2.秘湯というからには、覚悟を決めろ。
温泉旅行の当日。
前日までに決まったことといえば、結局和葉が最後まで拒み、ヘカテのみが同行するということだ。
いつも嫌味を言われ続けているので、和葉に嫌われているのではないかと考えていたので、この温泉旅行で少しでも親睦を深めようという試みだった筈。
なのに、この結果ではさすがに残念と言わざるを得ない。
和葉がどこまでも拒むというのなら仕方がない。
諦めきれないところではあるが、今回は諦めようともなる。
逆に嫌われても意味がないのだから。
それに、さすがに家族でも恋人でもないのに温泉旅行に誘うのは、少しやり過ぎだったのかもしれないという反省もある。
あとは、今回はヘカテが同行してくれるのだから、和葉のことはひとまず措いておいて、楽しむことにしようと心に決めたのだ。
待ち合わせの駅――。
美加はヘカテとの待ち合わせに三十分も早く着いてしまい、暇を持て余していた。
遅れないように準備しただけのこと。
あとは駅に着くまでにタイミングよくというか、何の遅れもなくすんなりと来てしまったこともある。
時間を別のことに割かれることが全くなかったからこその三十分。
決して温泉旅行が楽しみであることで馳せていたわけではない、と自分自身に言い訳をする。
それがまた、自分自身に恥ずかしい。
何で言い訳をしているんだろうか、と。
駅で待ち合わせをしてるが、電車で行くわけではない。
なので、〝電車に乗り遅れる〟ことがないのだから、なおさら早く来る必要もなかった。
さらには駅から出るバスを用いるわけでもない。
ヘカテが駅まで車で来ると言ったのだ。
車で温泉宿まで行く手筈となっている。
その車での待ち合わせが今から三十分も後ということになる。
正直急ぎでもない。
車で来るというのだから、少女としてのヘカテでなく大人のヘカテとして来るのだろう。
ただ、この時に〈異能〉を持った〝人外〟でも免許証を取ることができるのだな、と少し驚きを感じた。
それどころか、本名も年齢も明かそうとしないヘカテが全うに免許証を手に入れたのか、という疑問すらも湧いてくる。
銃火器を不法に所持、または警察官である美加の前でも平然と扱うあたり、〝考えてはいけないことの一つ〟なのかもしれない。
そんなヘカテの車となると、軍用車両として用いられるようなものだったりするのだろうか。
GM・ハマーやスライスラー・ジープなど、幌をつけたタイプで、かつ、つや消しのオリーブドラブの配色で、迷彩服を着たヘカテが降りてくる様を容易に想像できてしまう。
さすがに戦車や装甲車を街中で走らせることはないだろう――しかし、全く否定できないところも怖い。
それどころか、車と言っておきながら、戦闘ヘリを飛ばしてくるのではないかとさえ、勝手な想像を掻き立ててしまう。
この駅のロータリーにMi‐24DやAH‐1なんかが着陸したら、さぞ圧巻だろう。
――と、これ以上ヘカテについて考えることをよそうとため息をついた。
考えるだけ疲れるだけだ。
車が来るまでの間、街の景色を眺めていようとロータリーに設けられているベンチへと腰を下ろした。
手にしている荷物は二泊三日ということで、着替えを入れた旅行用バッグが一つだけ。
今日は仕事でないので、さすがにいつものパンツスーツというわけでもない。
藤色のゆったりとした感じの裾の短いワンピース。
その下に長袖、ワンピースでありながらもデニムパンツをはいている。
ワンピースがゆったりなものを選んでいる理由として、起伏の乏しい――細い体をあまり他人に見られたくないからだ。
服をまとっているからわからないものの、体はひどく痩せている。
それもアバラが浮き立つほどなのだから、健康的な体とは言いがたい。
胴部分は服に覆われているから問題ないにしても、腕と足も痩せ細っている様を見られたくないための長袖とデニムパンツ。
この恰好なら痩せ細った女でなく、スラリとした長身の女として見られるようになる。
飽くまで、一応という形だが。
「ヘカテさん、遅いなぁ」
早く来てしまったことをすでに忘れてしまっているのか、ため息をついた。
時計を見やれば、待ち合わせの時刻までまだ数分の猶予がある。
時計を見ればわかりそうなことなのに、なぜこのようなことを言うのか――
理由は周りの目にあった。
平日の午前――といっても朝のラッシュ時間は過ぎている――の駅ということもあって、人の行き交いが普通にある。
何かと人の目につく体型なので色々な人の視線が集まるのだ。
それがまたとてもうんざりとしてくる。
いつもの褒め言葉だけならいいのだが、やはり〝悪い言葉〟ばかりが気になってしまうのでストレスが溜まり放題。
さらに平日だというのに、ナンパをしてくる男もいるので始末に終えない。
普段から何をして過ごしているのだ、と問い質したい気分だ。
だが、金に余裕のある学生が遊び呆けているだけのことだ、と予想できてしまう。
ナンパ男たちに「人と待ち合わせをしているから」と優しく断ってきた。
だが、離れ様に美加に聞こえないように言っているのか、あえて聞こえるように言っているのか、「あの女、何澄ましてんだろうな」と聞こえてしまうあたり、ストレス倍増となる。
旅行に行く前から疲れたくないのに、とげんなりしていると、美加の前に鮮やかな青の車――日産・スカイライン2000GT‐Rが停まった。
駅のロータリーなので、無闇に車を止めると周りに迷惑がかかるのに、と思うが――
「へぇ、いつもとは違う恰好なのですね」
助手席の窓が開くなり、その向こうの運転席に座る和葉の顔が見えた。
「か、和葉くん!?」
美加は素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。
どうしてここに和葉がいるのだろうか、と驚きを隠せない。
ここで待ち合わせをしていることを知って、からかいにでも来たのだろうか。
だが、そんなことをしても和葉に何の利益も生じない筈。
〝利益〟を何かと気にする男がそんな子ども染みたことをするとも思えない。
驚きから怪訝へと視線が変わっていく。
「どうしましたか?」
和葉は車から降りて、美加の前へとやって来た。
美加の様子を不思議がっているようだ。
「どうして和葉くんがいるの?」
「〝どうして〟?
あなたの温泉旅行とやらの〝アシ〟代わりにさせられたんです」
やや不満げな物言い。
和葉がそう言っても、そんなこと頼んだ覚えはない。
あれほど拒んでいたのだから、頼めるわけがない。
しかし、ここは言い返しても始まらない。
嫌味を言わせるきっかけを与えるだけだ。
「ヘカテさんは?」
和葉が来ていても、一緒に行く筈のヘカテがいなければ温泉旅行へと行けない。
「知りません。
僕にあなたを旅館まで連れて行くように頼んで、どこかへと行ってしまいました。
急用ができた、とか言っていましたが、詳しいことは後で本人に確認してください」
和葉は捲くし立てるほどでないにしろ、せっかちな物言いで美加からバッグをふんだくっていく。
それを助手席のドアを開けて、後部座席へと粗末に放り込んだ。
「さ、行きますよ」
そのまま美加の答えを待つことなく、そそくさと運転席へと収まってしまった。
美加は状況に戸惑いを見せた。
どうしたらいいのか、と。
和葉が嘘を言っている様子もない。
ヘカテが急用で来られなくなったというのは事実なのだろう。
納得するまでには至らなかったが、理解したので助手席へと乗り込んだ。
車内は芳香剤のものだろう甘ったるいにおいがある。
喉の奥に引っかかるような感覚。
和葉の趣味なのだろうか。
あまりこのようなにおいのするものを好むような男に思えなかったので、驚きがある。
「何かよくわからないけど――色々とごめんなさい」
美加は俯き加減で和葉を見やった。
ヘカテが急用とはいえ、拒んでいた和葉の手を煩わす――この場合は〝足〟か――こととなってしまった。
和葉だって何かしらの用があるのかもしれないのに、こちらの勝手に巻き込んでしまったので、どこか後ろめたい気分になってしまう。
「何で謝るのです?
今回は、直前で用があると言い出したヘカテが悪いのです。
あなたにとっては、予定どおりの行動をしているだけじゃないですか。
それも、あらかじめ今日温泉旅行に行くということを、段取りを決めていたじゃないですか。
あなたに落ち度はないと思いますけどね。
――それと、僕はたまたまあなたと〝行き先が同じ〟なので、都合がよかったということもあります。
だから、こうして迎えに来ただけに過ぎません」
「行き先が……同じ?」
美加は顔を上げた。
ポカンと思わず口を開けたままになってしまう。
「ええ、何の因果か知りませんが、あなたの温泉旅行と僕の仕事先がものの見事に被ったのです」
和葉は素っ気なく言い、キィに手をかけてエンジンを起動。
ハンドブレーキを外して、車をゆっくりと走らせた。
「この間の漆原千代――〝女子高生〟と言えばわかるでしょうか。
その人からの仕事の依頼についてなのですが、これからその仕事をするためにあなたのと同じところへと行くことになったのです。
ま、日時については、今日行く必要はなかったのですが、あなたの旅行に合わせた方が都合よかったわけです。
いえ、ヘカテの急用とやらのお陰で急遽合わせなければならなくなった、と言ったほうがいいのかもしれませんね。
なので、そういう意味では謝ってもらうのは当然のことだったのかもしれませんね」
「同じところ、ですか」
「ええ、そうなのです。
ま、あなたは僕の仕事など気になさらず、のんびりと温泉を楽しんでいてください」
「あ、あはは……嫌味ですか、それは?」
「さあ、どうなのでしょうかね」
和葉の素っ気ない返事。
怒りの矛先がどこへと向かっているのだろうか。
ヘカテに向いていると思わせておいて、美加へと嫌味を言ってくるあたり――考えることはよすことにした。
ヘカテが来られないのなら、美加一人で温泉旅行となりかねなかったのだ。
そこへ和葉が仕事を合わせてくれたお陰で、独りにならずに済んだので、とてもありがたい。
とはいえ、嫌味を向けられることには違いないので、空笑いを浮かべることしかできなかった。
「――ところで、古い車ですよね?
今の車よりも狭いような気もするし」
「この車は僕のものではありません。
仕事で出るということで、社長から借りたものです。
何十年も前のスカイラインだそうです。
確か変わった愛称があったような気がしました――〝ハコスカ〟でしたか。
狭く感じるのは、それだけ今の車の規格が変わってきたと考えるべきですね。
といっても、軽自動車やコンパクトカーに比べれば、十分広いと思いますけどね。
それに、今のことは社長の前では禁句ですよ。
社長の趣味と言いますか、わざわざレストアしてまでして手に入れたかった車なのだそうです。
それも青に塗装しなおすという変な拘りようです。
ま、〝変態社長〟と言われているほどの人ですから、今さら何をやっても驚きませんけどね」
「へ、〝変態社長〟、ですか……。
和葉くんて、すごいところに勤めているのね」
「僕だって、勤める前は社長があんな人だと思っても見ませんでしたよ」
「そ、それは、ご愁傷様と言うところかな?」
「それを言うなら、僕からしてみれば、キャリアでもなくいつまで経っても新米扱いされているあなたに、ご愁傷様と言いたいところです。
ま、公務員なので、悪いことしない限り、安定した職業だとは思いますけどね。
正直、僕には向かない職業ですが」
「新米扱いは、折部さんのせいです」
それからは沈黙、車内は会話らしい会話がなかった。
和葉が黙々と運転しているだけ。
美加は正直何を話していいのか内容が思いつかなかった。
和葉から何かを話すような性格でもないので、こちらから何かを話さない限り会話へと移行することがない。
なので、車の走る音のみが車内を包み込んでいた。
場を支配していたといっていい。
途中あった言葉といえば、和葉から一言、休憩を取る前にあった程度のもの。
車は高速道路へと入り、北関東へと一直線に向かっていく。
平日だからなのか、トラックを始めとして営業に出向いているのだろう企業のロゴのついた車を多く見かける。
それでもはるかに速いスピードで走っていくクーペや高級セダンを見かけるあたり、誰も彼もが仕事をしているわけでもないらしい。
どれほどの時間が経っただろうか。
その間、ずっと息の詰まる思いだった。
会話がないことが一番の要因だろう。
美加は時折和葉の様子を窺ったりして、機嫌が悪くならないことを願うばかりしかしてこなかった。
これ幸いというべきか、和葉は運転に集中しているため、特にこれといった様子もない。
和葉が何もないのに自分が気にし過ぎているのは、さすがにどうなのだろうか。
気を落ち着かせようと思い――正直、何もすることがなかったため――高速道路を下りてから、ずっと外の景色を眺めるばかり。
流れ行く景色を見て、少しは気が楽になるのかと思っていたのだが――思ったよりもそうでなかったことに落胆した。
古ぼけた街並み――木々――山――景色が変わっていく。
その様はどんどん現在から過去へと時間を遡っていくかのよう。
そうでなければ、今からこれからの未来への衰退を先見しているのかもしれない。
そうして、車は砂利の敷き詰められた広場へと入った。
広場の入り口には半ば錆びた看板が設けられている。
それには色褪せた文字で「温泉」の二文字があった。
また、「P」の文字があるので、この広場が温泉旅館の駐車場なのだと窺える。
そのためか、十台も停められるのかどうかのスペースに車が半分ほど埋まっていた。
どれもが温泉旅館へと訪れた客のものなのだろうか。
見やれば、県外ナンバーは美加らの乗る車のみのよう。
となると、客のものでなく、近所の人たちが駐車場として利用しているのだろうか。
車は一番奥隅へと停まった。
ハンドブレーキ。エンジン停止。
そして、和葉の吐息――。
「さて、着きましたが――気分はどうですか?
まだ気分が悪いようでしたら、ここで少し休んでから旅館へと向かっても構いませんが」
和葉が美加の顔を窺ってくる。
気分を訊いてくるというのは、どういうことなのだろうか。
美加は首を傾げるのみ。
「気分を訊いているのですが。
何も言葉にできないほど、気分が悪かったのでしたか?
それはそれで参りましたね」
和葉なりに気を遣ってくれているらしい。
何も話をしなかったから、気を遣わせてしまったのかもしれない。
だとすれば、悪いことをしたということにもなる。
いつものように無神経に和葉へと話しかけていれば、気を遣わせることもなかったのかもしれない。
ここは謝るべきなのだろうか――考えがまとまらない。
いい考えが出てこない。
でも、今は素直に答えておいたほうがいいということだけはわかった。
「あ、いえ、気分が悪いとか、ないです」
「そうなんですか?
てっきり、車酔いでもして気分が悪いために、黙り込んでいると思っていました。
何ごともないのでしたら、それでいいです」
和葉はそう言うと、車から降りた。
美加も後部座席から荷物を手にして降りた。
ずっと座っていたからこその、ここで外に出られたことの開放感。
縮こまった体を伸ばせることで、ドクドクと血が巡り始めたような感覚。
車の中から見る景色と車の外で見る景色、同じものだというのに何かが違うように感じられた。
何がそう思わせるのか、何がそう感じさせるのか――
開放感によるものか、それとも山の中の澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだためか、やはり和葉が不機嫌になることがなかったためか――
考えたところで答えが出てくるわけがなく、あえて答えを考える無粋なことなどする必要もなく、単に今感じ取れるものを心身ともに感じ取るだけにしておこうと心にした。
「さ、いつまでもここで時間を潰していても仕方がありませんので、早く旅館へと向かいましょうか」
車のロックを確認し終えた和葉が、キィについたキィホルダーのリングを人差し指に引っ掛けてクルクルと回し、急かすように言ってきた。
旅館へと向かうと言われても、今二人のいるところから旅館はおろか建物らしい建物が一つも見当たらない。
駐車場の周りは木々に覆われていて、その向こうには山々が見える。
あとは何があるのかと見渡したところで特別何かがあるようには見えなかった。
〝山の中〟と一言で尽きてしまう。
「旅館って、どこにあるの?」
美加はどうしても気になったので訊いてみるのだが、和葉は眉をひそめ――
「何を言っているのですか?
ここから少し歩いたところにある筈ですが。
あなたは、どういう旅館に行くのか、事前に調べたりしなかったのですか?」
どうやら和葉には旅館に対する予備知識があるようだ。
でも、美加だってそれなりに旅館について調べたのだ。
〝それなり〟ではあるのだが。
その調べたものというのだが――
「え、ええぇとぉ――宿泊券と一緒に一枚だけのパンフレットしかなくて、正直どういう感じなのかさっぱりわからないのです。
ガイドブックで調べようと思っても、旅館のことは載っていなかったし……。
ただ、〝秘湯〟と書かれていたので、どんなところなんだろうと楽しみにしていたんですけど……」
しかし、これでは〝調べていない〟と言ったほうが正解だ。
「なるほど、文字通りの〝秘湯〟ということですか。
そもそも、ガイドブックに載るようなものを〝秘湯〟と指さず、人知れず、また交通が不便であり、その他にも色々と含んだものを〝秘湯〟というらしいですからね。
ま、僕にとっては秘湯であろうとなかろうと、どうでもいい話なんですけどね」
和葉は笑いながら歩みだした。
美加には何がおかしいのかわからず、和葉の後ろに続くだけ。
旅館のことがわからなかったために嗤っているのだろうか、とさえ勘繰ってしまう。
駐車場の端、車道とは反対側に山道が見える。
そちらへと和葉はためらいもなく入っていく。
山道は二人が並んで歩いても十分なほどの道幅。
また、山道だけ綺麗に草が生えておらず、地面がむき出しになっているところを見ると、普段から何度も人が通って踏み均されているのだろう。
どんどん奥へと入っていけば、木々が陽を遮るので――僅かに木漏れ陽が射すこともあり――薄暗い。
気温も山道へと入ってからは涼しいというよりも肌寒いだろうか。
薄手の上着がほしくなる。
道をどこまでも歩き――歩き――歩き続け――歩き続け――どれほどしてか、最初は寒かったのに今や暑いほど。
薄っすらと汗ばんでいるのか、肌に布の吸い付く感触がどこか気持ち悪い。
さらに山歩きをするような恰好でもないので、足から疲れが上り詰めてくる。
履いているものがスニーカーなのでまだ歩きとおせるが、これがヒールのあるものや歩き続けるに不便なものだったらと考えると末恐ろしい。
美加の前を歩く和葉はまだまだ余裕のようで歩くペースが変わらない。
美加はついていくことで精一杯だ。
少し歩くペースを弱めてもらいたい――ところなのだが、そんな声を出す体力も惜しいと言わんばかりに、歩くことに専念した。
よく考えてみてみれば、ついこの間まで入院していて、今回はその傷を癒すために温泉へと浸かりに――湯治をしにきたのだ。
なのに、今やっていることといえば、落ちた体力を取り戻すべくトレーニングをさせられている気分。
目的とやっていることがあべこべなことにげんなりとするしかない。
時計を見ながら歩いているわけではないので、どれだけの間歩いたのかわからない。
でも、何時間も歩いたような感じがある。
へたへたと歩き、今にも座りたい気分にさせられる。
今にも寝たい気分にさせられる。
今にも温泉に浸かりたいと欲求が頭の中を駆け巡り――
道が開けた。
いや、開けた場所へと出た。
木造の古い屋敷が目の前にある。
入り口に暖簾がかけられ、「山猫庵」と文字が連なっている。
「ようやく着きました。
徒歩で一時間とありましたが、一時間半の間違いじゃないのですかね。
ま、〝徒歩〟と書かれている内容というものは、決まって当てにならないので、とやかく言っても仕方のないことなんですがね」
「………………」
「その前に、疲れ果てて何も言う気になれない、と言いたいところでしょうかね?」
何も言葉にできない美加へと和葉が振り返り、ジトッとした視線を向けてくる。
呆れた、と言いたいのだろう。
しかし、実際に疲れ果てているので、何も言い返せなかった。
言い返すにしても、余計に疲れそうだから、あえてしないということもあるだろうか。
「ここがあなたの、そして、僕の目的地である〝山猫庵〟です。
これまた何の因果なのでしょうかね。
あなたを前に〝山猫庵〟だなんて。
ま、僕としましては〝黒猫庵〟という名前でなくて幸いです。
あなたにからかわれないで済みますから。
――で、何か言ってください。
僕だけが話しているなんて、間抜け以外の何者にも見えないのですが」
和葉が美加に言葉を要求してくるのはいいのだが、疲れ切っているのをわかっているのなら、あえて要求しなくてもいいのではないだろうか。
言い返したいが、これまた疲れ果てているために言葉が出てこなかった。
そして、ようやくの思いで力を振り絞って出した言葉が――
「早く温泉に入りたい」
と某妖怪人間の台詞を真似たかのような言い方だった。




