2.鏡の前で踊る猫の瑠璃色のため息。
空は橙と紫のコントラストに染まり、辺りが次第に暗くなりつつある大禍時。
どこか浮かれ気分で美加は歩いていた。
辺りの暗さなど気にする様子が全くない。
むしろ、辺りに光を放つかのように、自分が暗い中を明るく照らしてやるんだと言わんばかりに心が躍っていた。
美加の視界は夕暮れの暗さが全く影響を受けずに、最早明るく満たされていたとでも言おうか。
その浮かれ加減を他の人たちからどのように見られていただろうか。
恥ずかしい奴、痛々しい奴、万年春の頭な奴――
それぞれの目で見ていたに違いない。
良い印象よりも悪い印象のほうが多いだろう。
そして、美加自身はそんな目など全くもって気にしていなかった。
それどころか、自分の満たされた心で一杯になり、他の人の視線など目に入っていなかった。
美加はペンダントトップを手のひらの上に乗せて、これで何度目になるのだろうか、見やって笑みを漏らした。
和葉から貰ったラピスラズリのペンダント。
初めて貰ったプレゼント。
〝和葉から貰った〟というよりも、〝男の人から貰った〟こと自体が初めてのことなので、嬉しくて浮かれてしまっていた。
何とも頭の中が幸せな奴としか言いようがない。
美加の小さい頃はどこか目立たなかったというべきか、大人しめで――むしろ、大人し過ぎたと言ってもいいだろう――すぐに人を避けてしまう人見知りの激しい子どもだった。
とはいえ、それも小さい頃の間であり、中学へと上がる頃には何かと人と話ができるようになっていた。
でも、中学からはずっと学問に集中していたこともあり、今の職――警察官になってからは仕事ばかりの生活で、浮いた話など全くなかった。
〝地味な女〟と言ってしまえば終わりなのかもしれない。
でも、出会いがなかっただけ、というのが美加の主張だったりする。
そんな背景があったとしても、この年――とはいえまだ二十六歳――もう二十六歳――にもなって、プレゼント一つにさすがに浮かれ過ぎただろうか。
でも、初めてだからこそ少しは浮かれてもいいのかもしれないと思っていた。
美加は大きなショウウィンドウの前で足を止めた。
何の店なのか、中が暗くてわからない。
ブティックのように見え、マネキンらしき人影のようなものが僅かに見える。
ガラスに映る自分の姿――黒褐色のパンツスーツに黒々とした長い髪、細身の長身、胸元には和葉から貰ったペンダント。
ペンダントが瑠璃色の光を放つ様を見て、笑みを漏らした。
辺りの暗さに自らの姿が溶け込みそうな中に一つの光。
たった一つの光なのに、地味な色彩の服装なのに、全てが華やかになった気がした。
「身につけると〝幸せ〟になれる、か……。
フフ、今が幸せなのかな」
ガラスに映る自分に笑みを向け――ガラスに映る自分に笑みを向けられ――再び歩き出した。
どれほど歩いてからだろうか。
浮かれていたために今まで気がつかなかったというべきか――美加の周りには誰もいなかった。
先程まで〝痛い視線〟を向けられていたことを感じていなかったとしても、視線があったことは覚えている。
だが、今は視線を送ってくるどころか、本当に人がいない。
あまりの痛々しさに誰もが美加から離れていってしまったのだろうか。
そうではない。
なら、人の通らない場所なのか。
そうでもない。
普段、ここを通っていて人とすれ違わないなんてことはなかった。
スゥ、と美加の思考が静まっていく。
浮かれていた感情の代わりに、周囲を警戒しろと思考が訴えてきた。
気を抜くな。
でも、足を止めても駄目だと訴えてくる。
このまま足を進めて離れろとも訴えてくる。
足を止めればすぐにも危機が迫ってくるのではないかという焦燥感が湧き上がってきた。
足が速まる。
静かな通りを美加の足音だけが鳴り響いた。
アスファルトをパンプスの叩く音だけが聞こえるのみ。
何が起きているのか、何が起きようとしているのか、何もわからない。
全くわからない。
今の状況に対してどうすればいいのかさえもわからないでいた。
今すぐにもここから離れなければならないが、どのようにすればいいのだろうか。
そもそも、この通りを抜けさえすれば終わる話なのだろうか。
あれほど幸せに満ち溢れていた時間を返してほしい。
今すぐにも、誰でもいい、文句を言ってやりたい。
どこをどう歩き回ったのだろうか――
同じ道をずっと歩いてきたわけではない。
無作為に角を曲がって、行き先を悟られないようにしてきた。
しかし、〝曲がるように〟仕向けられていることに気がついた。
思うが侭に導かれていたのだ、と。
足が止まった。
音もピタリとやんだ。
あれほど足を止めてはいけないと言い聞かせていた筈なのに、無視して体が勝手なことをしてくれた。
大きく息をつく。
気を抜けられないからこそ、ここは冷静にならなければならない。
気を入れなおさなければならない。
導かれてしまったのなら、自分で打開するだけのこと――。
正面を見やれば、三人組の影があった。
偶然、会ったというわけではないのだろう。
待ち構えていたと見るべきなのだろう。
状況からして、この三人に何かしらの方法でここへとおびき寄せられたと見るべきだ。
「――見つけた、〈蒼い王〉」
正面に見える三人のうち、真ん中の影が一歩前へと出てきた。
声色からして二十代――いや、三十代だろうか。
淡白な声色の男。
異質な空気を持っている。
〝痴漢〟というにはあまりにも不気味。
俗物という〝枠〟に収まらない者たちなのだろう。
それだけの異質感を持ち合わせている。
「さあ、〈蒼い王〉を渡してもらおうか。
それは、お前のような奴が持っていていいものではない」
指差してきた。
美加の距離からでは影が何を示しているのかわかりにくい。
それに〈蒼い王〉とやらも何なのか知らないし、聞いたこともない。
だが、直感で身につけているペンダントのことだと気づいた。
三人の視線が皆、美加の胸元――ペンダントへと向いていることは間違いないと見ていい。
でも、なぜペンダントを欲しがるのか。
和葉から貰った〝ただのペンダント〟でしかない。
〝幸せ〟になれるなんて銘打っていたが、それは飽くまで和葉の妹が言ったに過ぎない。
その上、和葉の妹が言ったことを三人が知っているとは到底考えにくい。
どうしても、ここまでして欲しがるようなものとは思えなかった。
「これは〈蒼い王〉なんかじゃないわ。
ただのペンダントよ」
だからというべきか、美加は胸に輝くペンダントを右手で覆い隠した。
何としても、このペンダントを守りたい。
折角手にした〝幸せ〟を三人に蔑ろにされたくない。
それを見た三人が動いた。
左右にいた影が美加を囲うような位置取りをすべく、左右に分かれて近づいてくる。
正面の影はゆっくりと真っ直ぐに近づいてくる。
美加は三人それぞれへと目配せ、全くもって逃してくれる気配がないことを察して、身構えた。
「〝ただのペンダント〟と言いながら、なぜ隠す?
〈蒼い王〉でなければ隠す必要などないだろうに」
「これは大事なものなの。
それに、あなたはこれが〝ただのペンダント〟だったとしても、力尽くで奪う気でいるくせに」
美加は正面の影へと睨んだ。
その影の手には、不気味に煌めくコンバットナイフが握られている。
影が何と言おうとも、問答無用に襲ってくることは目に見える。
「大人しく渡してくれれば、痛い目に遭わずに済むというものだ」
左後ろに回った影がそう言い、美加へと迫ってきた。
こちらもコンバットナイフが握られている。
これでは、痛い目に遭わずに済むの話ではなく、如何にも痛い目に遭わせようとしているのではなかろうか。
そもそも、殺してでも強引に奪おうという気なのかもしれない。
殺意を感じる。
美加は左後ろへと向き、相手の動きを見て〝素人〟であることを察した。
ナイフを手にしていても、扱うに慣れた動きに見えなかった。
これであればまだ何とかなるかもしれない、と。
迫り来る影のナイフを持つ腕へと狙いを定め、手をかけた。
相手の動きにこちらの動きを合わせ、相手の力にこちらの力を合わせ、タイミングよく全ての流れをこちらに呼び寄せ――
次の瞬間には、美加の一本背負いによって、影は宙を舞っていた。
これで一人を取り押さえることができる。
残りは二人。
押さえつけながら次へと視線を向けていく。
美加は仮にも警察官だ。
たとえ同僚から「役立たず」と言われようとも、犯人相手の格闘戦の心得は持ち合わせている。
捕縛術として得ているのだ。
それに、日頃から安雄にしごかれていることが発揮したというべきか。
だからこそ、咄嗟の行動もできる。
暴漢の一人ぐらい、取るに足らない。
取り押さえることなど容易。
それも、ナイフでの戦闘に慣れていないような相手ならなおのこと。
でも、それまでだった。
一対一の組み手ならまだしも、一人で多数を相手にするともなると、美加も慣れていなかった。
「――かはっ!?」
美加の背に何かが宛がわれたと思った直後、痛みが走った。
それだけではない。
途端に全身から力が抜けていき、あっという間に視界が暗転――意識が飛んだ。
◇
「どうします、この女」
背中をさすりながら男は言った。
その顔は痛みに歪んでいるようだが、目立った傷はない。
背中から地面に落ちただけなので、打ち身程度に済んだのだろう。
男は地面に転がるナイフを手にすると、革製の鞘へと収めて、懐へとしまった。
この男のほかに二人いる。
どちらもナイフを手にしていたが、それぞれ鞘へと収めて、しまった。
地面に伏せている美加へと三人は囲い、見下ろした。
美加は全くもって動かない。
意識が途切れているものの、目立った外傷はないようだ。
「しばらくは、目を覚まさないだろうな」
そう答えた男の手には、スタンガンが握られていた。
これで一本背負いした後の隙を狙って、美加の背中へと押し当て、昏倒させたのである。
「〈蒼い王〉かどうかの確認をする前に、まずはこの女を運ばなければならんな。
いつまでもここに居続けると、ここの〝流れの滞り〟に気づいて、〝余計な者〟がやってくるかもしれない。
それに、連中の仲間かどうかを訊くためにも、場所を移したほうがいい」
スタンガンをしまいつつ、言葉を紡いだ。
「わかった」
二人が言葉を返し、美加を担いだ。
ここから別の場所へと向かうべく、そのまま運び出した。
三人と動かない美加は、暗い通りの奥――闇の中へと溶け込むように消えていった。
男たちの去った後は、何ごともなかったかのように、普段の通りへと戻っていた。
普段どおりに人々が行き交う――。
◇
緩やかな鼓動が聞こえる中で、覆いかぶさるようにしてザーという音が聞こえるようになってきた。
それも、最初は小さかったものが次第に大きくなっていくのだ。
何の音だろうか。
波の音?
テレビの砂嵐?
それとも別の何か?
美加は真っ暗な、墨よりも濃い世界の中を浮いている。
ユラユラと、フワフワと、力を抜いて、力を入れず、ただただ浮いている。
誰もいない夜の海に漂っているのなら、きっとこの音は波の音だろう。
うつらうつらと部屋で眠ってしまったというのなら、きっとこの音はテレビの砂嵐だろう。
ユラユラフワフワ、ユラフワユラフワ、ずっと漂い続けるだけで認識がうまくいかない。
この際、海でもテレビでもどちらでもいい。
それ以外だって構いもしない。
ぼんやりとしていて、うまく状況を掴めなかった。
自分がどうなっているのかさえ、わからなかった。
このままずっと漂い続けていようか。
このまま身を全て任せておけばいいのかもしれない。
それだけ、どうでもいいとしか思えなかった。
――そこに誰かの声が混じってくる。
誰の声だろうか。
ザーという音と混じりあっているので、うまく聞き取れない。
意識がうまく働いていないので、認識すらもままならない。
それでも何かがわかればと耳を済ませる。
意識が曖昧だというのに、耳を澄ますことなど叶うのかどうかわからない。
でも、誰の声なのか、判別するためにもやらなければならないこと。
耳を澄ませろ、耳を澄ませろ、耳を澄ませろ――
耳を済ませることで意識を取り戻し始めたのか、認識を始めたのか、全てを把握すべく――こちらの意識に合わせて、ザーという音が薄れていく。
始めから聞こえていた鼓動がしっかりと聞こえてくる。
これならば、誰の声なのかわかる筈。
もっと――もっと多くのことを聞くことができる筈。
真っ暗な世界に光が射した。
光が広がり、大きく世界を塗り替えていく。
嵐の後の陽を目にするように、〝天使の梯子〟が自分を照らしてくれるかのように、眩しいと感じ――
目を開けた。
◇
「――目が覚めたか」
未だに朦朧とする意識の中で、美加が最初に聞き取った音は、男の声だった。
誰の声だろうか。
聞き覚えがある気もするのだが、誰のものなのか認識できていない。
〝男〟であるということだけ。
同僚たちの声ではない。
それに、和葉の声でもなかった。
誰なのかを考えていくうちに、意識が鮮明となっていき――自分の周りに男が三人いて、正面の男が声をかけてきたらしいことがわかった。
意識を失う前に襲ってきた三人。
どれも余裕の笑みをもって見下ろしてくる。
次に自分の状況を確認すれば、椅子に座らせられていた。
両手を背もたれへと、後ろ手にロープか何かで縛られているようで、自由が利かない。
さらに足も縛られている。
これで男たちが余裕の笑みを漏らしているのも納得できた。
逃げるに逃げられない状況だからこそのものだろう。
さらに周囲へと見やれば、どこかの倉庫か、随分と寂しい部屋。
のっぺらとした飾り気のない壁に覆われ、灯された裸電球が美加の頭上だけぶら下がっている。
窓らしき窓が見当たらないので、今が昼なのか夜なのか判断がつかない。
「さて、いくら騒いでも、誰もここには来ないし、この辺りに人はいないとだけ言っておく。
言うまでもなく、そのぐらいのことは、察しているかな」
正面の男が言葉を紡いでくる。
口元は不適な笑みに歪んでいる。
美加は男へと睨み――
「こんなことまでして、何がしたいの?」
「言っただろう?
我々は〈蒼い王〉が目的だ」
「なら、奪えば早い話じゃない。
こんなことまでする必要なんてない筈よ。
それに、これはただのペンダント――え?」
気負けをするわけにはいかないと強気に出ようとしたところで、気づいたことがあって言葉を詰まらせた。
美加の首には未だラピスラズリのペンダントが下げられたままだ。
男たちの言う〈蒼い王〉が美加の下げているペンダントだとするのなら、さっさと奪ってしまえば済む筈だ。
気絶までさせたのだから、奪うことなんて造作もなく容易いことの筈。
なのに、ペンダントがそのままだということは、ペンダントが目的でないということなのだろうか。
ペンダント以外に〈蒼い王〉というものがあるのだろうか。
疑問に思ったまま男たちへと窺う視線を向ける。
「お前のしているものが、〈蒼い王〉であるかどうか定かでないからな。
迂闊に手を出すわけにいかなかったのだ。
そういったものに迂闊に手を出して、何かしらの罠が発動されても困るからな。
それに、お前のそれが〈蒼い王〉であるかどうかは、この後ゆっくり調べればいいだけのことだ。
ここまできて、焦って手に入れる必要もないからな。
――さて、本題だ。
〈蒼い王〉であるかどうかを確かめる前に、訊いておかなければならないことがある」
「訊いておかなければならないこと?」




