13.そして、誰もいなくなった。
老神を部屋に残して、日向に見張ってもらっているうちに、捜索の続きとなった。
旅館の中は時間が経つにつれて、喧騒に殺伐としていながらも、怯えと悲しみも広がっている。
様々な感情が入れ乱れて旅館の中を支配していた。
何がそうさせるのか――そんなことを誰に訊くまでもなく、人が消えてしまったことが一番の原因だろう。
ロビーの片隅では、霧積の姿がある。
帰り支度もできていて、でも、表情から今すぐ帰るつもりはないように窺える。
人が消えてしまったことの恐怖でここから逃れたい気持ち、仲間を見捨てて帰るわけにはいかない責任感――葛藤していることは、見てすぐに伝わってくる。
美加はどのような言葉をかけていいのか考えるものの、何も思い浮かばなかった。
和葉が霧積を気にすることもなく歩いていってしまうため、後ろ髪を引かれる思いながらも和葉についていく。
和葉もどのような言葉をかけていいのか思いつかないのだろうか――いや、違う。
逃げるのならさっさと逃げてしまえばいい、とでも考えているのだろう。
仕事の邪魔にならなければどうでもいいのかもしれない。
ということは、霧積も犯人でないと見ているのだろう。
途中、廊下で仲居とすれ違ったのだが、その顔はとても疲れているようだった。
こちらも精神的に参っているのだろう。
いや、間違いなく参っている筈だ。
それでも仕事だからということで、気を張り詰めているに過ぎない。
逃げることもなく、逃げることもできず、働き続けることしかない。
少しでも仕事以外のことに気を向けてしまえば、いつ消えてしまうかわからないことの恐怖に本当に参ってしまうことだろう。
美加は旅館の状況――主に人々の心情――を見ていって、困惑が胸の中を渦巻いている。
旅館の中を見渡しつつ歩いていても、何も見つかるわけがなく、和葉は単に旅館の状況を見たかっただけなのかもしれない。
だからなのか、関係者の並ぶ廊下へとすぐに戻ってきた。
皐月の部屋の前に着いた時、ちょうど皐月が部屋から出てくるところだ。
身体的に動いていいとはとても思えないほどに疲弊しきっている。
まだ休んでいなければならない筈なのに、どうして休まずに動いているのだろうか。
銀行員との話が長引いているのだろうか。
だとしても、僅かに覗ける皐月の部屋の中は、布団が敷かれているのみで、銀行員の姿がない。
別の部屋に銀行員がいるとして、話が長引いているのなら、皐月がここから出てくるのもおかしな話だ。
「すみません。
また何かと皆様にご迷惑をかけて」
皐月は美加たちを見るなり、頭を下げてくる。
人が消えてしまったことは皐月の責任でない。
むしろ、犯人が今すぐにでも出てきて皐月へと謝るべきなのだ。
皐月は被害者でしかないのだから。
美加はそんな憤慨を感じつつ、皐月の動向を窺う。
「今朝、お見えになられた、銀行の方たちのお姿が、見えなくなったと聞きまして」
皐月は鬱々とした口調で言葉を続けてくる。
人が消えたことに驚いているように見えない――いや、それほど疲れきってしまっているのだろう。
人が消えたと知らされたから、反応して動いているだけに過ぎない。
「銀行の人たちが、ですか?
事件に巻き込まれたと?
今朝から随分と――」
和葉がぶつぶつと口の中で呟いている。
考えを巡らせているようだ。
美加は黙って見ていることしかできない。
和葉が何を言っているのか、聞き取れないためだ。
「わかりました。
その人たちも僕たちが捜しますので、女将は部屋で休んでいてください」
「そんな。こんな時に、休んでなど……」
「これ以上動いていては、本当に体に障りますよ」
和葉は皐月の肩を押して部屋の中へと戻す。
皐月は抗う力もなく、すんなりと部屋の中へと戻されてしまう。
和葉が皐月を布団へと寝かしつけようとしている中、廊下で見守る美加は何かを耳にした。
物音ではなく、人の声に聞こえた。
話している声には聞こえない。
悲鳴かそれに準ずるものか。
ただ、どこから聞こえてくるのか、見当がつかない。
廊下を見渡して、あることに気がついた。
今いる廊下に沿って奥へと見やれば、一番奥の部屋にいた筈の人物がいない。
老神を見張っている筈の日向。
老神が犯人でないと信じいていた筈の日向――。
美加は息を呑み、ここで慄いている場合でない、と頷く。
ゆっくりと奥へと歩みを進める。
一番奥の部屋の前へと立ち、深く息をついた。
襖障子はぴっちりと閉められたまま。
手を伸ばし――ゆっくりと開けていく。
部屋の中は布団と座布団が積んであるだけ。
老神の姿がない。
逃げようと思えば容易く逃げることが可能であることはわかっている。
それこそ日向とともに逃げることだってできる。
しかし、そんな状況でも、老神が逃げるとは思えなかった。
ここで逃げれば、より自分を疑えと言っているようなものになるだろうから。
「どうかしましたか?
おや、ここにいる筈の人たちの姿がありませんね。
二人で逃げてしまったのでしょうか」
「消えた……じゃないのかな?
みんなと同じく」
「消えた?
障子越しとはいえ、ここには二人もいたのですよ」
和葉が眉をひそめて睨むかのように見やってくる。
怒ってなどいないようだが、その一睨みに美加は条件反射で肩をすくめてしまう。
でも、ここでだんまりでいても先には進まない。
「一人でも、みんなでも、犯人には関係なしじゃないの?」
「そうであるとしたら、本当に理解しかねますね。
犯人は何がしたいのでしょうか。
これじゃ、追い詰められているから、自棄を起こしたとしか思えません。
手当たり次第に消しているとしか……。
となると、僕たちは知らないうちに犯人を追い詰めていたということでしょうか」
和葉は顎に手を当てる。
考えているのだが、思いのほかのことが起こって混乱しないように整理しようというのだろう。
美加も倣って考えてみるものの、いつものように答えなど早々出てくるわけがない。
それでも、ふと思いつくことがあった。
「和葉くん、私たちが追い詰めているんじゃなくて、犯人のほうが万華鏡の力を持て余しているんじゃないの?」
「持て余す?
なるほど。人を消してしまうほどの魔具ですからね。
その力は、さぞ強大なものなのでしょう。
使い方を知っていたとしても、強力な魔具ほど生半可な人は力を持て余してしまうということですか。
そういうことは魔具だけに限らず、どういうものに対しても共通していることですからね。
あなたにしては上出来な答えです。
いつもこのぐらいの答えを出してくれれば、僕としても大助かりなのですがね」
和葉は頷いて、笑顔を向けながら言った。
褒め言葉なのだろう。
ただ嫌味も混じっているのは、やはり和葉ならではなのだろうか。
美加は恥ずかしさに頬を赤らめる。
褒められたことがないからこその、思わす反応に出してしまった。
もじもじと和葉から視線を逸らしてしまう。
嫌味など耳に入ってこない。
そこへ――
「おい、何するん――」
男の声が響き渡る。
この声はロビーにいた筈の霧積。
それも張り詰めた言い方で、中途半端に言葉が切れた。
「まずいですね。
〝手当たり次第〟が増えていってます」
和葉は唇を噛み、ロビーへと駆ける。
廊下では、皐月がまた部屋から出てくるところだ。
声を聞いたから気になったのだろう。
和葉はそんな皐月に目もくれず、走っていってしまった。
その後をゆったりとした足取りで皐月も続いていった。
美加は和葉に続こうともしたのだが、足が動かなかった。
和葉に続かなければならないという考えすらもなかったといっていい。
霧積の声とは別の、誰のものかもわからない声が聞こえてきたのだ。
それは美加だけにしか聞こえなかった。
どこから聞こえてくるか知れず、自分の周囲をグルグルと回るように小さな声で呼びかけてくる。
『ホムラ――』
どこで聞いた名前だろうか。
美加にその名で呼びかけてくる。
美加が〝ホムラ〟という名前であるかのように、何度も何度も――。
『ホムラ、ホムラヒメ――』
幻惑でも見ているのだろうか。
幻聴でも聞いているのだろうか。
周囲の音はノイズ混じりとなって聞きづらくなり、しまいには聞こえなくなっていく。
聞こえるのは『ホムラ』という呼びかけのみ。
美加は歩き出した。
自分の意思で歩いているのか、体が勝手に動いているのか――
それすらもわからなくなっている。
廊下をゆっくりとフラフラと足元がどこか危うい。
目の焦点も定かでなく、何を見ているのか、何も見えないのか。
『さあ、ホムラヒメ。
こちらだ。こちらにおいで――』
声に全てを支配されていた。
身も心も声の思うがままに動いていた。
皐月の部屋へと入り、奥へと進んでいく。
『困ったものだ。
〈幻光華〉を奪われてしまった。
ホムラヒメ、そなたの力を借りたい――』
部屋の奥では、白い蛇。
とぐろを巻いて、鎌首を下げてこちらを見ている。
声はその蛇から聞こえてくる。
『そのためには〈幻光華〉の中へと入り、人々をこちらの世界へと戻さなければならない。
わかっているか、ホムラヒメ。
君が〈幻光華〉の〝眠りを覚ましてしまった〟。
それだけならよかったが、あの男に〈幻光華〉を使われてしまうなど、実に不甲斐ない話だ』
蛇に睨まれる。
感情が動かない。
ただただ事実を見つめているだけ。
『我の代わりに、〈幻光華〉に囚われし者たちを』
蛇の睨みに何かしらの麻薬でも仕込まれているのではないのか。
何を言っているのか、うまく耳に入ってこない。
虚ろになりつつある意識の中に、言葉など意味をなさない。
ただ聞こえているだけ。
『我の力が及ばず、このようなこととなった。
しかし、〈幻光華〉を目覚めさせたのは、ホムラヒメ、君なのだ。
目覚めさせた君だからこそ、〈幻光華〉を止められる。
頼んだ』
聞こえていると認識がかろうじてできているだけで、内容までは頭に入ってこない。
それならば、何を言っているのか訊けばいい筈だ。
でも、質問はおろか、言葉が出てこない。
そもそも、〝訊く〟ということすらわからない状態へと陥ってしまっている。
吸い込まれていく。
意識が虚空へと吸い込まれていく感覚。
意識が落ちていく。
抗うことができない。
抗うことを許されない。
ずるりずるりと暗闇へと落ちていく。
どこまでもどこまでも深淵の底へと落ちていくかのように――。
◇
どこまでも広がる真っ白な光の世界。
時折散りばめられている色様々なビーズが世界を彩っている。
空も地面も境があるのか定かでない。
上下左右、全てが白く、ビーズがある。
幻想的といえばいいのだろう。
息を呑んでしまうほどに、美しい世界なのだと改めて実感できる。
その世界の中を薄紅色の和装の少女が歩いている。
髪を肩辺りで切り揃えられており、唇には白い肌に映える紅を薄く引き、汚れ一つない、まるで和人形。
真っ白な世界の中だというのに、その世界が至って普通の世界だと言わんばかり。
そもそもこの世界がどんなものであろうと、気にしていないのかもしれない。
ただ、どこへと向かうわけでもなく歩き続けている。
その少女へ、呼び止めるようにして声がかけられる。
『ホムラ――』
少女は足を止めた。
辺りを見渡し、どこから聞こえてくるのか、誰の声なのかを探そうとする。
でも、この世界には少女しかいない。
声をかけてくるような人はどこにも見当たらない。
『ホムラ――』
再び声が聞こえてくる。
幻聴などではない。
この世界の中で確実に声が響き渡っている。
「――アタシはホムラじゃない。
ホムラなんて知らない」
少女は叫んだ。
どこにいるのかわからない声に向けて、これだけ大きく言えばきっと聞こえるだろう、と。
その勢いで今にも泣いてしまいそうに目尻に涙を溜めている。
『ホムラ――』
少女の言葉は虚しく。
聞こえていないのだろうか、声がまた聞こえてくる。
「アタシはホムラじゃない――。
私は、ホムラという名前じゃないわ。
私は芒原美加よ」
また叫んだ。
ただ、叫んでいる中、少女は美加へと姿を変えていた。
和装はしていない、白のワンピース。
「ホムラって何?
ここって、何なの?
どうして、私はここにいるの?
お願い、答えて。
誰か、答えて」
美加は叫んだ。
しかし、答えは返ってこない。
今にも泣きたい。
どうしようもない気持ちに、心が今にも壊れてしまいそうだ。
――駆けた。
どこへと行ったらいいのかわからず、どうやって逃げたらいいのかわからず、走った。
今にも「わー」と叫びたい。
わだかまる感情を叫びで吹き飛ばしたい。
状況がわからないこと以上に、知らない世界に独りでいることが、何よりも耐え切れない気持ちで一杯だ。
どこまで走ってもずっと同じ景色が広がっている。
ビーズが綺麗とゆっくり見ている気分になれない。
世界そのものに疑問を持つことよりも、ここに独りでいることが一番の問題。
一番の不安だった。
胸が張り裂けるのではなかろうか。
「お願い、助けて。
誰か助けて。
和葉くん助けて――」
◇
和葉がロビーへとやって来た時には、すでに霧積の姿がなかった。
霧積の荷物だけが忘れられたもののように残っている。
「手遅れでしたか」
和葉は唇を噛んで、悔しさを滲ませる。
すぐ近くにいておいて、消えることを阻止することも叶わなかったのだから、悔しさも倍増。
「何か、あったでしょうか?」
和葉のすぐ後ろには、皐月が覚束ない足取りで近づいてくるところだ。
「女将、僕に任せて大人しく寝ていてくださいと言いましたよね」
「そうですが、それでも何があったのかと思うと、大人しく寝ているわけにも」
「やれやれですね。
では、ひとまず状況を確認しますので、そこで座っていてください。
立っているよりか、幾分マシですからね」
和葉はロビーに備えられている長椅子を指差す。
竹を組んで作られたもので、座る部分には赤茶色の座布団が並べられている。
待合用のもの。
皐月は立っていることがつらいようで、素直に長椅子へと腰を下ろした。
「さて、ここで何があったのでしょうか。
彼が消えたことは間違いないようですし――」
和葉は皐月が座ったことを見届けてから受付を見やる。
いつもならそこにいる筈の受付の男もいない。
それどころか、旅館の中がとても静かに感じられる。
誰もいない――和葉と皐月しかいないのではなかろうかと思えるほど。
「そういえば、あの人はどうしたのでしょうか?
先程までついてきていた筈なのに、今度はついてきませんね。
独りでいることが怖いと泣き言まで言っていたのに」
廊下を見やるが、誰もいない。
美加がどこにも見当たらない。
「まさかとは思いますが……だとしたら、どのようにして?」
美加も消されてしまったのだろうか。
少し目を離していただけなのに、いとも簡単にやられてしまったことが何とも納得しがたい。
ロビーから先程までいた部屋へは廊下を通るしかない。
ロビーで霧積を消してから美加を消したと仮定すると、廊下ですれ違わなければならない筈。
だが、廊下では誰ともすれ違わなかった。
となると、どのようにして美加を消したのかということになる。
途中、宿泊部屋の前を通るので、そのいずれかの部屋に身を潜めて、和葉たちをやり過ごしたということも考えられる。
だが、和葉がロビーへと着くまで時間がかからなかったので、とっさに部屋へと隠れることができたのか疑わしい。
急いで部屋へと隠れれば、和葉の目に入らずに済むかもしれないが、それならば騒がしい音を立てていてもおかしくない筈。
しかし、走るような足音は聞こえなかったし、急いで襖障子を開け閉めしたような音もなかった。
ならば、美加は今でも部屋に残っているだけなのだろうか。
消されていないだけのことなのだろうか。
それは一番考えにくい。
独りになることが怖いからと言って、和葉についてきていた美加が、今になってついてこないことは、到底考えられない。
「――こうなってくると、あの万華鏡は遠隔操作もできるのでしょうか?
そうなってくると、かなり厄介な代物となってきますが」
虚空へと問いかけて、唸って腕を組む。
答えが帰ってくるわけがないので、疑問を露呈するだけに過ぎない。
「本当に参りましたね。
全てが後手、その上でこちらは何も知りえない状況というのは。
やはり、目的です。
それがわかりでもすれば、こちらも動きようがあるのですけどね」
皐月を見やる。
疲労だけでなく、不安も入り混じった瞳がこちらを見ている。
「この旅館は、いつなくなってもおかしくない状態です。
もともと客の入りがよかったわけではないので、経営は常に厳しい状態でした。
そんな中、先代の女将が急死して私がどうにか立て直そうと思ってやってきたのですが……もう無理のようです。
今回の件もあって、間違いなく旅館はなくなるでしょうね」
「旅館がなくなる――それが目的なのでしょうか?
今にも潰れてしまうかもしれないのに、わざわざ事件を起こす必要などあるのでしょうか?」
「旅館が潰れるのを早めるためでしたら、この件は必要以上に早めたのではないでしょうか」
「となると、土地権利関係でしょうか。
すぐにでも誰かがこの土地を欲しがっているとでも?」
「いいえ、この土地を買収するという話は出ていません。
日向さんは先代の女将の頃からここに長く働いていたので、ここがなくなることをとても残念そうにしていました。
それと、ここの裏にある祠を管理している方がいらっしゃると聞いたことがありますので、その方にも迷惑をかけたくないとも」
「管理、ですか。
それなら、老神さんです。
といっても、すでに消されてしまったようですけどね」
「老神さん? あの方が?」
「ええ、本人がそう言っていましたし、日向さんも言っていましたので、間違いないでしょう」
「定期的に当旅館をご利用してくださるお客様とばかり。
そういう理由がおありだったのですね。
となると、あの方も老神さんと同じく祠を管理なさっていたのでしょうか?」
「老神さん以外に、ここへと定期的に来る人がいるのですか?」




