色と〝色〟に溺れそうになってしまう。
一度深呼吸をし、気を落ち着かせた。
視点を人々から背後にある裏の路地へと向ける。
もしかしたら、〝色〟を持っているからこそ、人々の中ではなく、街の裏へと行ってしまったのではなかろうか。
〈人の枠〉に囚われない〝色〟であると確定したわけでもないのだが、そう思えて仕方がない。
もとより見たという確証すらないのだ。
最初に見えたものだって、見間違いなのかもしれない。
裏の路地へと行って、何もなくて空振りだったとしても、気にする必要もない。
勝手に何を考えていたのだろう、と嗤えば済む話。
瑞希は、街の明かりさえもあまり入らない暗い路地へと足を向けた。
細い路地をゆっくりと進んでいく。
時折、明かりの灯った小さな居酒屋などがあるものの、基本的に人の数が少ない。
気になった〝色〟は依然見えてこない。
この先に行けば何があるのだろうと期待して、歩みを続けるだけ。
こんなにも暗い路地を歩いているのに、自然と怖さはなかった。
視界の端に、また何かが見えた。
目当ての〝色〟なのだろうか。
期待に胸が弾んで、歩む速さが増す。
〝色〟らしいものが見えたのは、この先で曲がった筈だ、と角へとついたところで見やれば――
この闇の中でもはっきりとわかる長い金髪を垂らし、白い肌とワンピース。
ゆっくりとこちらに振り返って見やってくる。
その姿は少女。
〝色〟は明らかに〈人の枠〉に収まっていない色を表し、やはりどこかで見たことがある〝色〟。
でも、顔は見覚えがない。
「さっきから、僕をつけ回しているようだけど、誰だい?」
少女から先に口を開いた――でも、すぐさま瑞希の顔を見るなり、驚いているようだ。
「まさかね。何の因果だろうね。
僕がこの姿になってしまったことを知っていたりするのかな?
それとも、僕を見つけるのが得意なのかな?
ねえ、答えてくれるかい?」
瑞希のことを知っているような口振り。
でも、瑞希には見覚えがあるようでないようで、ちぐはぐな感覚にどう答えていいのか困ってしまう。
「十四年ぶりだよね?
僕から受けた傷、大丈夫だったんだ?
というより、この姿じゃ、僕が誰だかわからないようだね。
何と言えばいいのだろうかね。
ジル・ド・レ、青ヒゲ、〈紫鎧〉、〈オルレアンの乙女〉、この辺りでわかってもらえるかな?」
「え? あの時の……」
瑞希は息を呑む。
記憶が蘇ってくる。
自分の胸の傷をつけた相手。
自分の浅はかさを思い知る事柄。
少女は瑞希の反応を見て、不敵な笑みを漏らす。
「そうなんだ。
でも、こんな姿になっているなんて、誰もわからないよね」
少女はは一度かぶりを振ってから言った。
少女に言われて、ようやくわかった。
〝色〟は〈紫鎧〉のもの。
十四年前と変わらない〝色〟を持っている。
だから、見覚えがあるわけなのだ、と。
ただ、〝色〟は〈紫鎧〉のものなのに、〝〈紫鎧〉そのもの〟がこの少女にはなかった。
〈紫鎧〉といわれるだけあって、紫の鎧をまとっている筈なのに、この少女はまとっていない。
どうして、と視線で問う。
「僕だって好きでこの体になったわけじゃないよ。
この体に〝させられてしまった〟んだ。
――ふぅ、やれやれだね。
もう僕に追いついてしまったのか。
うまく逃げられたと思ったのに。
この体に、まだまだ慣れていないのかな」
少女――〈紫鎧〉が見上げる。
何を見ているのか、瑞希にはわからなかった。
月というには、建物に隠れてしまって見えない。
建物の合間から見える空とも思えない。
建物を見ているようだが、一つに限らず、いくつも見ているようだ。
「何かがいるの?」
「そうだよ。
僕をこんな体にした連中だよ――」
〈紫鎧〉は肩をすぼめた。
直後、突然瑞希の視界がぼやけ――いや、後頭部に痛みが走ったかと思えば、意識が飛んだ。
◇
イヴァンとその部下たちが、金髪の少女と地面に付している女を囲っている。
どれも短機関銃――Vz85を持っている。
「大佐、この女をどうしますか?」
イヴァンの隣に立つ男が、尋ねた。殺すか否かを。
イヴァンは女を見下ろしながら――
「ネコジシ商会との関係があるらしい。
まあ、過去のことではあるがな。
ともなれば、リディアとの取引に使えるだろう。
連れて帰るだけだ」
「人質を取るには、危険を伴うのではないでしょうか?
この女が枷になって動きづらくなることも考えられます」
だから殺せ、と上申してくる。
「向こうには〝蛇〟がいる。
あの女が生きている限り、我々の障害になる。
だが、取引で済ませられれば、女一人が枷になろうとも、作戦に支障はなかろう」
「はっ、わかりました。
おい、その女を運べ。
下手に傷つけて、取引に使えなくなっても困るからな」
男は周囲の男たちへと指示を出していく。
イヴァンは少女の前へと歩み寄っていく。
少女はイヴァンを睨み返すのみ。
「よく逃げ出せたものだ。
もともと持っている力が戻りつつあるのか?
とはいえ、こんなことは今回だけだ。
次からは、お前の監視を厳重にさせてもらう。
息苦しくなるかもしれないが、お前の撒いた種だと思って、諦めるのだな」
イヴァンは少女の腕を掴んだ。
少女は抵抗を試みようとするのだが、振り払うには力が足りないようだ。
イヴァンはそのまま少女を引き連れて歩き出した。
「よし、撤退するぞ。
この街は、色々と厄介な相手が多すぎるからな。
それとも、この街ゆえか。
だからこそ、吾々はこの街を選んだのだからな」
◇
『――台風八号は小笠原諸島の北部を、勢力を増しながら北上しており、関東地方に上陸する進路を取っています』
美加はベッドの上で携帯テレビを手にしてのんびりと眺めていた。
熱はまだ僅かにあるものの、記憶の混乱はもうないようで、至って普通の時間を取り戻しつつあるようだ。
特に面白い番組があるわけでもないのだが、適当にチャンネルを変えて天気予報になったところで、じっと眺めているのである。
動けない身なのだから、天気予報など気にする必要などないのだろうに、それでも見ているのは外へ出歩くことの願望があるのか、単に暇を持て余しているから、のどちらかなのだろう。
ベッドを囲うようにあったカーテンは、いつもなら閉じられているのだが、今は開かれている。
いつまでもカーテンを閉じた状態でいると息が詰まる思いに苛まれるからなのだろうと見て取れる。
それとも、閉ざされた空間が心を深淵へと陥れる谷に見えてしまうからだろうか。
ベッドのそばには遊慧がいつものようについている。
色々と動いているよりも大人しくしているほうが体には障らない筈なのだが、大人しく休んでいるよりも何かをしていたいと言うので、美加の面倒を看てもらっているのである。
とはいえ、美加のそばにいるだけなので、ほとんどが自前で文庫本を持ち込んで読んでいるだけであるのだが。
美加たちからやや離れたところでは、和葉が美加を眺めている。
すぐそばにはリーリャがおり、未だ車椅子に乗っているものの、少しずつ機能を取り戻しつつあるようで、口から言葉を発し、表情も作れるまでに至っている。
手も僅かながら動かすことができるようで、車椅子はタッチパネルで操作できる電動式に取り替えられている。
「何で、テレビなんかに食いっているのでしょうかね。
まさか、今時テレビが珍しいなんて言うんじゃないでしょうね」
「ずっと、こんなところで寝ていたから、気を紛らわすものだったら何だってよかったのかもね」
「そういうものでしょうかね」
和葉は息をついた。
和葉もまた暇を持て余していたというべきか、特別何かをしなければならないことはなく、待機している状態が続いている。
基本的に行動しているのはヘカテと千代で、和葉は情報を待っていることしかない。
動物を模した置物を手にして、特に何をするわけでもなく手の中で回している。
これも魔具の一つなのだが、いまいち効果があるのか疑わしい。
初めて扱う魔具であり、どのような効果があるのかを聞かされているのだが、その効果が〝天のみぞ知る〟ようなものなのだから、半信半疑といったところ。
とはいえ、扱ってもすぐに効果が出るわけではないので、こうして手にしているだけというのが現状である。
すると――
「カズくん、ちょっといい?」
和葉が暇を持て余していると見てなのか、霞がフロアに入ってくるなり、手招いている。
これから和葉で遊ぶつもりなのかと怪訝の目を向けるのだが、神妙な面持ちをしているので違うと見る。
和葉は面倒くさそうな顔をしながらも、リーリャへと置物を預けると、霞へと寄っていき、一緒にフロアから出た。
――廊下は静かで、ジメリとしながらもどこか冷たい空気が支配している。
そこに安雄が待ち構えていた。
霞が安雄へと目配せをしているところを見ると、実際に和葉へと用があるのは霞でなく安雄ということになるのだろう。
「悪いな。上に行ったら、誰もいなかったんでな」
「いえ、事務所を空けていたのですから、僕のミスです。
それで、僕に何か用が?」
「ん? あ、あぁ――」
安雄はどこか言いづらそうに顔を背けてしまう。
用があるのに言いづらそうにされると、和葉としてはどう対応していいのか困り、首を傾げる。
「――あぁ、お前にこんなことを頼むのは、ちと違う気がしてならないんだがな。
……うちのカミさんが昨日から家に戻ってねえんだ。
だから、こっちにいるんじゃないかと思って来たわけだが」
「折部さんの奥さんを?
僕は見ていませんよ。
ヘカテのところにでも行っているんじゃないですか?
今、ヘカテは外に出ているので、連絡がつながるかわかりませんが、つないで聞いてみましょうか?」
「あ? あ、ああ、頼む」
安雄は心ここにあらずのようだ。
瑞希が帰ってこないというのだから、焦る気持ちはわかるのだが、それにしてもいつもの安雄らしさが全く感じられない。
「どうしました?
いつもの折部さんらしくない。
堂々としていてください」
「あぁ、悪い。
最近色々と起きているからな。
カミさんまで何かあったんじゃないかと考えるとな。
いても立ってもいられなくてな」
「奥さん思いなんですね。
折部さんのことだから亭主関白で、奥さんにはついて来いなんて言っているような人だと思っていました」
「う、うるせぇ」
「では、僕はヘカテと連絡を取ってくるので、そこで暇そうにしている人でもからかって待っていてください」
和葉は小さく笑み、美加たちのいるフロアへと通じる入り口を指差した。
◇
「――えぇ、昨夜そちらに来て、帰った?
そうですか。
となると、その後の足取りが掴めないということになりますね」
『ミズキに何かあったの?』
和葉の握る受話器からヘカテの甲高い声が耳を劈いてくる。
耳から受話器を少し離した。
ヘカテに瑞希の行方がわからないと伝えた途端、ヘカテの声色が大きく変わったのである。
ヘカテが瑞希を心底敬愛していることを考えれば、瑞希に何かがあったとなれば心配でいられないのだろう。
声だけなのに、それは痛いほど伝わってくる。
受話器を耳へとあて――
「今のところ、わからないとしか答えようがありません。
あった可能性が高いと思うのが妥当な線です。
僕にはあの人のことをよく知りません。
ヘカテのほうがよく知っているでしょうに。
心当たりはありますか?」
『わからないよ。
でも、ね。昨日は街の様子が少しおかしかった。
ザワザワと何かが動いているようだった。
何とか大佐っていう人たちなのかな?』
「なるほど。可能性はありますね。
仮に彼らが動いていたとして、瑞希さんに何か関わりがある可能性はあると思いますか?」
『そんなのわからないよ。
ずっとビルの上から街を見下ろしているけど、サクヤの小間使いがチョロチョロしているのしか確認できないんだもの。
ロシア人って、アタシのトレースの仕方を知っているのかな?』
「この街にあなたがいることは、周知のことですからね。
トレースに関しても対策を練って動くことだって考えられるでしょう。
それに、あなたは魔具のトレース専門ですので、〝一般人〟相手では力にならないでしょうに」
『そんなのわかってるよ、バカカズハ。
それじゃ、アタシは一度戻るけどいい?
ミズキのことが気がかりだし』
「わかりました。
ついでに、小間使い――いいえ、漆原千代の回収もお願いします。
僕たちは後手後手に回りすぎて、どうしようもありません。
瑞希さんのこともありますので、話し合う必要があります」
和葉は受話器を置いてため息をつく。
沈黙――電話から視線を外し、棚のほうへと見やった。
棚に背もたれ、古い戦闘機のイラストが描かれたマグカップを片手に、煙草を喫む男が、和葉の視線を煙たがって顔をしかめている。
「な、何だよ?
社長の座を降りたら、ここに来ちゃいけねぇのかぁ?」
「いえ。煙草を吸うのはやめておいたほうがいいですよ。
奥方に言われているじゃありませんか」
「っぬぅ。お前もバア様の言いなりかよぉ。
男ってぇのは、どこ行っても肩身がせめぇなぁ」
男――今や髪が全て白く染まった誉は、最後の一口と言わんばかりに大きく吸い、煙を吐き出す。
物足りなそうな顔で煙の消え行く様を見届け、灰皿――自前で用意したらしい――へと押し付けると、コーヒーを一気に飲み干した。
「んでよぉ、話を聞けば、元バイト娘がいないって?」
「はい。昨夜、ヘカテと会った後から行方がわかっていません。
折部さんも心配して捜し回っている様子でした」
「そうか。
犬猫ってのはぁよぉ、しっかりと見ておかねえとすぐにどっかに行くもんだからよぉ。
ま、首輪つけて縄で引っ張っとくわけにもいかんかぁ。
猪娘だとなおさらだな。
何年経っても、治らねえ。
んじゃ、街の人間に聞いて回っとくからよぉ。
コーヒー、ご馳走さん」
誉はマグカップを棚へと置くと、灰皿を手にしたまま事務所から出て行った。
◇
「んんぅ……」
和葉が四階のフロアへと戻ってくれば、膨れっ面でテレビを睨むように見ている美加の姿がある。
そばに付き添っている遊慧は困った顔をしている。
霞とリーリャは離れたところで美加をどうやって宥めるか相談しているところだ。
安雄の姿はどこにもない。
状況からして、美加は安雄にからかわれたと見るべきだろうか。
だからこそ膨れているのだと予想する。
和葉はあえて話を聞いてやろうと近づいていく。
すると、美加が鋭い視線を向けてくる。
いつぞやの不機嫌な山猫を思い出させる目だ。
「何かあったのですか?
折部さんが来ていた筈ですが」
「何だっていいじゃないですか。
どうせ、和葉くんも折部さんみたいに言うんでしょうから!」
安雄が何かを言ったがために不機嫌な山猫が生まれたのは確かなようだ。
あとは、安雄が何を言ったのかが気になるところ。
それを聞くにも、美加が聞かせまいとする態度になっているので、遊慧へと見やる。
遊慧は首を横に振った。
霞へと見やっても同様。
となると、もう一人――リーリャも同じだった。
「ま、あなたが何だっていいと言うのでしたら、追求はしませんけどね」
どうせしょうもないことを言われて不機嫌になっているのだから、聞く必要もないのだろう、と椅子を手にしてベッドのそばへと置こうとしたところで、未だ視線を向けてきている美加が――
「近寄らないで!」
ややヒステリックに言ってきた。
こうも拒絶反応を見せるのは初めてのことで、和葉は呆気に取られ、椅子を置けずに、また動けずにいた。
「数日、ずっとベッドの上で生活しているものですから、その……何といいますか、汗は拭えますが、髪ともなるとどうすることもできず……」
遊慧が美加の代弁者として説明をしてくれる。
美加はじっと和葉を睨んだまま。
その視線が同じことを言っているらしい。
「はぁ、なるほど。
自らの臭いが気になるのですね。
わかりました。近くの美容院に訳を言って、洗髪だけでもさせてもらえないか頼んでおきます。
風呂に関しては、さすがにここへと用意するわけにもいかないでしょうから、我慢してください。
ヘカテが戻ってくれば、銭湯へと連れて行くようにでも頼んでみますが――その傷では、銭湯は無理でしょうけど」
和葉は椅子を元の場所へと戻すと、きびすを返した。
霞が近づいてくる。
「ゴメンネ、カズくん。
やっぱり女としては――」
「わかっています。皆まで言わないでください。
僕としては気にしていませんでしたが、折部さんが指摘したんですよね?
それで機嫌を損ねたわけですよね?
では、僕が戻ってくるまでにあの山猫をどうにかして、餌でも与えて手懐けるなりして、落ち着かせておいてください。
いつまでも不機嫌でいられるのも、ここの精神衛生上よくないでしょうし――むしろ、面倒くさいです」
「カズくん、最後のは禁句」
霞がげんなりと指摘してくる。
この場合の〝くさい〟の意味は違うものの、口にしてはいけない言葉だったことはよくわかっている。
だが、そこは和葉のいつもの嫌味だ。
あえて言ったのである。
つんけんされたからやり返したに過ぎない。
背後から「和葉くんも言った!」と煩い声が聞こえてくるものの、和葉はフロアから出て行った。




