11.0と1の箱の中で猫は何を思うのか。
和葉は描き終えた魔法円の真ん中で、月光が東雲のF‐15Jに撃墜される様を見ていた。待っていたというべきかもしれない。故に、ただ眺めていた。
月光がいくつにも分解されていく。それが飛行機であったかと思えないほどに無残に散っていく。元が模型だったからなのか、それとも古い戦闘機故に簡単に散っていくだけなのか。
「よくやってくれました。これでこちらも仕事に取り掛かることができます」
和葉は目を閉じて、しゃがむ。右手を地面へと、魔法円へと添え――
「されさて、社長から教わったこの術式がどれほどのものか、見させてもらいますか。魔具を扱うネコジシ商会の社長が考案しただけあります。“世界を知らずして、魔具を扱うことはできない”。正に、この魔法、魔術には、世界の知識が込められているのでしょうね。生憎と、僕は使い方しか教わっていないので、どのような知識があるのか知る由もないところなのがいささか残念なところです。社長のような商人となるには、それ相応の知識が必要ということなのでしょうかね」
心の内で、「つながれ」と叫ぶ。体と地面が結びついていくような、体が地面へと溶け込んでいくかのような感覚がある。目を開ければ、飽くまで感覚的なことなので現実に起きているわけではない。
ゆっくりと息をつく。意識が魔法円へと流れていく――“異識”が魔法円から流れてくる。とても奇異で、気味が悪い。ゆらりゆらりと意図しない揺れは波に揺られる船の上。方角の定まらない風に穂が揺れているかのよう。
さらには全身の力が魔法円へと注がれていくような感覚が襲ってくる。脱力感が伴うので、気を抜けば意識を失ってしまうのではないかという危機感がある。
高々、チョークで描かれただけの魔法円が、まるで生き物ののように呼吸、いや、和葉を“食っている”かのようだ。それぞれの記号が、文字が、和葉を呑み込むのではないか、噛み砕くのではないのか、引き千切るのではないのか――和葉という“餌”を得て、これほどにまでない喜びを表しているのではないだろうか。和葉を“異識”で絡め捕って、意識と体力を貪り尽くしているかのようだった。そして、光と風という姿で生まれようとしている。
和葉は光と風に、さらに力を搾り取られていくような感覚に、実際搾り取られているだろう倦怠感に、奥歯を噛みしめる。このままでは全てを失いかなねないという恐怖に苛まれながら、必死に耐える。
ドクン――何かが脈動する。
それは何だったのだろうか。地面なのか、光なのか、風なのか、魔法円なのか、それとも和葉の脈だったのだろうか。そんな何の脈動か分からずとも、はっきりしていることがある、脈動に合わせて、脱力感が一層強まったように感じられた。さらに力を搾り取られているのかもしれない。
「それにしても、うまくいっているのでしょうかね。社長の言う通りにしている筈なのですが、成功するかどうか、先が見えません。ま、所詮、魔法は〈シュレディンガーの猫〉のようなもの。“成功”と“失敗”とが常に重なり合っているという不可思議な状態ですからね。“0”と“1”の狭間に見せるものなんて、僕には分からないことです。そもそも、量子力学のパラドクスに関する用語を使われたところで、なおのこと分かるわけがないです。魔法って、量子力学で語れるものなのでしょうかね。いやはや、そんなことはともかく、一つ分かることがあるとするならば、成功することを願うぐらいでしょうかね。それならば“魔法”だろうと“量子力学”だろうと知らずともできますし。
――さてさて、この疲労感と言いますか、脱力感と言いますか、命そのものを吸われているんじゃないかと思えて、冷や冷やとしてきます。〈オド〉、自分の“内なる力”とやらを吸っているだけで、一晩ゆっくりと休めば回復すると聞かされていても、今一納得がいきません。やはり、“その手のことを常に行っている人”の感覚ですからね。常人には計り知れないだけのことなのでしょうかね――」
和葉は魔法円から手を離して立ち上がる。膝が笑っている。立ち上がることすらも難しい年寄りになった気分だ。でなければ、今まで寝たきりで、これからリハビリを始めるような人にでもなったのだろうか。少なくとも、立つことをしばらくしていなかったのではないかと思えてしまうような足取りなので、もう少ししっかりしろと両太腿に平手打ちをする。
足腰が立つか立たないかはともかく、風が魔法円を囲うように渦を上げて唸っているために、迂闊に動けなかった。宵闇に風が紛れていなければ、つむじ風が舞っているように見えるのではないのだろうか。この宵闇の中でも、周囲の景色が霞むほどの何かに囲まれているということは見て取れるのである。もしこの風に触れでもすれば、痛いじゃ済まされないのではないかのか、そんな恐怖がある。だから、ひんやりとした汗が頬を伝わっていく。足元がふらついて、風にでも触れてしまったらと考えて、より怖くなってしまう。
風は和葉の気持ちなど一切知る由もないのだろう。何食わぬ顔で空へと上がっていった。それはまるで“透明な魔獣”のようにも見えた。風の唸る音が魔獣の咆哮にも聞こえた。
和葉は魔獣のような風を見て、「まるで“竜”ですね」と呟く。そして、幻想の生き物を想像するなんて現実主義の商人らしからぬと言ったところですか、と自らを嗤う。
「商人たる者、現実に目を向け、現実のみを受け入れる。幻想に浸っている暇などないんですがね」
空を仰いだ。
唸りを上げていた風が勢いを失っていく。音も次第に弱まり、和葉の周りを渦巻いていた風は何事もなかったかのように消えてしまった。
目を閉じ、ゆっくりと頭を下げる。ただでさえ疲労感があるのに、その上から疲れがどっと追加された気分だ。
目を開ければ、路面に描かれていた筈の魔法円は綺麗さっぱり消えてしまっていた。代わりというか、プラスチックの破片が散らばっている。
その一つを摘まみ上げて見据えれば、元が飛行機だったのだろう、主翼の一部のようだ。
「件の飛行機模型だったと見るべきですかね。魔法円は役目を終えてしまったようですし。これがあるということは――〈鎮魂〉は成功した、と見ていいのでしょうかね」
疲れた、と大きくゆっくりと空へと向けて息をついた。
◇
上空では、月光が光の塵となり、幻想的な光景を残して消えていった。キラキラと光り輝く雪が降っているかのよう。
その光景は、本当にただの飛行機でなく、魔具として存在していたのだと納得させられるものだったのかもしれない。それだけに、現実離れしているように見えた。どこまでもどこまでも幻想的な光景となり得ていた。
美加はそれを見上げて、感嘆の息を漏らした。こんな時に思うようなことじゃないと分かっていながらも、不謹慎なのだと分かっていながらも、消え行く光の塵がとても綺麗だと思えた。
でも、そんな感想が出るということは、事件が終わりを迎え、心に余裕が出てきたからこそのものだと考えられる。だから、綺麗だと思っていても悪くないのかもしれない、と自分自身に言い聞かせた。
光が消えていつもの夜の空へと戻ったところで、視線を下げて歩き出す。今ならば和葉のもとへと行っても、邪魔者扱いを受けることがないと思ってのこと。そして、「お疲れ様」と労いの言葉の一つでもかけてやろうと。
事件が終われば、また街は静けさで包まれていた。人がいないとこんなにも寂しげなものなのか、とこれで何度目だろうか心の内に呟いた。
――人影。
誰もいない筈の通りに人影があったように見えたのだ。それも歩む先に、である。人影は路地を曲がって姿が見えなくなってしまったが、間違いなく人の姿だっただろうと確信できる。あれが犬猫の類だとは到底思えないし、人並みの大きさなどあり得ないだろう。
この辺り一帯は、警察によって封鎖されている筈だ。ともなれば、美加のように見回っている警察官だろうか。
しかし、和葉の周辺に配備されている警察官は美加のみである。一応協力者としての立場だから、魔具を知る一端であるから、そばに置いてもらっている。
美加以外の警察官は、信に置けないというわけでもないのだが、魔具に関わらない者として美加よりも離れたところを見回るように配備されている筈である。
ならば、こんなところに人影など見るのであろうか。
和葉の〈鎮魂〉が終わったとしても、封鎖がすぐさま解除された旨の連絡を受けていない。封鎖が解除される時は、警察官全員に一報が届く手筈になっている。そういう規律を破ってまで、勝手な行動を取れるような人材をここには置かれていない筈でもある。
誰なのだろうか。この辺りを歩いていいような人影でないという思いがある。確証は何一つないのだが、勘がそう言わせている。
足早で人影を追った。急げばまだ見逃さないで済むだろう。
この辺りで曲がった筈だと角を曲がり――
通りの真ん中に“白い幽霊”が立っているのを見つけた。
目の錯覚だろうか。いや、間違いなくいる。正確には、幽霊でなく、人である。
真っ白な外套を頭からすっぽりと被っている。その色があたかも光を放っているかのように暗い通りの中で映えているため、“白い幽霊”がいるように錯覚したに過ぎないようだ。それも、安っぽいお化け屋敷にでもいそうな、白いシーツを被った幽霊という安易な物を想像させる。
美加が声をかけるよりも先に、“白い幽霊”が振り向いて見やってくる。フードの中に見える顔は、この暗がりでも分かる。白い肌と僅かに見える金髪、碧玉でも埋め込まれているのかと思うような煌めく碧眼。男なのか女なのか判断の難しい中性的な顔立ち、そしてとても冷たい表情と視線がある。
美しくも怖い相手を前に、美加の足は止まった。声も出ず、何もできない。何か“見てはいけないもの”を見てしまったような恐怖に足が竦んでしまう。
本物の幽霊を目の当たりにしてしまったというのならまだしも、何てことのない幽霊モドキというのに、何を恐れるのか。恐れる必要なんてない筈だ。不審者なら、警察官として職務質問をすればいいだけの筈。なのに、動けないでいた。
「こんなところに人、か……」
“白い幽霊”が口を開く。声からして、男のようである。表情と同じく、それに冷たいものが感じられる。
「“あれ”の関係者か? ――いや、違うな。なら、見られたからには――」
“白い幽霊”の目が光ったかのように見えた。直後、速い跳躍で美加へと迫ってくる。
美加は危機感を感じ取って後退を試みるのだが、咄嗟だったこともあり、さらに恐怖で足が竦んでいたことも重なり、足がもつれて尻餅をついてしまった。その間に、美加の左頬を何かが掠めていく感触があった。
「ほぅ、今のを躱したか。いや、運よく躱せただけか」
その声に美加が顔を上げれば、“白い幽霊”が冷たい視線で見下ろしてくる。その手には、その身と同じくしろい刀身の刀が握られている、金属特有の光沢がない。セラミックの刀だろうか。
“白い幽霊”が躱したと言うからには、その手に持つ刀で斬りかかってきたということになるだろう。ともなれば、左頬を掠めたのはその刀ということになる。
美加は左頬に手を当てた。指先に何か液体のつく感触があった。さらに、僅かであるが左頬に痛みが走る。
「さて、次はどうする? そのままだと、逃げられないぞ?」
“白い幽霊”がゆっくりと刀を振りかざす。
美加は逃げようとするものの、思いと体は別で体がついてこない。全身が全く言うことを聞いてくれない。体が委縮してしまっている。自分の体じゃないように感じられる。できることといえば、“白い幽霊”を見上げるだけ。
“白い幽霊”が何のためらいもなく刀を振り下ろしてくる。だが、美加へと刀が到達する前に、“白い幽霊”は宙を舞っていた。身を翻しながら後ろへと跳んでいた。その拍子にフードが捲れて顔があらわとなる。長い金髪が大きく靡いている。
斬られるとばかり思っていた美加は、唖然とするばかり。斬られなかったことの安堵よりも、何が起きて“白い幽霊”が下がったのかが気になった。
「“音なき攻撃”とは、な」
“白い幽霊”は、虚空を見やる。実際に何かを見ているようだが、美加には見当がつかなかった。後ろを振り向いても、何かがあるように見えなかった。真っ暗な街が広がっているだけ。
“白い幽霊”へと視線を戻せば、二度三度と跳躍を繰り返して下がっていくところだ。何が起きているのか、何があるのか、まだ分からない。何かが起きたからこそ、何かがあるからこそであることは、“白い幽霊”を見て分かる程度。
そんな美加の背後に何かの気配が生まれる。先程まで誰もいなかった筈。一体何があるのかと再び振り返る。
ヘカテがVSSヴィントレスを構えて、美加の後ろに立っているのである。
ヘカテはどこかのビルへと入って言った筈だ。なのに、どうしてここにいるのだろうか。〈鎮魂〉が終わったので、美加を見つけて近寄って来たのだろうか。
そんな予測は立てられるが、実際のところは分からない。ただ、いつの間にか背後にいたということだけが分かることだ。
「何で、ここに〈異端狩り〉がいるのさ」
ヘカテはVSSヴィントレスを美加のわきへと置くと、腰のベルトに携えてあるホルスターからサプレッサー付きのグロック18Cを両手に持ち、“白い幽霊”へと駆けていく。
ヘカテがトリガーを引けば、減音された発射音を連続的に響かせ、二挺から次々と発射されていく。“白い幽霊”はヘカテから距離を取るように、また、射線上から逃れるように跳躍を繰り返して建物の陰へと身を隠した。
ヘカテは足を止め、グロック18Cの弾数がなくなると、マガジンを抜き落す。グロック18Cを腰へと宛がえば、ベルトに装着してある予備マガジンがグロック18Cへと差し込まれる。
ヘカテが一旦撃つのをやめていることを見て、建物の陰から“白い幽霊”の手だけが出てくる。その手には金色の球体がある。街灯の光を浴びて、鈍く光っている。
「今回の事件、全て“これ”が起こした物だと言ったら、どうする?」
手だけで姿を見せないまま、“白い幽霊”は言った。
「この〈黄金の林檎〉を追ってここへと来た。そして、そこの女がここへと現れた。〈黄金の林檎〉と関係があるのかどうか疑いつつ、俺の姿を見たから“消そう”と思っただけのことだ。
――〈魔女〉、お前が庇うのなら、その女は〈黄金の林檎〉と関係がないと見ていいのだろうな。姿を見たことに関しては、“俺が仕留め損なった”、ということにしておくか。だから今回は見逃すとしよう。〈魔女〉とやりあって、不要な損害を出すわけにもいかないからな」
“白い幽霊”の手から球体、〈黄金の林檎〉が零れ落ちる。音もなく地面へと落ちると、ガラスが粉砕したように、塵となって消えていく。それは月光が消えていった時のように、キラキラと光を放ちながら。
「この〈黄金の林檎〉は役目を果たし、力を失っている。だから、この通り“抜け殻”だ。俺はここまで来ておいて、空振りに終わってしまったということだ。お前たちは、今回の事件を解決したということになるのだろうがな。
見ていたよ。“若きネコジシの遣い”だったが、素養はあるようだな。あの飛行機を無力化するのだから」
“白い幽霊”の手が引っ込む。そのまま静かになれば――呼吸の間を置いたかどうかのところで、ヘカテがグロック18Cを下した。
「何だかんだ勝手なこと言って、逃げていったわね」
ため息をつき、美加へと振り返ってくる。
「大丈夫、ミカ? もう何が何だかって顔をしてるわね」
ヘカテは小さく笑んで、グロック18Cをホルスターへと戻し、その手を差し伸べてくる。
ヘカテの様子に、美加はきょとんとしたまま、今までのことが夢でも見ていたかのように思えた。そして、口からそのことを表すかのように出したのだ。
「終わったの?」
――と。




