8.宵闇に舞う桜を背景に、募る思い。
「霞姉さん、放っておいて、宜しかったのですか?」
千代が苛立ちを募らせつつ問いかけた。
相手――霞は「うぅん」と空返事をするだけで、のんびりと風景を眺めている。
千代の声が耳に入っているのだろうか、内容までちゃんと聞き取っているのかどうか、とても疑わしい。
条件反射で返事をしているだけととってもおかしくない。
話をおざなりにしてしまう理由というべきか、霞の眺めている先を見れば千代の問いかけどころか、他のものも全く気にならなくなってしまうのかもしれない。
最も夜の深淵にある人々の寝静まった時間を迎えてもなお、街の明かりは消えることなく、不夜城として少なからず人がいることを誇示しているかのようだ。
そんなキラキラとした背景に、夜の闇をひっそりと被っている桜の木がある。
日中ならまだしも、この暗闇の中では薄紅色がどこにあるのか不確かで、どれほどの広大さを持っているのかもわからない。
明かりといえば空に浮かぶ月と枝々の合間に見える街の明かりで、桜とはまた別の木がそこにあるように見えなくもない。
それだけ完全に闇に溶け込んでいた。
見た目だけでいうのなら、その辺の木と何ら変わらないだろう。
なのに、桜らしさというべきか、ソメイヨシノらしさだけは失われていなかった。
これだけはその辺の木と全く違うところだろう。
誰に見られることもない宵闇の中でも拘らず、むしろ誰にも見られなくとも構わないと言っているように、己が自身の役目を――満開を迎えたそれは花びらを散らしていた。
時折花びらが光を浴びて、僅かに白く浮き立つ。
雨とも雪とも、人の目を惹きつける力を持ち得た存在。
霞はその桜を見てうっとりとしていた。
「霞姉さん、聞いていますか?」
「うん、聞いているわよ」
千代がもう一度問いかけるものの、霞から返ってくるのは相も変わらず。
千代の苛々がさらに募っていき、爆発しそうな思いを抑えるように両手を腰に当てて「もぅ」と息を漏らした。
どれだけ思いを抑えているのかといえば、薬缶が蓋をカタカタと鳴らして風雨等寸前といった様子。
その沸騰寸前の薬缶の噴出す湯気というべきか――
「そんなライトアップをされていない桜の、一体どこがいいんですか?」
霞の見ているものを否定したいわけではないのだが、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「そうねぇ……名前かな。
桜は〈木花咲耶姫〉を語源としているとあるし。
〝咲耶〟といううちの姓もそこから取ったんじゃないかって話だし。
うちは桜の花を家紋としているし。
あとは――昼には昼の、夜には夜の、真っ暗には真っ暗の、それぞれのよさがあるのよ。
だから、今、目の前で散っていく桜にはこの桜なりのよさがあるの。
千代ちゃんには、そういった風情な話はまだ早かった?」
霞は全く気にしていないようで、それどころか宥めてくる。
「早いかどうかわかりませんが、そんなことより――」
だからといって、丸め込まれるつもりはない。
桜のよさだろうと、風情の話だろうと、今必要なことではない。
「そんなことなのぉ……」
霞が残念そうにげんなりとした声を上げる。
そもそも、千代が苛々としている最大の理由は、のほほんとした霞の態度にある。
だから――
「そ・ん・な・こ・と・よ・り!
いいのですか? 放っておいて」
とうとう抑えるに抑えきれなくなった。
押さえるに押さえきれなくなった薬缶の湯気が沸騰した。
目をつり上げ、大声を上げた。
静かな空間に千代の声が谺する。
霞は顔をしかめ、叱られている仔犬のように小さくなって、上目遣いで千代を見てくる。
クーンクーンと泣きそうな顔なのだが、目だけは笑っていた。
しょげているように見せているだけのようだ。
千代はげんなりとため息をついて、肩を落とした。
霞が顔を上げて、小さく笑んでくる。
千代の反応を見て実に楽しそう。
「千代ちゃんは、カズくんたちが心配?」
どこまでも千代の反応を見ているつもりもないようで、ようやく千代の問いかけに答えてきた。
千代は首を横に振り――
「あの人たちなど心配しておりません。
勝手に突っ走って、勝手に潰れたところで、気にも留めません。
かえって、さっさと潰れてくれたほうが私としては嬉しい限りです。
いつも私を馬鹿にするあの男――さっさと潰れてしまえ。
――ふぅ。
私が心配していることは、突っ走った挙句に潰れてしまうことではなく、突っ走った挙句に暴走してしまうのではないかということです」
憎き相手を今すぐにでもボロ雑巾を絞るかのようにしてやりたい、と千代は顔に出している。
そういう感情を表に出すのを見ていることが楽しいのだろう。
霞は笑みを浮かべている。
「カズくんたちが〈異端〉に?
フフッ、それこそ大丈夫よ。
カズくんに限って、そんなことないわ。
カズくんを狩るために私たちが出ることなんてないわよ。
ただ今回は、〝カノジョ〟があんな目に遭ったから、感情的になってしまっているだけ。
大丈夫よ。
感情的になったからって、そう簡単に〈異端〉に堕ちるような人じゃないもの。
それにね。カズくんが家族以外の誰かのために感情的になるって、初めてじゃない?
それを見てみたいというのもあるかな。
それで〈異端〉に堕ちるのであれば、その時にどうするかを決めればいい話よ」
霞が何も考えていなかったと思いきやしっかりと考えているようで、それがまた千代の不満が募ることとなる。
考えているのなら、始めから態度で示してほしいものだ、と。
プイッとそっぽを向いて、不満をどこへ吐き出していいのか戸惑ってしまう。
「何か、無責任にも聞こえます」
霞に不満をぶつけたかったわけではなかったが、どうしても抑えきれず、つい言葉が刺々しくなってしまった。
真意とは別に、霞へと当たってしまったことが、さらに不満を増すこととなってしまう。
霞の態度に苛々しているのだから、霞に不満をぶつけても何ら問題でもないし当然である筈だ。
それでも霞を親愛し敬愛――むしろ、信愛ともいえる――しているために、どんなに苛々が募ろうとも霞に当たりたくないのだ。
自己嫌悪に陥ってしまう。
「千代ちゃんは反対?」
霞は千代の不満に怒っていないことを表すように、笑みを見せながら尋ねてくる。
千代は体を強張らせて反応してしまった。
怯えた仔犬に、一転してなってしまったかのように。
でも、ここでこちらが態度を改めてしまっては――負けてしまっては――後に続かない。
少しでも毅然とした態度でいかなければならない。
「……霞姉さんの言うことに反対などしません。
私なりの意見を言っただけです。
あの男が感情的に行動して、もし〈異端〉と言わざることをしてしまったら、どうするのですか?
そういうことを聞いているのです」
どこまで毅然かは、千代自身がよくわかっている。
全然、毅然でなかった。
うろたえてしまっていることが、言葉の端々に出てしまっていた。
霞もそのことに気づいているようだが、あえて気づいていないふりをしているのか、素直に答えるようだ。
「世の中の秩序を乱すようなことをカズくんがしたら……」
霞が顎に指を当てて唸る。
考え込んでいる――と見せかけなのは、いつものこと。
この場合、頭の中ですでに考えがまとまっているのかもしれないが、全うな答えなどほとんど返ってこない。
「――千代ちゃんの出番かな?」
「もぅ、そうやってどこまでも無責任なことを」
予想どおりのことに、ため息をつくしかない。
でも、うろたえている自分がどこかへと行ってしまったようだ。
なので、いつものようにこちらも霞に対応できそうだ。
「冗談よ。
千代ちゃんの手を煩わすことなんてないわ。
見てみたいと言ったのは私なんだから、その責任も私が取るわよ」
だから安心して、と言うように笑んでくる。
一息つき、気を入れなおすというべきか、立ち上がった。
懐から煙管を取り出して、ペン回しの要領でクルリと三回転。
「霞姉さん、煙草は駄目です。
携帯灰皿も持ち合わせていないのに、灰の処分はどうするのですか?」
刻み煙草を入れようとしているので、千代は注意を促した。
霞の手が止まり――
「まあまあ、誰も見てないし、少しぐらい」
「駄目なものは駄目です。
それに、ここは地方自治法によって禁煙区域となっています。
世の中の秩序を守るための〈異端狩り〉が、ルールを守らないのはいいことではありません」
「んもぅ、愛煙家としては肩身の狭い世の中になってしまったわねぇ。
ま、もとはといえば、マナーを守れない人たちのせいなんでしょうけどね。
自分で自分の首を絞めてしまうことになるのだから。
では、喫煙できるところに行きましょうか」
「何を暢気なことを言っているんですか。
第一、霞姉さんのその煙草だって、〝警察にしょっ引かれてもおかしくないもの〟だというのに」
「この煙草は、一応だけど内々に許可貰っているのよ。
〝これぐらいのもの〟を持ってこないと、〝私〟を抑えることなんてできないもの。
〝要らぬ心配〟をするよりかは、〝僅かな見逃し〟で事を未然に防げるだろうし」
「〝そういう事情〟はわかっています。
ただ、霞姉さんがどこまでも暢気でいるものだから、一言言いたくなってきたんです」
「まあ、〝言いたくなる〟だなんて、まるでカズくんみたいな千代ちゃんね」
「やめてください。
何であんな男と一緒にされなければならないんですか!」
いくら霞に不満をぶつけようとしても、いつものように飄々とされてしまうのだから、これ以上言っても無駄なのだとそっぽを向いた。
霞は不満をぶつけられても全くもって余裕だ。
千代が怒ることを見据えてさえいる。
何かを言うたびに千代が反応することがとても楽しいのだろう。
「さ、私たちも行きますよ」
千代は焦らすように言った。
「はいはい、行きます、行きますよ。
行かないと、千代ちゃんがどんどん怖くなるからね」
どこまでも霞は暢気に構えるようだ。
こうなると、こちらが折れるしかないのかもしれない。
千代はため息しか出せなかった。
よくよく考えれば、〝浮き〟も〝沈み〟も霞の思いどおりにされていることに気づいた。
飄々とした態度はこちらの心情を揺り動かす手段なのだろう。
でも、どんなに霞に心を動かされようとも、完全に沈むことまで至らないのは、霞に優しさなのだと感じた。
自分の感情で遊ぶというのはどうにかしてほしい、と千代は思っているのだが、〝一つの感情に流されていた過去〟を思い返せば――
霞に弄ばれているということは、自分の感情を豊かにすることなのだから、受け入れるべきなのだろう。
不満はこの際我慢すればいいのだ。
桜の木を背に、二人は歩き出した。
周りは森林公園といった少し開けた場所で、桜の木の向こうに街の明かりを背に二人は反対側へと――夜の闇に覆われた郊外へと、街よりも暗く、街よりも静かで、街よりも――
◇
とても鋭利なデザインのサイドカーと一体化したバイク――バイクというよりもトライクか――クラウザー・ドマニが、郊外にある元レジャーランドの前に止まった。
それから二つの影が降り、ヘルメットをサイドカーのシートへと放る。
元レジャーランドにはガードマンの代わりというべきか、代わって利用しているだけというべきか、複数の男たちがいる。
彼らがドマニに気づき、近づいてきた。
珍しいトライクがあるから近寄ってきたわけではない。
見知らぬトライクがいるから、不審の目を向けている。
――直後、破裂音が響き渡り、男たちを次々と倒していった。
「あなたたちに恨みはありませんが、運がなかったと諦めてください」
街灯の下で影のうちの一つ――黒スーツをまとい、黒シャツにワインレッドのネクタイをつけた和葉が歩んでいく。
緩やかと、とても余裕を持って。
和葉の前ではもう一つの影――迷彩服のヘカテがCAWSを構え、先行していく。
二人の様は、まるでヤクザの若頭と護衛の〝G.I.ジェーン〟といったところか。
まるでB級映画のワンシーン。
むしろ、場違いなまでに二人は不釣合いな恰好をしているといえよう。
破裂音と二人が元レジャーランドの敷地内へと足を踏み入れたことに気づいたのだろうか、新たに男たちが近寄ってくる。
それを、何のためらいもなくヘカテがCAWSで吹っ飛ばしていった。
「――何だか、これでは僕たちが映画に登場する悪役ですね。
断りもなく侵入して、出てくる人たちを片っ端から〝撃ち〟倒していくのですから。
仮にこれを映画とした場合、是非ともBGMはヤクザ映画かマフィア映画のものでも流してもらいたいものです」
和葉は自分たちのやっていることに厭いているのか、やれやれとため息をついた。
だからといって、歩みを止めることはない。
先行するヘカテについていくだけ。
ヘカテはゲームセンターのガンシューティングゲームでもやっているつもりなのか、実に楽しそうに、次々と現れる男たちを吹っ飛ばしていく。
〝トリガーハッピー〟の表れといっても過言ではないだろう。
これでもし笑いながら撃っていたら確定に至るに違いない。
薙ぎ倒されていく男たちは〈シュメッターリング〉と称される組織の構成員。
その証拠に、彼らは皆同じ蝶のエンブレムの腕章をつけている。
そして、この元レジャーランドは彼らの拠点。
彼らが組織立っていることは、強請り、麻薬の売買、窃盗、その他色々。
犯罪組織と言ってもいいのだが、規模が然程大きいわけでないので、公安のような組織からは全くもって相手にされていない。
所轄警察がマークしているだけ。
早い話が〝チンピラ集団〟に過ぎない。
だからなのか、十代と二十代で多くを構成されている上、暴力団とのつながりもない。
むしろ、暴力団ですらチンピラを相手する暇などないようで、無視されているのが現状である。
というよりも、暴力団の手のかかるところまで彼らが足を運ばないこともあるだろうか。
そもそも、暴力団にとっては、任侠など持ち合わせていないチンピラ風情を相手にしたとあっては、〝極道〟の名が廃るということもあるか。
――また一人、ヘカテのCAWSに吹っ飛ばされた。
壁に背もたれ、ぐったりと崩れ、全く動かなくなった。
「ヘカテ、今さら聞いておきますが――殺していませんよね?」
CAWSに吹っ飛ばされた男たちが皆動かなくなることに疑問を持ったのか、和葉はジト目でヘカテを見やる。
ヘカテはフフンと鼻を鳴らすと、ニヤリと笑みを返してくる。
予備として携帯しているマガジンから、金属製のショットシェルを一つ抜き出し、放ってくる。
和葉は受け取り、訝しそうに見据える。
ヘカテのように銃火器に詳しいわけでもないので、見せられたからといって何がどうなのかまで、判断がつかない。
再びヘカテへと、聞き返すように見やる。
「たぶん大丈夫よ。
特注で作ってもらったゴム弾だから、よっぽど当たりどころが悪くない限り、悶絶で済むんじゃないかな」
ニヘヘと楽しそうな笑みで答えてきた。
少女の時の話し方と違って、大人だと甘ったるい声を出しながらの話し方になり、どこか妖艶な殺戮者を思わせる。
「ゴム弾――非殺傷弾ですか、なるほど。
知らぬうちに、こんなものまで仕入れていたのですか。
あとで商会の帳簿にちゃんと書いておいてくださいね。
〝裏帳簿〟のほうだけで構わないので。
お金の計算が合わないと、色々と面倒なことになるのですから。
――それはともかく、戦闘力を奪うだけなのに、そんなものが必要になるのですかね?
〝オーバーキル〟とまでは言いませんが、やりすぎではありませんか?」
「ナイフとか出されたら、大変じゃない。
それに、アタシが撃つんだから、カズハは何もしなくて済むのだし、楽でしょ?」
「まあ、あなたがそう言うのでしたら、それでいいですけどね。
――さ、早く〈蒼い王〉を〈鎮魂〉してしまいましょう。
ここの連中が持っていても、何の価値もないですからね」
和葉はショットシェルを放って返した。
ヘカテはショットシェルをマガジンへと戻すと、ニタリと笑んだ。
目の前に元レジャーランドの建物が、闇夜に浮かんで不気味に映る――




