8.二匹の仔猫が見据えた先で起きたこととは。
コーヒーをすする音だけが支配する中、事務所のドアを開く音が響いた。情報はあれども、それでどのような魔具なのか未だ知れないまま。事件の真相を確かめようにも、まだどう動いてよいのか方向性を見いだせないままが続いたから、何もできないままでもある。ゆえにというべきか、その音は眠気眼を開かせるための目覚まし時計のように感じられた。
美加、和葉、ヘカテの三人が各々のタイミングでドアへと視線を送れば、東雲がやって来たところだ。尤も、ネコジシ商会へとやって来る客というのはほとんど見たことがない。時折、怪しげな人が何か怪しげな物を定期的に買いに来るぐらいだろうか。なので、東雲が現れるのは当然のようにも思えた。
東雲は子供に会いに行くと言っていたので、用事を済ませてきたということになろうか。どのような話をしてきたのか、今すぐにも東雲に尋ねたいところだ――が、どういうわけか、ドアの前には東雲だけでなく、東雲の後ろに半身を隠している子供の姿がある。
「おはようございます。遅れて申し訳ありません」
東雲が頭を下げてくるも、三人の関心はすでに東雲の言葉よりも連れている子供へと向かっていってしまっている。そんな視線が怖いらしい。子供は三人の視線に怯えて、東雲の後ろへと完全に身を隠してしまった。見知らぬ相手にまじまじと見られてしまえば、子供でなくとも竦むことだろう。
「どうしましたか? 大丈夫ですよ。この人たちは怖い人ではありません。ほら、そこのお姉さんは昨日会った方なのを覚えているでしょ?」
東雲は子供の背へと手を伸ばし、前へと出るように促している。子供は東雲よりも前に出ることはなかったが、渋々とした様子で東雲の横に並んだ。それでもまだ怖がっていることは確かなようで、いつまた東雲の後ろに隠れてしまうのか分からない。
美加はその子供の顔を見て、確かに昨日の二人の内の一人であることを思い出した。怯えられたことをもまた思い出すことになり、ズキンと胸が痛む。どうしてそこまで怯えられてしまうのだろうか。自暴自棄に陥ってしまいそうになる。けれど――
「こんにちは」
美加は「昨日、会ったのを覚えているよね?」と子供の前まで近寄り、しゃがんで笑顔を向けた。今度こそは逃げられないようにしなければならない。まだ和葉による“言葉の槍”でズタズタになった心の傷は塞がっていないが、自分なりの一生懸命な笑顔を向けているつもりだ。それがちゃんと笑顔という形になっているのか心配になってくる。
子供はというと、美加を見やってくるものの、すぐに顔を背けてしまった。どこかオドオドとした様子は変わらない。視点が定まらず、美加だけでなく和葉とヘカテも見やっているようだが、同様にすぐに背けてしまう。見知らぬ相手を目の前にしているから警戒してしまっているのだろう。しかし、美加は見知らぬ顔というわけではない。いや、一度会っただけではまだまだ見知らぬという範囲だろうか。それとも、見知らぬとは違う別の理由があるのだろうか。
不明機と関係があると思わしき子供がネコジシ商会へと現れたという驚きの視線に、威圧感を感じてしまっているのかもしれない。物怖じをしない性格であれば、大人が何人も前にして見られようとも動じることはないのだろうが、昨日のことから警戒するような性格であることは間違いないのだから、当然の反応と言えるか。
尤も、初見だろうと好奇の視線だろうと、警戒心があっての反応であることには違いない。
「無駄に大きな女が迫るものですからね、怯えているのではないのですか?」
子供の心境なんてまるで分っていないのか、単に嫌味を言える口実を得ただけのことなのか。その性格からでは何とも言えない和葉が、子供の様子を見てほくそ笑みながら美加の背中へと投げかけてくる。
和葉が何を思っているかなど分からなくてもいいし分かりたくもない。美加は再び貫かんとする“言葉の槍”に対して、表情を凍らせてしまう。それが子供をさらに怖がらせてしまっているようで、子供のオドオド感が増したようにも見えた。決定的に怖がられてしまったといっても過言ではない。
そこへ、トドめとばかりに和葉が「ほら、言ったとおりですね」と言葉を連ねて、小さく笑んでいる。どこまでも嫌味な性格である。
そんな光景を見ていて厭いてきたのだろうか、それとも見ていられなくなっただけのことなのかもしれない。ヘカテが子供のそばへとやって来ると、その手を引いてスチールデスクの前へと連れていく。
ヘカテが周りの大人たちと違って少女のなりだからなのかもしれない。子供は特に恐れる様子もなく、ヘカテにされるがままである。見た目の年が違い分、子供はヘカテに対して警戒心を持ちにくいのだろう。
そういったことから、最初の警戒心はやはり好奇の視線を向けられたからの反応だったと見ることができる。
ヘカテは次に部屋の隅に置かれている来客用の椅子を手にして戻り、子供に勧めた。続いて、一旦自分の部屋へと入っていくのだが、すぐさま缶ジュースとスナック菓子を手にして戻ってきた。それを、子供の前、スチールデスクへと並べた。
子供はヘカテにはにかむように「ありがと」と言い、椅子へと座る。
これで場が落ち着いたと見たのだろう。
「えぇ、とですね。何と言いましょうか。僕を怖がるのは勝手ですが、取って食うわけでもないので、そこまで警戒しなくてもいいと最初に言っておきます。ただ、僕はいくつか訊きたいことがありまして、もし答えられるものがあれば答えてくれればありがたいとだけ言っておきます」
和葉が言葉をかけるのだが、子供は一切答えようとせず、視線すら合わせようともしない。尤も、和葉の言い方では子供にはどうしても堅苦しいというか重々しいというか、とっつきにくい口調にあるのだから、素直に答えにくいというところがある。
「大丈夫だから、ね」
美加が子供の両肩へと手を乗せて、答えを促そうとするものの、これまた通用しない。むしろ、子供は震えだしてしまうのだから、困る一方で去る。完全に嫌われたと思うしかない。
「さて、困ったものです。ここへと来たというのだから、僕に話す何かがあると思ったのですが……違ったのでしょうかね?」
和葉は子供から東雲へと視線を移すと、東雲は子供の横へと並ぶだけで何も答えない。急かさずゆっくりと答えを待て、東雲が態度で語っているようにも見える。
焦れったいわけでもないのだろうが、子供が何も答えてくれないことを見かねたというべきか、ヘカテが用意した缶ジュースを手にすると、プルタブを引いて子供へと預けた。前に出された物に一切手を出さないぐらいに、この子供が警戒だけでなく緊張していることも見て取れる。ゆえに、ヘカテなりの思いやりで行動に移ったようだ。
「話してくれる? 何か起きたんでしょ? だから、あの飛行機が現れたんでしょ?」
その流れのままに、笑みを浮かべながら子供へと話しかけた。
子供は手にした缶ジュースを落としそうなまでに手を震わせている。それは、この場での警戒や緊張だけではない別のこと。“飛行機”という言葉に、明らかに反応を示していた。
「大丈夫だよ。誰も、君を怒ったりしないんだから、ね?」
ヘカテがさらにそう諭せば、子供は小さく頷き、缶ジュースをスチールデスクへと置いて和葉へと見やる。そして語るのだ。
自分の見てきたこと。
自分の目の前で起きてきたこと。
何も分からなかったこと。
何が起きたのか分からなかったこと。
知り得る限りを語ることにしたようだ。
見てきたことを語ることにしたようだ。
それを聞きたいと言うから。
それを話せと言うから。
とてもつたなかったかもしれない。小さな子供が語るのだから、詳細に語ったとしてもたどたどしい語り口だったことは違いない。でも、できる限りを言葉にした。
◇
学校から帰ってきて、どこかへと行くというわけでもなく、二人は遊んでいた。
いつも二人で行動しているために、まるで兄弟のようなものだと周りから持て囃され、時折周囲の大人たちから“やんちゃな二匹の仔猫が戯れている”と揶揄されることもある。
二人の内の一人が東雲とともにネコジシ商会へとやって来た子供であり、飛行機の模型を手にして駆けている。街の中を縦横無尽にと言わんばかりにだ。飛行機が飛んでいる様子をこの子供なりに再現しているのだろう。
模型は双発機で、塗装まで施されている。完成模型なのか、それとも誰かが根気を詰めて組んだものなのか、見る人が見ればよくできた代物というだろう。
深い緑を基調に、赤い丸が胴体部と主翼に描かれている。夜間戦闘機「月光」。前型の二式陸上偵察機との相違を示すように、機首にはアンテナ、コックピットの後部には斜銃がしっかりと備えられている。
子供は家に飾ってあったものを勝手に持ち出し、“飛行機ごっこ”として街中を駆け巡って遊んでいた。持ち出して怒られることなど考えてもいないのだろう。それとも、親が気づく前に元に戻しておけばいいと考えているのかもしれない。
その月光の後方、もう一機の戦闘機が迫撃をかけている――もう一人も模型を手にして追いかけている。グレイを基調に、機首にシャークフェイスのペイントが施された近接航空支援機A‐10サンダーボルト2。こちらはちょっと手作り感が滲み出ているというべきか、まだまだ飛行機模型に関して慣れていない人が作ったと言わんばかりだ。
二人はドッグファイトを模して遊んでいたのだ。どこまでも駆け巡っていき、発射音やらジェット音やらを言葉で発している。攻撃や回避、被弾に関しては考えていないのだろう。当たった、当たらなかったということに関してさえどちらも言及をしない。
ただ、どちらの持つ飛行機も時代や攻撃用途が異なるものなのだが、その辺りについてお構いなしのようだ。飛行機同士で空戦をやっているように見えれば、それだけで楽しいのかもしれない。
どれほどの間、駆け巡っていたのだろうか。お互いの決着がつかないまま、元より決着をつけるという概念そのものがあるのか不明でもあるが、日が暮れていた。西の空には赫々とした夕日が今にも沈みそうなまでに下がっており、東の空が薄っすらと紫に変わっていき、街も並行して暗くなっていく。
夕日が沈めば自分の出番だと言わんばかりに、東から月が顔を出してきて「これから夜を迎えるぞ」と人々に言っているかのようだ。
「そろそろ帰ろうよ」
どちらが先に言っただろうか。いや、二人揃っていったのかもしれない。
辺りの暗さに二人とも足を止めていた。飛行機も、最早手が下ろされたことによって“飛ぶ”を模されておらず、単なる模型へと戻っていた。
今日の対決はこれでおしまい、と二人は並ぶ。夜にならないうちに家へと帰ろうというのである。
ここまでは至って普通。いつも通りの二人の光景。そう、ここまでは――。
辺りが暗くなっていて足元がよく見えていなかったのだろう。何かに蹴躓いて、月光を手にしていた方の子供が転んでしまったのだ。
注意が散漫していたと言えばそれまでだろう。子供だからこそ注意力が足らなかっただけのこと。“家に帰る”ということのみが頭の中を支配していたゆえのことだ。
「イテテ」
すぐさま起き上がることができたので、大した怪我をしていない。ちょっと膝を擦りむいたぐらいだ。
ただ、手にしていた筈の月光がなかった。両手を見るものの、無論ない。転んだ拍子にどこかへと飛んでいってしまったらしい。
どこへと行ったのだろうか、辺りを見渡す。もう一人も倣って見渡す。暗いためによく見えないので、うまく捜すことができない。また、まだ年端も行かない子供だからということもあろうか、自分の足元ばかりに目が行ってしまっていて、離れたところまで目が行っていなかった。いや、見たとしても足元以上に辺りは暗くなっているために、見渡しただけでは早々分からないだろう。
「ねぇ、あれじゃないの?」
「え? どこ?」
それでも何かを見つけることができた。二人の先、転んだ先に、僅かに何かの光を反射している物がある。光はネオンやLEDなどの街の明かりなのだろう、反射する光が様々な色を見せているのだ。
目を凝らして見てみれば、それは間違いなく転んだ際に手放してしまった月光である。胴体着陸をしてしまったが、形を維持しているので無事に着陸したということになる。
見つかったことに二人は安堵の息を漏らした。勝手に飛んでいかないでくれよ、なんて言葉に出てきそうなほどだ。
だが、その安堵も束の間だった。
転んだ拍子に月光は車道にまで転がっていってしまったのだ。それが災いとなり、二人の前の前で車が月光を踏みつぶしていった。それも、無残にも安っぽいプラスチックの割れる音を立てて。
二人からは失望の声が漏れた。いや、その声は悲鳴だったのかもしれない。声すらならなかったのかもしれない。とにかく、唖然とした息だけが漏れた。
車が何事もなかったかのように去っていった後、無残なことになってしまった月光へと二人は駆け寄る。間近で見れば、それは最早月光としての姿はなく、そこにあるのは何になるのだろうか、プラスチックの塊とでもいうのか、そもそもが疑問符を浮かべかねない代物だった。
二人は何もできず、ただただ成れの果てを見下ろし、嗚咽を漏らすことしかできない。
どれだけ二人はそこで放心していただろうか。陽は沈み切ってしまい、辺りは“薄暗い”から“真っ暗”となっていた。夕刻時を過ぎて、完全に夜と言える時間帯である。煌々とした満月が、街を、人々を、そして子供たちを何食わぬ顔で見下ろしている。
そこへ、二人は予想だにしないことが起きたのである。
月光の成れの果てが光をまといだす。二人が何かをしたわけではない。月光の成れの果てが勝手に光りだしたのである。
そして、宙へと浮き上がった――。
何の原理で、何をもって、何をなして、二人には何も分からない。理解できなかった。いや、二人でなくとも、目の前で起きたことを説明できる人などいないだろう。“目の前で起きている”こと以外に、言葉を表すことができなかった。
それはゆっくりと上がっていき、二人の目の前の高さにまでなってもなお上がっていき、さらには空へと目指して舞い上がっていくのである。
二人は唖然とした表情で見送る。見送ることしかできず、視線を落とすと互いに視線を送った。
どちらも何を訊いていいのか、何を答えていいのか、何も分からない。ただ頷くことしかできなかった。声すらも出てこなかったのだ。
直後に周囲から声が上がった。二人が声に驚いて見渡せば、周りの誰もが空を見上げている。
これも二人には何が起きたのか分からなかった。なのに、どんどん声が何倍にも幾重にもなっていき、気になった二人は周りに倣って空へと見上げる。
月の光を浴びているのだろうか。それとも、他の光を浴びているのだろうか。何かが光っているように見えた。キラキラと星の煌めくような光の集合体。その光の集合の中心には何かしらの影。
それは、二人の見覚えのあるものが浮かんでいた。いや、飛んでいたのだ。
月光。
二人の前で無残な姿となった筈の物が、元の姿を取り戻している。さらには、模型の時よりも遥かに大きく、原寸大なって飛んでいる。
たまたま模型と同じ飛行機が飛んでいるのかもしれないと二人は考えるのだが、周りの反応を見ると違うと言わざるを得ない。
突然現れたようだった。どこから飛んできたわけでもなく、あの月の下の出現したようだった。だからなのか、周りから「UFOだ」とか「あれは何だ」とか声が上がっている。「また馬鹿が人の迷惑を考えず、法を無視して無人機でも飛ばしてるんじゃないか」なんて厭いた声さえある。
「あれって……?」
「そうだよねぇ……」
二人は互いを見た。今しがた壊れた筈の月光が空へと舞い上がり、空を飛んでいると信じがたくとも、月光なのだと確信してしまった。確信せざるを得なかったのかもしれない。
否定の言葉を何度もぶつけても、結果的に月光だった物が空を飛んでいるということには揺るがなかった。
◇
「なるほど、そういうことでしたか」
和葉は子供の話を一通り聞いた後、うんうんと頷いた。理解したような理解しきっていないような、はたから見ているとあやふやな表情を浮かべている。魔具を扱う商人であるのだから、理解したのだろうとは思いたいところである。
話を終えた子供は、依然オドオドとした様子で三人を見渡す。事件の始まりが自分なのではないかということで、三人に怒られてしまうのではないのかと怯えているらしい。尤もな反応だし、だからこそいつまでも警戒し続けていたのだろう。
そこへ、美加は怒る必要などないと言うようにして、よく話してくれたねと子供の頭を優しく撫でてやる。子供は美加を怯えた目で見返してくるも、笑みを向けてやると、怯えていたことが恥ずかしいのか顔を赤らめて俯いてしまった。
「模型そのものが魔具だったと考えるべきでしょうかね。それとも、他に何か原因があって模型を飛行機として空へと上げたと考えるべきでしょうかね。まだ、その辺りがはっきりとしませんが、事の次第が分かりました。これは、大きな進歩でしょうかね」
和葉もまた怒る様子を見せることがない。事を知ることができて有意義だと言わんばかりである。そしてそのままコーヒーをすすり、考えをまとめようというのかあれこれと思慮を巡らせているようだ。
子供の意思で月光を空へと上げて悪いことのために飛ばしたというのならまだしも、子供は飽くまできっかけの一因でしかなく、また、その手にしていた模型も同様であり、加害者として見る必要がない。むしろ、被害者という見方もできる。だから子供に対して怒る必要性などない。それゆえに、それぞれが子供の話を聞いて、それぞれに行動している。
東雲は何も言わず、子供が語っているのを黙ってい訊いていたこともまた同じなのだろう。
「ほら、誰も怒ったりしなかったでしょ?」
ヘカテが子供へと笑みを見せていると、子供は「うん」と元気良く頷いた。
どうして子供はヘカテだけにオドオドとした行動を見せず、言うことを素直に聞いているのか。子供の視線からしてヘカテと“見た目の年齢差”がないからなのだろう。年齢差がなければ、威圧感なども感じない。最初こそ警戒したのは、この子供に人見知りの部分があったからなのだろう。その上で好奇の目に晒されて警戒心が増したということになるか。
もし年齢差以外に言うことを聞く要因を挙げるのだとするならば、子供が惚れっぽいタチなのかもしれない。美加と東雲の大人の女性らしさよりも、ヘカテの可愛い少女らしさの方が、年齢的に好むということなのだろう。
だからこそ、今となってはヘカテへと向ける対応がまるっきり違う。
「さて、何の対策もできないままですが、こちらも行動をしましょうかね。情報を集めようにも、今の話以上のものをこれから入手するのはとても困難なのではないかと思いますし。
――あ、そちらのお子さんには、お帰りいただいても構いません。ここにいつまでいても構いませんが、僕たちは到底構う暇などありませんからね。それに、今日は平日ですし、学校があるでしょうから、ここで過ごしているわけにもいかないでしょうから」
和葉はマグカップを置くと、立ち上がった。それぞれが和葉へと視線を向ける。何を言うのか、待つのである。
「これから、〈鎮魂〉の準備を始めたいと思います」
「始める?」
きょとんとした表情で美加は尋ねる。また何か分からないことを和葉が言った。いや、自分だけが分からないことなのか。悩ましくなる。
そんな美加へと和葉は視線を合わせてくると、一つ間を置く。
「ええ、そうなのです、が――あなたは必要があるのかどうか定かではないので……。そうですね、その子を送り届けてください。さすがに、ここからその子を独りで帰すわけにもいきませんからね。それがあなたの仕事です。よかったですね。ちゃんと手伝えることがありましたよ」
「ええっ?」
「何を素っ頓狂な声を上げているのですか。これも大事な仕事です。警察官であるのですから、ここの誰よりもその子を送り届けることに適した人はいないと思いますがね」
和葉はきっぱりと言う。言われた通りのことではある。下手に見知らぬ大人送り届けることよりも、警察官が子供を送り届けることが尤もなことだ。しかし、和葉がどこかにやけた顔で言うのだから、嫌味混じりで言っているに違いない。
美加は気のない返事で立ち上がる。もっと仕事らしい仕事を任せてくれればいいものを、と言いたげに和葉を見る。
しかし、ネコジシ商会の手伝いをすることが美加の仕事である。そのためにネコジシ商会へと訪れている。大義名分だ。どんなことであれ和葉に仕事を任されれば、無下にもできない。それに和葉の言っていることだって理解できていれば、従うまでだ。すぐさま反論したげな目をやめて、頷いた。
そして、子供へと「さ、行こう」と手を伸ばした。のだが、子供はヘカテに未練があるのか、まだ美加を恐れているのか、オドオドと挙動不審なままで手を伸ばしてくることがなかった。
美加が困惑に駆られていると、ヘカテが「また会おうね」と言った。すると、子供はゲンキンなもので、返事をして立ち上がるのである。美加へと手を伸ばしてくることはないようだが、美加の後ろに続こうということらしい。美加が先に歩くのを待っているようだ。
美加は「ここまで嫌われるようなことをしたかなぅ」と呟き、肩を落とすも、ゆっくりと歩きだして事務所を出た。




