11.疑問は蛇の睨みで遮られる。
美加の目の前で、千代と女が攻防を繰り広げていた。
鍔迫り合いでせめぎあったかと思えば、蹴りを繰り出して間合いを取る。
間合いを詰めたかと思えば蹴り、そうでなければまた鍔迫り合い。
どちらも刀を持っているの無闇に振り回すということはなかった。
知っている者同士だから加減をしているのか――というわけでもない。
刀による攻撃は必殺ともいえるチャンスに行うものだと決めているようだった。
それゆえに、相手の防御を崩すため、鍔迫り合いや蹴りなどの体術で攻めているのだろう。
千代が切っ先を横に傾け、水平突きを放った。
女は刀の峰でいなし、顔の近くを千代の刀が掠めていく。
深紅の髪が桜の花びらを散らすように幾本か散った。
女の刀が下段から上段へ――逆袈裟懸けに走った。
千代は女の刀を蹴って、その軌道を逸らす。
どちらも一撃を与えることができなかったことで、間合いを取った。
一息つき――
どちらも突きを繰り出した。
互いの刀が重なり、火花を散らし、鍔迫り合いの形で止まった。
互いの刀が互いの心境を表しているのだろうか、叫ぶように軋む音を立てた。
二人の間、鍔迫り合いをしているのでほんの僅かな隙間に、空気が爆ぜた――風が吹き荒れた。
二人の気合が押し合ったかのように見えるが、どちらも搦め手を衝くべく魔術を行使したらしい。
どちらも同じ考えだったために、衝突しあって決め手に至らない。
逃げ場のない力は圧縮された空気が解放されたように弾け、衝撃波が放たれた。
二人とも力に飲み込まれて、吹き飛ばされた。
――仕切り直しというべきか、再び互いが構えを取る。
静止。
ジトリとした汗が垂れる。
互いに息を整え、次の一手のために攻撃の機会を窺っている。
また、どのような手を打つか何通りものシミュレートをしているのだろう。
目まぐるしいまでの演算がなされていることは、雰囲気から伝わってくる。
でも、このまま見ていていいのだろうか。
見ていることしかできないし、自分に何かができるとも思えない。
だからといって、このままでもいけない筈。
美加が考えを巡らせている最中でも、二人の攻防が続けられた。
また火花が散る。
刀の叫ぶ――軋む声が響き、直後に空気が爆ぜる。
音が美加を現実へと引き戻す。
考えなど巡らせている暇などないと知らしめてくる。
二人が再び間合いを取った。
また仕切りなおし。
二人が次の一手を考えている――ところを駆けた。
「――駄目」
美加の背後に遊慧の声が聞こえた。
でも、目の前で二人が刀を振るっているのをもう見過ごすわけにもいかない、という考えが先行して、遊慧の言葉に耳を傾けるに至らない。
二人に近づき、美加もまた加わるべくして――
鮮血が舞った。
小さく痛みに耐える声。
「どうして、邪魔なんか」
「姫君、何ヲ」
千代と女の間に美加が割り込んだのだ。
千代の刀が美加の左わき腹を、女の刀が美加の右肩を斬っていた。
美加がとっさに割り込んだために、二人とも刀の軌道を逸らしたのかもしれない。
どちらの傷も浅く撫でた程度のもの。
といっても、刀傷なので血が流れ出てくる。
美加は傷を押さえながら膝をついた。
傷口は痛いというよりも麻痺している。
周囲がとても熱く感じ、ひどく体力を消耗している感覚が襲う。
言葉が出てこない。
ただ「やめて」と言うだけのことなのだが、言葉を発するまでに至らないということは、それだけ痛みが強いということだろう。
「……っ、お……ねがい……もぅ、や……めてよ……」
美加は声を振り絞って出し、顔を上げた。
大丈夫だから、と笑みを見せるが、表情は苦痛に耐えているもの。
女の手から刀が滑り落ちた。
頭を押さえ、何かに苦しんでいるようだ。
少しの間苦しんだところで、頭から手を離し、美加を見下ろしてくる。
「少し眠っているうちに……言い訳にしかならないから、これ以上は言わないほうがいいわね。
傷の具合はどう?
ゴメンネ。私の中のものが、要らないことをしてくれちゃって」
今までの印象と全く違う女がいた。
怖さは――ない。
美加を抱きしめてきた。
美加は女の胸へと頭を預けた。
「霞姉さん、なのですか?」
千代が半信半疑といった目で女へと尋ねる。
女は美加の傷の具合を確かめるだけで、千代へと答えることがない。
「どちらの傷も浅そうね。
でも、斬ったものが〝曰くつき〟だから、処置してもらわないと、傷の治りが悪くなっちゃうわね。
私が処置できればいいのだけど、その手のものを使える状態じゃないから、誰かに頼まなければならないんだけど。
意識は保てる? 私の顔を見れる?」
女は美加の頭を撫でつつ尋ねてきた。
美加は女の顔を見上げ、小さく頷いた。
怖くないというのは勘違いなのかと一度は疑ったが、やはり全く恐怖を感じられない。
大蛇として現れた時と全く逆の印象。
千代の反応から、この人が〝霞姉さん〟と千代が慕う咲耶霞なのだろう。
「霞姉さん」
焦れた千代が再び女――霞へと言葉をかける。
「千代ちゃん、まずは刀を収めなさい。
そんなものをいつまでも抜いていて、この人に影響が出たらどうするつもり?」
霞が千代へと見やる。
怒っていないようだが、千代は怯えるように急いで鞘を拾い上げると刀を収めた。
もじもじとした様子で美加たちの前へと戻ってくる。
「遊慧ちゃんの様子を見てきてくれる?
それと……誰が滅茶苦茶なことをしたの?
あとで警察に絞られるのは私なんだからね」
霞は周囲を見渡し、呆れた声で言った。
千代は唖然と、開いた口が塞がらないといった様子。
美加も何と言えばいいのか、唖然とするしかない――そもそも、痛みに耐えることで言葉が出てこない。
「……霞、お嬢、様です……」
遊慧が地面に伏せたままであるが、顔を起こして答えた。
――沈黙。
霞が美加へと見やり、「本当?」と尋ねてくる。
自分のやったことがわかっていない――覚えていない――認識すらしていないらしい。
美加はゆっくりと頷く。
「いやぁ、参ったなぁ。
体を預けっぱなしで、私は眠っていたから、何もわからないのよ。
ここは……逃げましょう。
そう、それが一番」
霞が空笑いで言うのだが、千代と遊慧が揃って首を横に振った。
空笑いがピタリと止まり、引きつった顔で美加へと見やってくる。
美加も首を横に振った。
「わかりましたぁ。
うぅ……好きでやったわけじゃないんだけど……。
まずは誰かに連絡を取らないとね。
千代ちゃん、今回は誰か関わっていたりするの?」
「不本意ですが、ネコジシの者たちです。
他に当てにしていい者を思い浮かばなかったので仕方なくです」
「あ、あぁあ、カズくんにこっぴどく叱られるわ。
それはともかく、千代ちゃん、連絡してきてくれる?」
「私が、ですか? 気が引けるのですが……」
「今、元気なのは千代ちゃんだけなの。お願いね」
「不本意ですが、霞姉さんがそう仰るのでしたら」
千代はため息を漏らし、駆けていった。
来た時は一瞬で現れたと思ったら、去る時もあっという間に姿を消した。
人が勝手に消えるわけではないので、忍者と言わんばかりに身の隠し方がうまいのだろう。
静寂が訪れた。
霞が黙って周囲を見渡しているので、他に言葉を口にできる者がいないということもある。
美加にしても遊慧にしても、痛みに耐えるだけで精一杯だ。
周囲は至るところに紅いペンキをぶちまけたかのような光景。
ひしゃげた鉄の塊が二つ転がっている。
「――へぇ、これだけの騒ぎが起きたというのに、騒ぎを聞いて駆けつけてくる人が誰もいないのね。
〈人払いの陣〉を誰かがやったのね。
魔術の跡は見受けられないから、別の力かしらね。
権力で周囲一帯を占拠。
それでも残る者には実力で排除といったところかしら。
〝人〟というより〝組織〟かな。
となると、その辺りの〝成れの果て〟は、どこかの組織だったりするわけか。
嫌ね、色々ときな臭いわ」
霞は視線を美加へと戻し、柔和な笑みを向けてくる。
「少し、眠ったほうがいいわ。
その間に傷の処置はしてもらっておくから」
霞は美加の目前に手のひらをかざした。
何かを口ずさんでいる。
美加は霞の手のひらから温かみを感じ、まどろみが襲ってくるのを感じた。
ふわりとした間隔が傷の痛みを忘れさせ、眠りに落ちていった。
◇
――美加が目を覚ませば、体が思うように動かなかった。
頭もどこか痛い――重い。
首が動くので、動く範囲で見渡せば、どこかで見たことのある空間であることに気がついた。
ビニル製のカーテンが美加の寝ているベッドの周囲に張られている。
そして、聞き覚えがあるけど内容まではわからない言語――ロシア語が聞こえてきた。
栗花落ビルの四階だと、ぼんやりした意識であるが、理解できた。
◇
「事の次第を全て話してもらいます。
はぐらかしたりするのはなしです。
わかっていますね?」
ネコジシ商会では、和葉が冷々淡々とした口調で言い放った。
機嫌のほどは、最悪というべきか。
向けられている相手――霞はスチールデスクを挟んで向かい側でパイプ椅子に座り、空笑いを浮かべている。
その後ろでは千代が和葉に文句を言いたそうにしているのだが、あらかじめ霞に止められているので何も言えずに感情をどこへと解放していいのか悩んで――最早、解放できないことに苛立っている。
遊慧はここにはいない。
怪我の治療のために美加とともに四階で待機している。
「もぅ、カズくんたら、ご機嫌斜めね。
私は体を預けっぱなしにしていたから、よく覚えていないんだけどぉ――」
「言い訳など要らないのです。
ここへと来るまでに、話ぐらいは聞いている筈ですよね?
あなたの〝金魚の糞〟に」
和葉は必要なこと以外を聞くつもりがない。
霞の言葉の上から自らの言葉を覆い被せた。
千代は〝金魚の糞〟扱いに顔をしかめ、今にも飛び掛りたい気持ちを懸命に抑えているようだ。
氷炎相まみえて、互いの存在を打ち消さんとしているが、どちらの存在の力が強く、打ち消すに至らない。
「はぁ、よくわかっていないのは、本当のことよ。
話は確かに聞いたけど、そこから導き出せることなんて――」
霞はため息をつく。
手を動かし、懐や腰の辺りを探り出した。
特に何かを手にするわけでもなく、再びため息をつく。
「そのロシア人にとって、私が邪魔だったから消そうとしただけじゃないかしら。
そうでもない限り、店にまで押し寄せてこないと思うし。
大掛かりな術式の展開を考えていると見るのが普通よね。
それより、煙草ないかしら?
市販のものでもいいから、欲しいの」
手が落ち着かない様子で、口元に何度か運んでいる。
いつもどおりの霞を演じているようだが、精神的にはまだまだ落ち着かないのかもしれない。
それゆえに、煙草で誤魔化したいのだろう。
「市販のものでいいのですか?
まあ、あなたがそれでいいと言うのでしたら、構いませんが。
その棚に先代社長が買いだめしてある煙草があります。
奥方に禁煙するように言われているそうで、ここへと隠しているものです。
好きに持っていって構いません。
僕も奥方から禁煙させるように言われていますから。煙草さえなければ、先代社長も禁煙せざるを得ないでしょうから」
和葉は食器棚を指差した。
千代が棚へと歩み寄り、煙草を探し始める。
表向き、カップを始めとした食器類が置かれているのだが、奥隅のほうにひっそりと置かれているのを見つけたようで、手を伸ばして赤いラベルの箱を取り出した。
それを霞へと渡す。
霞は箱を開け、一本をくわえた。
火がないものかと周りをみるが、スチールデスクの上には火器類が全くない。
和葉は再び食器棚を指差した。
千代が再び棚へと歩み、火になるものを探す。
「さて、今のうちに話の続きをしてください。
〝大掛かりな術式〟とか、僕は初耳です」
「簡単な答えよ。
私を消すに当たって、どんな理由があるのかを考えればすぐに出てくるのよ。
それで、最初に思いつくことは、この街で何かをするために、私が邪魔で仕方がなかった。
私はロシアの人たちに恨みを買うようなことは……多分ないと思うから。
それで、私を邪魔と見るからには、大掛かりな術式と思ったのよ。
小規模な術式程度なら、私が動くことないし、私を消さなければならないほどのことでもないし。
それに、この街に〈異端狩り〉がいるとわかっていて、邪魔されるとわかっていながら術式を展開するような馬鹿なんていないだろうし。
私がこの街にいるとわかっているからこそ、あらかじめ私を消そうと思ったのだろうし。
そうなってくると、大掛かりな術式が展開されることを予想するぐらい簡単なこと。
それに、魔具のようなものなら私たちよりもカズくんたちが先に動いていると思うもの。
いつものように、ね。
だけど、カズくんたちが動くよりも彼らが先に動いていたのだから、魔具関連と結びつけるのは望み薄かな」
「説明としては、いささか説得力にかける気がするのですが……他に思い当たることもなさそうなので、今のところはそういうことにしておきますか。
こちらとしても、何かの準備段階に入って、事を待っているのではないか、という情報を得ていますからね。
あなたの話を交えて推察するに、術式のタイミングを待っているということになるのでしょうね」
「納得してもらえた?」
霞は千代からマッチを受け取り、煙草へと火をつけて、煙を天井へと吹いた。
市販の煙草だからなのか、いつもの煙草でないからか、どこか物足りなさそうな顔をしながらも、我慢して煙草を吹かしていく。
「納得しきれないというのが正直なところですが、納得せざるを得ないでしょうね」
和葉はマグカップを手にすると、千代へと差し出した。
コーヒーを淹れるように仕向けたのだが、千代はマグカップに一瞥をくれて、そのままに和葉を睨んでくる。
千代が美加のようにマグカップを受け取ってくれる相手でないと見ると、和葉はため息をついてその手を引っ込めた。
頼む相手が悪い、と。
「結局のところ、ロシア人といいますか、イヴァン大佐の目的は本当にその時がくるまでわからないということですね。
――では、別の質問をさせていただきたいと思います。
あの人は何なのですか?
僕が独自に調べてもらっていますが、一向に情報が出てきません。
それにあなたの〝金魚の糞〟である漆原千代もまた知らないようです。
なのに、あなたは知っているように思えますが。
あとは、あなたの取り巻きである四塔遊慧も知っているようでした」
「あの人って、誰のこと?」
和葉が誰のことを言っているのかわかっているだろうに、霞はニンマリと笑みを向けて惚けてくる。
和葉はそれに対して顔をしかめた。
咳払いをし――
「あの人はあの人です。芒原美加のことです。
あの人は何なのです?
何かあるとしか思えないのですが」
「何かって、何?」
「それがわからないから、あなたに聞いているのです。
当人に聞いても知らぬ存ぜぬが返ってくるだけでしょうし――いえ、本当にわかっていないでしょうし」
和葉が言うと、霞の煙草を喫む手が止まった。
聞かれたくなかったことなのか、渋っているようにも見える。
それに、話を聞きたいのは和葉だけでないようで、千代も霞へと見据えている。
霞は和葉と千代を見やり、息をついた。
「千代ちゃん、外に出ていてくれないかな?
ちょっと大事な話があるから」
「どうしてですか?
私もあの女のことを知りた――」
「いいから、出て行ってほしいの。
ここまで言えばわかるわよね?
たとえ千代ちゃんでも早々話せるものじゃないということぐらい」
霞は淡々とした口調で言った。
いつもの道化ぶった口調ではない。
だからか、千代は何も言い返さず――言い返せず――、渋々と事務所から出て行った。
事務所には和葉と霞のみ。
異様なまでに静かで、気温がどんどん下がっているのかと錯覚するほどに寒い。
霞は一度煙草を大きく吸い、煙を吐き出して立ち上がった。
スチールデスクの横を歩み、和葉のそばへと寄ってくる。
「カズくん、どうしても聞きたいの?」
見下ろして言ってくる霞に威圧感がある。
相手を押し潰してくるかのような視線に、和葉は息を呑んだ。
いつも飄々とからかってくる〝咲耶霞〟とは別の、〈異端狩り〉としての〝咲耶霞〟が目の前にいる。
〈異端〉はおろか、同種の〈異端狩り〉ですら恐れおののく存在。
実質、この街で主立った行動をしているのは千代なのだが、誰もが口を揃えて霞の名を上げる。
この街で何もしていない筈の女なのに。
でも、こうして見てみれば、否応なしに霞を恐れるのもわかるというもの。
これほどの怖さを与えてくるものといえば、早々思い当たらない。
和葉にとって最近出会った中で言うなら、白矢ぐらいのものだろうか。
そして、何よりもこの怖さを味わった過去が和葉にはある。
それを思い出させる。
足元が今にも震えだしそうだ。
それゆえに、イヴァン大佐が霞を早急に消しにかかろうとしたのではないか、という霞の考えも頷けてくる。
納得しきれなかったものが、納得へと向かわせる。
戦力があるうちに叩いておかなければ、間違いなく脅威となる存在。
ゆえに襲い、結果、返り討ちにあったのだろう。
和葉は霞の威圧に呑み込まれないためにも、気合を入れて見返した。
「あなた方にとって、あの人は〝一般人〟に過ぎなかった筈です。
リーリャと同行していた時は単に巻き込まれただけなのかもしれませんが、四塔遊慧があなたを捜すために引き連れ回したとなると、ただの〝一般人〟と見るには首をひねざるを得ません。
そして、本当にあなたが現れた。
クルージングの釣りのように。
ともなれば、あの人が何なのか、より一層気になるに決まっているじゃないですか。
いつぞやの白矢から助けたということも考えれば、疑問が生じるのです。
あなたが〝誰かを助けることに命を懸けている〟ことを意義としているといっても、〝一般人〟をそう易々と、白矢に殺されそうになっているところから助けるなんて考えにくいのです。
しかも、あなたは目にしていませんが、漆原千代は目にしています。
いつぞやの旅館の時だって、あの人は――」
そう語る和葉の胸倉を、霞は空いている手を伸ばして掴んできた。
そのまま、強引に引き寄せられる。
間近で見る茶色の瞳が、紅く光ったように見えた。
「知らない方がいいわ。
誰も知らないほうがいいの。
あの人だって、知らないほうが幸せなのよ。
カズくんと一緒に、何気ない日常を過ごしているのが一番なのよ。
知れば後悔する。
知れば不幸になる。
私たちは、ね、そういう〝星〟のもとにいるの。
これからも、いつもどおり過ごしなさい。
そして、あの人をカズくんが守ってあげて。
カズくんなら、何気ない日常で済むから」
霞は手が放れた。
解放された和葉は、椅子へと体を預ける。
「どういう意味ですか?
知らなくていいとは、あの人に何かが秘められているとでも言うのですか?」
和葉は離れていく霞の背中へと尋ねる。
「別に大したことじゃないわよ。
〝この街の神様とやらは、どうしてこうも悪いタイミングに現れるのだろうね〟って話よ」
「神様?
そんなもの、ヘカテの自称〝神様〟だけで十分です。
そんなに何人も要りません」
「……そうね。
とりあえず、今回はあの人を巻き込んでしまったの私たちの責任ね。
それに関して、謝らないといけないわ。
でもね、カズくん。
好きな人は、自分で守らなきゃ。
放っておくと、逃げられちゃうわよ。
〝囚われのお姫様を救うのは、白馬の王子様の役目〟なのよ。
そうなのよ、うん」
「いえ、一向に何を言っているのかわかりません。
まさか、あなたまで変な勘繰りをしているのではないでしょうね。
冗談じゃないです。
僕は年上の女というものがですね――」
「はいはい。
じゃ、大嫌いな年上の女はここから去るとしますよ」
霞は後ろ手に手を振って、事務所から出て行ってしまった。
事務所に独りとなった和葉は、苦虫を噛み潰したような顔でマグカップを手にして、コーヒーメーカーの前に立つ。
コーヒーを注ぎつつ――
「あ、また話をはぐらかされました。
全く、あの人は……はぁ」
どこに感情をぶつけていいのかわからず、コーヒーを飲んで、その苦味を噛み潰すことにした。
椅子へと戻り、スチールデスクに背を向けて、天井を仰いだ。
後ろ手に書類を手に取り、眺めた。
以前より隆文に頼んでおいた美加の履歴に関するもの。
以前旅館で美加が言っていたとおりだ。
穂群美加――当時の姓――は小さい頃に両親が事故で他界。
芒原神社で宮司を務めている芒原楓の児童施設へと預けられ、また、美加だけが養子縁組をしている。
その後、特記するようなことはなく学生として勉学に勤しんで過ごし、警察官へ。
そして、ネコジシ商会へと安雄の後任として今年から仕事の手伝いをするようになった。
いくつか引っかかる点はあるのだが、それが霞の隠していることにつながってくるのか、どうしても結び付けられなかった。




