1.猫が何かをくれる時は、いつも裏があるのかもしれない。
――うっとりとした吐息。
目の前には煌びやかな瑠璃色が広がっている。
石が光を反射して、幻想的な光を放っていた。
その光り輝く海とも空ともいえる色に、芒原美加は蕩けそうな表情をして感嘆の息を漏らしたのだ。
目も心も、その石の魅力の前に囚われてしまっている。
全てを支配されてしまっている。
言葉が出てこない。
出てくるものといえば、ため息のみ。
「やれやれ、〝女〟というものは、つくづくと言わせるほどに、本当に〝光る石〟というものが好きですね」
そこへ、百合垣和葉がどこか呆れたような、疲れたような、ため息を漏らしてくる。
ついていけない、と言いたげに厭いていた。
美加と全くもって逆の反応。
そんな和葉へ、美加は石から目を離して、むくれた様子で睨んだ。
「何を言っているの、和葉くんたら。
〝女〟というのは、〝綺麗なもの〟が好きなんです」
〝女〟の気持ちもわからないんだから、と不満げに言い返す。
そして、部屋の隅にいる少女――ヘカテへと見やって「そうですよね?」と同意を得ようと尋ねた。
しかし、ヘカテは「まあね」とやや素っ気ない返事だ。
和葉ほどに厭いているようではないが、どうでもよさげである。
ヘカテはいつものように部屋の隅で、美加と和葉のやり取りを、まるでテレビのバラエティ番組でも観ているかのように眺めていたのである。
その上で、この調子での返事なので相槌程度のものでしかないだろう。
むしろ、この後にどのような展開が来るのかを待っている気概がある。
それでも美加にとってはよかった。
ただ肯定さえしてくれれば、中身が伴っていなくても構わなかったのだ。
これで二対一という形になったというか、なっていないというか、和葉が数に不利を感じてか眉をひそめている。
四月上旬。
今年の桜は遅咲きだな、と世間が口にする中、うつらうつらと眠くなるような暖かい午後、それも午睡に時間を費やしたくなるような気分にさせられる。
そんな〝甘い囁き〟を常に受け、でも、できないことの億劫さが意識を支配する。
春ならではの忙しさがあるからこそ、なおのこと億劫さがより一層増していく。
すべてを忘れて横になりたい気分を我慢して――。
高度経済成長期に建てられたと思しき古めかしい雑居ビル――栗花落ビルの五階。
二又尻尾の猫のエンブレムにガムテープを用いて「ネコネコ商会」と改竄されたスチール製のドアの向こう側――ネコジシ商会では、いつものように美加が訪れ、いつものように二人は迎えてくれて、いつものように時間が過ぎていく。
どこまでも、いつものように時間を潰していた。
特に主立ってやることがなかった――これもまたいつものことだ。
コーヒーを飲んで、他愛のない話をして――それぞれ暇を持て余していた。
本当に何も変わらない、〝いつもどおり〟の光景。
そんないつもどおりの光景であっても、美加にとっては至って当たり前の〝暇〟という概念が存在しているのか怪しいものである。
ネコジシ商会へと出向することこそが美加に与えられた仕事なのであるのだから、所轄署の捜査課で役に立たないがあまりにネコジシ商会へと追いやられたということを頭の片隅を過ぎりながらも、仕事をしているということになり得るのであるから。
一言で〝暇〟というのは筋違いなのかもしれない。
しかしどんなに言い訳のように言葉を飾ろうとも――飾るまでもなく――、はたから見れば〝暇〟でしかないのだが。
とはいえ、いつもの三人であることに変わらないのだが、今回は少しいつもと違っていた。
〝違っていた〟というと、やや語弊があるのかもしれない。
〝暇〟という概念は常に付きまとっているので、〝変わらない〟と済ませても問題はないのかもしれない。
では、何が〝違っていた〟と思わせるのだろうかになる。
和葉がラピスラズリのペンダントを用意して、美加を待っていたのだ。
美加がネコジシ商会に〝黒猫〟に関する何かを持っていくことは多々あることだったが、和葉が美加に何かを用意していたことなど今までなかった。
あえて何かを用意していたというのなら、いつもの嫌味ぐらいのものだ。
それで、和葉の用意したペンダントというものは――百合の花をモチーフとした白金の台座に、直径三センチほどのラピスラズリがついたもの。
そして、美加はそれを見て、ラピスラズリの放つ瑠璃色の光にうっとりと酔いしれていたのである。
未だラピスラズリの魔力に惹きつけられている美加の手から、和葉がペンダントを取り上げていく。
美加はまるでお気に入りのものを取り上げられた仔猫のような眼差しで、もう少し見ていたかったと言いたげに、和葉を見やる。
和葉は意地悪をして取り上げたわけではないようだ。
ペンダントのチェーンを外している。
「後ろを向いてくれませんか」
ということは、ペンダントをつけてくれるというのだろうか。
いつも嫌味しか言わない男から、ペンダントをつけてくれるなんて思いもしなかった。
むしろ、思えてしまうことなどあり得ないだろう。
〝何か裏がある〟と疑ってしまう。
勘繰ってしまう。
それでも、何でもかんでも疑ってかかっては駄目だ、と考えてしまうのは美加の持つ優しさなのか、単にお人好しなのか。
「どうしたんです? さ、早く」
美加の戸惑いなど全くわかっていないのだろう。
和葉が急かしてくる。
美加は驚きを落ち着かせることも隠すこともできないままに、和葉へと背中を向けた。
和葉の手が背後から正面へと伸びてきて、美加はその手の気配に息を呑んだ。
何か変なことをされるわけでもないだろうに、身が縮こまる感覚に鼓動が速まっていく。
チャラリというチェーンの音とともに、ペンダントがかけられた。
美加は髪をすくい上げ、ペンダントチェーンを髪の下へと送る。
首にかかる僅かな重さと冷たさ。
自分の首へ先程まで見蕩れていたペンダントが下げられていることに、何と言ったらいいのか言葉にならない感情が込み上げてくる。
息することすら忘れてしまいそうに、心も体も打ち震えてしまう。
「さ、こちらを向いてください」
和葉に言われるがまま、美加は和葉へと向き直った。
ただ、恥ずかしさのあまり俯き加減で、さらに顔が真っ赤になってしまっている。
これで「似合っている」なんて言われたら、どうなってしまうんだろうと心が弾んだ。
何を期待してしまっているんだろう、と自らを嗤うしかない。
でも、そんな甘い考え、次の言葉までの妄想でしかないというにも拘らず――
「では、実験を始めましょう」
美加の妄想を打ち払うべく、美加の見ている世界を現実へと引き戻させるべく、和葉が平手を叩きながら言った。
途端、美加の感情が停止した。
「はい?」と訊きたい顔のまま、表情が凍りついてさえした。
あの心が弾んだのは何だったのだろうか。
恥ずかしさは何だったのだろうか。
何を期待していたのだろうか。
凍った心が溶けることなく砕けていくのではないかと思ったほどだ。
くらくらとしてきた意識に自ら活を入れ、〝実験〟とは何なのかと問い質したくて、このペンダントは自分にくれたわけではないのかと再確認するために、和葉を見据えた。
わざわざ首にかけてくれてまでして、実験をするこの男の考えが全くわからない。
人をここまで期待させておいて、どうして裏切るようなことを平然とできるのだろうか。
だが、よくよく考えてみれば――
和葉から美加へと何かを贈ってくれたことなど、今まで一度もなかったと自分の記憶が証言している。
だから、こんなことになっても当然のことなのかもしれない。
何を期待していたんだか、と自らの理性が嗤っている。
浮かれ過ぎだったね、と自らの本能すらも呆れている始末。
和葉は魔具を扱う商人で、何よりも〝利益が大事だ〟と言う如何にも商人然とした男だ。
利益が生じない限り、美加へと何かを贈ることなんて全くもって考えられないことなのだ。
明らかにぬか喜びだった。
自分が馬鹿だった。
考えが甘過ぎたのだ。
和葉の今までのことを考えれば、すぐにもわかるようなことだったのだ。
勝手に舞い上がっていたことに意気消沈――むしろ轟沈――し、深くため息をついた。
「何ですか?
何か言いたそうですが」
「何でもありませんよ。
さ、早く実験とやらをしましょ」
訝しく和葉に、美加は恥ずかしさを心の中へと強引に押し詰めて――
むしろ、思い上がっていたことを隠したくて――
さらには、その気にさせた和葉に憤慨して――
口を尖らせつつ言った。
ヘカテはそんな二人のやり取りをして、美加の心情を理解したようで、口を押さえて笑いを堪えている。
まるで、こうなることを予測して、口出しをしてこなかったのだろう。
「何だか、先程のまでの態度と打って変わってしまっているので、釈然としませんが……。
ま、いいでしょう。
では、実験を行いたいと思います。
まず、そのペンダントについてですが、僕の妹が――あ、妹といっても母の再婚相手の連れ子でして、血のつながりがないということを先に述べておきますね。
そうでないと、大概が僕と似ているのかどうか、訊かれてしまうもので。
血がつながっていないので、僕とは似ても似つかりません。
で、その妹が僕に渡してきたものなのです。
どんな魔法なのか存じませんが、それをつければ〝幸せ〟になれるものらしいのです。
つければ、〝幸せ〟になれるなどと、僕には詐欺まがいの装飾品を売りつけてくる連中の言い回しにしか聞こえなかったもので、あなたに協力してもらおうと思いました」
和葉はそう言いながらいつもの席へと座った。
スチールデスクに両肘を突き、両手を組んで顎を乗せた。
「どうして、私なんですか?」
実験なら、美加でなくても十分な筈だ。
和葉自身がやったっていいし、魔具のエキスパートともいえるヘカテがやったっていい筈だ。
なのに、魔具から一番離れたところの存在である美加がやることに、どのような意味があるのか。
納得がいかないと睨んでしまう。
「簡単な理由です。
そのペンダントは、さすがに男である僕がつけても仕様がないように思えたのです。
どう見ても、女物ですからね。
ヘカテに頼んだところ、つける気が全くないと拒否されてしまいました。
ヘカテほどの魔術の心得がある者なら、多少の実験も難なくこなしてくれそうなものでしたが、頑なに拒否されてしまったので、仕方なく諦めました。
結果、消去法により、あなたの出番となりました。
――それとですが、妹が〝商会に来ている女の人に渡して〟と言っていたこともあります。
ここで女性とくれば、僕以外になってしまいます。
そして、妹はヘカテに対して〝女の人〟と呼んだりしませんから、あなたになるのでしょう。
妹はあなたのことがどんな人物か知りもしないのに、〝幸せになれるから〟と念を入れるように言ったのです。
正直、僕には妹の意図がさっぱりわかりません」
和葉はお手上げですと言わんばかりにため息をついた。
美加にとっては、ため息をつきたいのはこちらのほうだ、だろう。
今にも恨み節を吐き出したいほどだ。
「ところで、何か変化はありますか?
つければいいだけだと言っていたので、何かの術式を用いることはないようですが」
こちらの考えなど全くもって無視したまま、和葉が尋ねてきた。
だからといって、素直に答えられるものだろうか。
答えるにしても、やっぱり恨み節しか出てこなさそうだ。
イライラが募ってくる。
こんなことで〝幸せ〟なんかになれるわけがないと叫んでやりたい。
でも、和葉の言った内容を自分なりに整理していき、ゆっくりと和葉から顔を背けていく。
よく考えてみることにした。
ペンダントを貰って〝幸せ〟になるということは、どういうことなのだろうか。
和葉たちの扱っている〝魔具〟とは違う。
〝一般人〟としての〝魔法〟というものなのではなかろうか。
飽くまで、比喩として〝魔法〟という言葉を使っているとしたら。
「僕にはただのペンダントにしか見えないのです。
それも、妹は中学生なのですが、その中学生が容易に手に入れられるようなものにも見えません。
ですが、僕の母が以前似たようなものを身につけていたような記憶があります。
となれば、それなのかもしれませんね。
妹が母から譲り受け、それが今、あなたの首に下げられている。
元々僕の母が所有していたペンダントだとすれば、全くもって普通のペンダントということになります。
いやはや、ますます妹の考えがさっぱりわかりません。
本当に何の意図を持ってあんなことを言ってきたのか」
和葉は唸るような感じでため息をついている。
美加は先程から整理しつつある考えに、今の和葉の言葉を足して導き出せる答えに、鼓動が早まり、顔が真っ赤に染まっていく。
それはつまり、和葉の妹が、和葉が美加にプレゼントをして仲を深めていき、いずれ付き合わせようと画策しているのではないのか。
――美加は心の中で悲鳴を上げた。
やっぱりそうなのだ。
飽くまで〝幸せ〟というのは比喩に過ぎなかったのだ。
そういったことについて、和葉が鈍感なだけなのだ。
酷いまでに色恋沙汰には疎いだけのようだ。
顔が熱い。
体が熱い。
恥ずかしさのあまりに弾け跳んでしまいそうだ。
「こ、ここ、これは、お、お返ししたほうが、よ、宜しい、で、でしょうかぅ?」
美加はたどたどしい言葉を発しながら、ペンダントを外そうと首の後ろに手を回す。
それを見ているヘカテの笑いは、今にも爆発寸前。
決壊寸前のダムとでもいうべきか。
噴火直前の火山とでもいうべきか。
耐えに耐えて耐え切れなくなっている。
ヘカテもまた〝幸せ〟というものが何を示しているのかわかっていたようだ。
だからこそ、ペンダントをつけることを拒否したのだろう。
わかっていたからこそ、〝実験〟が始まってからも何も言わずに黙っていたのだろう。
魔具の専門家たるヘカテの行動を見ておくべきだった。
気にしておくべきだった。
〝実験〟が始まる前、それも美加が目にする前に、ヘカテは見ている筈なのだ。
だからこそ、身につけることを拒否したわけなのだ。
全てわかった上での、〝何もしない〟という行動だったことを気づくべきだったのだ。
「別に返してもらわなくてもいいですよ。
商品ではないので、僕がどうこうするつもりはありません。
それに、妹の意図がわからずとも、それを僕の手からあなたに渡すように言われているので、そのまま貰ってやってください。
本当に〝幸せ〟になれるのかわかりませんでしたが、それで妹も納得してくれるでしょうし」
美加の心情など、これっぽっちもわかっていないのだろう。
和葉はスチールデスクの上に置かれている黒猫のイラストが描かれたマグカップを手にすると、椅子を回して背を向けてしまった。
ここまでくると、美加はさすがに今すぐ「この鈍感男」と言ってやりたくなる。
でも、堪えた。
手のひらにペンダントトップを乗せて、眺めた。
瑠璃色の光が何よりも眩しい。
和葉の妹の言う〝幸せ〟というものがどういうものか、正直想像でしかない。
和葉と自分をくっつけようなんて腹積もりがないのかもしれないし、単に素っ気ない男がたまに労いの一つのつもりでプレゼントするように仕向けただけなのかもしれない。
いくらでも想像できるのだろうが、普段から素っ気ない反応しか見せない和葉から初めて何かを貰えたことに、どこか心が温かくなる気がした。
和葉の心が詰まっているかどうか定かでないし、むしろ、詰まっていないと考えるほうがとても自然なのかもしれないが、嬉しく思えた。
心が躍った。
ペンダントトップを優しく握り締め、胸の前に抱えて、小さい声ながらも「ありがと」と和葉の背へと告げた。
和葉は依然背を向けたままだが、「礼を言われるほどのことでもありません」といつもの素っ気ない口調で返してくる。
それでもよかった。
十分だった。
手のひらを開けて、ラピスラズリの瑠璃色を見て、僅かながらも幸せを感じ取った。
和葉の妹の言う〝幸せ〟は現に発動していたのだ。
ただ一人、和葉だけが〝幸せ〟を理解できない鈍感男だったという結果を残して。




