1.どんな人だって、当たる時は当たるもの。
忙しい春の日々も一段落がつく五月の大型連休も終わりを迎えて、人々がまたいそいそとする頃。
栗花落ビルの五階に構えるネコジシ商会の中は、世間様と違っていて、とても〝暇〟という空気で満たされていた。
そもそもネコジシ商会において、大型連休だろうとなかろうと、何も変わらない。
やはり、「暇だから」の一言に尽きてしまう。
〝暇〟というもの以外に何かを見たことがあまりない。
むしろ、忙しくしているところを見たことがないと言うべきだろうか。
それだけ暇なのだから、という理由ではないのかもしれないが、ほのぼのとした空気の中で、あえて〝そういう空気〟であることを確かめた上で、スチールデスクの上へと一つの封筒を置いた。
芒原美加は「目録」と書かれた熨斗袋を持参して、いつものようにネコジシ商会へと訪れていた。
封筒はその熨斗袋だ。
そして、どこか嬉しそうに楽しそうに幸せそうに微笑むのだ。
今すぐ自分の幸せを知ってほしい、自分以外の誰かにもこの幸せを分け与えたい気分に満たされている。
ただ――
人それぞれに〝幸せ〟というものはそのまま伝わるわけでもなく、熨斗袋を見せられている側――百合垣和葉は怪訝をそのままに一瞥をくれてくる。
この熨斗袋に何の意図があるのか――そんな意味合いの視線を向けてくるのだ。
不機嫌な〝黒猫〟の一歩手前の顔。
突然説明はおろか何ごともなくそんなものを見せられれば、誰であろうと怪訝にもなろう。
いくら美加でも、そのぐらいのことはわかっているつもりだ。
「商店街の福引で当てたんです。
一等の〝温泉旅行の宿泊券〟なんですよ」
笑顔で言った。
如何にも誇らしげで、自慢げ。
福引で一等を当てるほどの幸運の持ち主なんだぞ、と鼻高々の天狗となっている。
福引といえば、当たったとしても〝ポケットティッシュ〟であることが当たり前で、スーパーなどに対抗するべく専ら商店街への買いものを促すための商戦・商略とでもいうべきもの。
福引をする客はこぞって商店街の撒き餌に誘われた〝カモ〟でしかないのだ、といっても過言でない。
そういう背景があるからこそ、〝カモ〟が一等を当てることができたのだから、自慢の一つでもしてやりたいのである。
滅多なことではお目にかけないものなんだぞ、とこれ見よがしにしたいのだ。
実に――羨ましがらせてやりたいという願望が、美加の表情にある。
たまには自分が上位に立ちたいという、実に俗な考えに過ぎない。
「そうですか――それはよかったですね」
しかし、現実は羨ましがるどころか、恨めしい視線を向けられることとなる。
「で、わざわざ僕にそれを見せ付けて、得意げになりたかったということですか?」
ツンケンとした様子。
いつもどおりというか、より悪い方向へと向かっている感じだ。
でも、美加は余裕の笑みを維持できる。
和葉が美加の自慢げな物言いに対して癪に障っただけなのだ、と見ているから。
いつも美加をからかって上位に立つことをしているために、今や下位に立たされてやきもきとしているのだろう、と感じたから。
余裕を持っていられる。
「もぅ、和葉くんたら」
だから、いつものようにげんなりとしたことにならず、平静に返すことができる。
多少の嫌味も今の余裕があれば、何ということもない。
福引で一等が当たるぐらいなのだから、憎まれ口なんて大した影響もない。
「宿泊券があるから、みんなで行けたらって思ってたんですよ。
仕事も休みを取って、のんびりと温泉に浸ることができたら――
足も少しはよくなるのかなって思ったんです」
足をさすれば、以前に負った傷痕の感触が、パンツスーツの布越しに伝わってくる。
痛みはない。
歩行に障ることもない。
でも、走ったり跳んだりといった運動をするにはまだ早い。
傷痕も消えずに痛々しいままに残ってしまっている。
一生消えることのない傷。
背負っていかなければならない傷――。
傷を負った時のことを思い出すたびに恐怖が蘇ってくる。
今にも体が震え上がりそうなまでの恐怖。
奥歯を噛み締めて、ぐっと恐怖を堪えた。
心の奥底から湧き上がってくる感情を抑えた。
折角の福引が当たった幸運とやらも、さすがに恐怖の前には些細なもののようだ。
けど、感情を表に出さないように、笑みを崩さずに耐えた。
心配をかけたくない。
あの泣いてしまった時のように、和葉に迷惑をかけたくない。
気を遣わせたくない。
嫌味を言われ続けることになろうとも、いつもどおりの日々を過ごせればいい。
「なるほど、湯治ですか。
それなら、あなただけでも構わないのではないですか?
独りならのんびりとできるでしょうし」
恐怖に押しつぶされて感情のコントロールができなくなろうとしていた矢先、和葉が言葉をつないでくれた。
そもそも話をしている最中なのだから、言葉をつないでくること自体、何らおかしいことでない。
ここで会話が続かないことのほうが不自然ともいえようか。
でも、それが美加にとって、恐怖を紛らわすきっかけとなったので、とても助かった。
「え、えと、その……宿泊券は、もともと家族向けのもので、四人まで大丈夫なんです。
だから、和葉くんとヘカテちゃんと、あと一人、誰がいいかな――
ミリィちゃんと一緒にどうかなって」
美加は崩すことなく済んだ笑みを、さらに増すような形で言った。
和葉は黒猫のイラストが描かれたマグカップを手に――
「なるほど、四人まで使えるのですか」
と素っ気なく返してきて、マグカップを傾けて、一口含む。
「それなら、あなたのご友人でも誘ったらいかがですか?
まあ、言うまでもなく、〝そういった人〟がいないからこそ、ここへと来て僕たちを誘っているのでしょうけどね」
さらに口を湿らす程度に一口。
「ですが、僕たちにも仕事があります。
それに、妹に至っては勉学があります。
高々温泉に行くというだけで、学校を休ませるわけにもいかないでしょうね」
「う、ううぅ……確かに、私には一緒に行ってくれる友達がいませんよぉだ……。
それに、ここっていつもお客さんがいないじゃないですか。
なら、いつでも休みを取ることだってできると思うんです。
まあ、さすがにミリィちゃんに関しては、無理言って学校を休んでもらうわけにはいかないので、諦めますけど」
「いつも客がいないからといって、仕事がないということにつながりませんし、休みになるというわけでもありません。
それと、商人相手に、よくもまあ〝客がいない〟と言えますね。
勇気があるというか、愚かというか、商人相手に戦でも交えようというのですか?」
和葉が冷たい目で睨んでくる。
美加も負けまいと睨み返すのだが――やはり、いつもの二人の立ち位置が変わるわけでもなく、美加が先に根負けして、いつものようにげんなりとうな垂れることとなった。
それで気分が晴れたのか、和葉はしてやったりの笑みでマグカップを傾けるだけ。
その笑みから、インスタントコーヒーの香りが飛んでしまったコーヒーでもさぞかし美味いのだろう。
「――アタシは、温泉に行きたいな」
美加と和葉の会話を、今の今まで部屋の隅でいつもの席としてパイプ椅子に座って、二人のやり取りをテレビのバラエティ番組の如く観ていたヘカテが口を開いた。
和葉が不満げな面持ちでヘカテへと見やる。
美加をこれからいつものように料理してやろう――嫌味で満たしてやろうとしていたところを邪魔されたことが不満のようだ。
「それなら、ヘカテと一緒に行ったらどうです?
独りというわけではないですし、寂しさを紛らわすこともできると思いますが」
視線を美加へと戻してから言い、椅子を回転させて背中を向けてしまった。
こうなると、美加が何を言おうとも聞く耳を持たない状態となってしまう。
なので、美加はため息をつくことしかできなかった。
「ねぇねぇ、いつ行くの?」
そんな和葉はどうでもいいと言わんばかりに、ヘカテが美加のそばへと歩み寄ってくる。
「カズハなんて放っておいてさ、二人で行こうよ、ね?」
ヘカテの頭の中には〝温泉〟のことしかないようだ。
美加のジャケットの裾を引っ張って、答えを急かしてくる。
「そうね。二人で行こうね」
美加は残念そうにしながらも、でも、笑んで見せた。
ヘカテが行きたいと言ってくれるのなら、それでも十分。
独りで虚しく行くことを考えれば、誰かと一緒であることが頼もしい。
でも、折角ならみんな仲良くいけたら、と思っていただけに、思いどおりにならなかったことが寂しく悔しいところ。
和葉とのやり取りが終わり、一悶着とまではいかなかったにしても、少し険悪な空気になりそうだった雰囲気は、時間が経つにつれて落ち着いてきた。
未だ和葉は背中を向けたままだが、ツンケンとした様子は背中から感じられない。
機嫌が悪いようではないので、単にこちらへと向き直らないだけ、と見るべきか。
美加も〝触らぬ神に祟りなし〟と和葉に声をかけることもなく、椅子に座ったままコーヒーを飲むだけだ。
三毛猫のイラストが描かれたマグカップを眺めることしかなかった。
ヘカテはいつもの席へと戻ると、美加と和葉のやり取りが終わってしまったことで暇そうに欠伸をするだけ。
そこへ、不意に出入り口のドアが開かれた。
事務所へとズカズカと勝手知ったるように誰かが入ってくる。
美加が見やれば、そこにいるのは制服姿の少女。
黒のボブカット。
黒を基調とした制服は、名門の〝お嬢様学校〟として知られている学校のもの。
落ち着きのある物腰は、さすがに〝お嬢様学校〟の生徒だからといえようか、年齢よりも大人びて見える。
こういった少女もこんな怪しげなネコジシ商会へと訪れるものなんだな、と美加は驚きを覚える。
ただ、対して少女が美加を睨んでくるように見える。
明らかに美加に対して嫌悪感を抱いているようだ。
美加にはどうしてそのような視線を向けられるのか見当もつかない。
初めて見る顔なのだ。
恨みを買うようなことをした覚えがない。
和葉が客が来たのだろうと椅子を回して少女を見やる――眉をひそめた。
「これは珍しい。
漆原千代がどのような用件で?」
そのまま立ち上がり、少女へと尋ねる。
その佇まいは、どこか構えているようにも見える。
美加は和葉と少女――千代が知り合いらしいというところまではわかった。
しかし、どのような知り合いなのか未だわからない。
和葉があまり自らのことを話そうとしないので、美加の知らない相手が現れてもおかしくないのかもしれない。
知り合いだろうに、なぜか千代は和葉を美加と同じ嫌悪の目を向けているのか。
となると、知り合いといっても仲がいいというわけではないのだろう。
でなければ、この少女がいつも嫌悪感を抱いていると見えてしまうような目つきの悪さなのだろうか。
「霞姉さんから、あなたに仕事の依頼があります」
千代は挨拶をすることもなく、早々に用件を済ませてしまおうということだろう、口を開いた。
ややトーンの落とした声色。
見た目の印象と同じく、声も大人びているように聞こえる。
「仕事の依頼?
わざわざ僕に?
どうして?」
「この間の一件、私たちに〝借り〟があるのではないのですか?
それを支払ってほしいのです。
嫌とは言いませんよね?
仮にも商人の端くれでしょうから、物事の貸し借りに関してしっかりとしている筈でしょうから」
「〝借り〟?
何を言っているのですか?
咲耶霞は、何の役にも立たなかったではないですか」
「少なくとも、〝私の力〟を行使した筈です」
「あれは咲耶霞の尻拭いではなかったのですか?
いささか解せませんが――わかりました。
やれやれですね」
和葉はため息をついて、身を投げ出すかのように椅子へとどっさりと座る。
千代は視線を変えることなく、スチールデスクの前へと歩み寄ってくる。
美加を睨んできたわりに、もう眼中にないようだ。
美加は話が何一つわからないので、黙ったまま二人を見ることしかできなかった。
「ああ、これから仕事の話をしなければならないので、できれば退室していただきたいのですが」
和葉が美加へと見やるなり、言ってきた。
追い払うというわけではないが、商談についてネコジシ商会の者でもない美加においそれと話を聞かせるわけにはいかないということらしい。
警察とネコジシ商会は協力関係にあるが、それは飽くまで魔具が絡んだ事件についてのみ。
商売に関しては手の出しようがない――警察の出る幕でない。
美加は頷いた。
和葉と千代の関係が気になって後ろ髪を引かれる思いなのだが、そのことを聞ける状況とも思えなかったので、素直にネコジシ商会から出ることにした。
その後ろをヘカテがついてくるのだが、状況を読んで、二人のやり取りを見ているよりも逃げたほうが得策と考えたに違いない。
ドアを閉める時には、不穏な空気が部屋からあふれ出てくるように感じたのだから。




