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 ドアの周りには広く高い大理石の壁があって、紀代美の進むべき方向はやはり森の道にしかないのだった。紀代美は顔をしかめてこめかみをもんだ。それからしばらく真っ直ぐな道を眺めていたが、指輪を左手の適当な指にはめると、やがて歩き出した。指輪はぴったりだった。

 森に入ると、道には草がなくなった。代わりに固い大理石の地面が続いていた。よく見れば、細かくリアルに彫刻されてはいるものの、木と地面は一つの大理石から彫り出されているらしかった。紀代美は黒いタイツしかはいていない足で、ぺたぺたと歩いた。大理石の地面は滑らかで歩きやすかった。森は全くの無音で、殺風景だった。たまに葉が風になびく音がするばかりだ。音がないことは紀代美には心地よかった。色んなことを忘れられたし、考えずに済んだからだ。しかし、一時間ほども歩いていると、足が痛くなった。紀代美は休憩したくなった。靴も欲しかった。

 靴が欲しい、椅子に座りたい、と思いながら進んでいくと、開けた明るい場所が見えてきた。そこには空から明るい光が射し込み、清潔そうな一人がけのテーブルと、背もたれのある椅子が地面から生えていた。もちろん、大理石製だ。紀代美は歩き方を変えずにゆっくりとそこに近づいていった。テーブルにたどり着くと、少し驚いた。その上に紀代美のハンドバッグが置いてあるのだ。紀代美は急いで留め金を外した。驚いたことに、『不思議の国のアリス』の原書が置いてあった。原色で彩られたハードカバーで、小さい本だ。今日喪服に着替える時に、明日斎場で行われる祖母の葬式に持っていく気で入れたのだ。となると、これは確かに紀代美のハンドバッグだということになる。一体誰が持ってきたのだろう、と、紀代美は少し気味が悪くなった。

 だが、紀代美は冷静にハンドバッグを椅子に置いた。何故だか、不思議なことには驚かないだろう心持でいる。けれども、『不思議の国のアリス』を手に持って椅子に座った時、小さく悲鳴を上げた。何かを踏んだのだ。紀代美がそっとテーブルの下を覗くと、黒い革靴があった。紀代美はちょっと唇を閉じると、靴を履いた。ぴったり来る靴だった。何故なら、これも紀代美のものだからだ。

「欲しいものは揃ったわ」

 と、紀代美は呟いた。単調な森に退屈し始めていた紀代美には、『不思議の国のアリス』は恰好の暇つぶしになった。紀代美は洋書の中で、『不思議の国のアリス』が一番好きなのだ。紀代美は読み始めた。目を少し伏せて、頬杖をついて。しばらく本をめくる音ばかりがそこに漂った。静かだった。森は相変わらず、大理石の乳色がかった茶色と葉の緑だけが続いている。道はこの場所の向こうにもまだまだ続いていたが、紀代美はそれを無視した。

 最後まで読んで、紀代美は伸びをした。そして、独り言を言った。

「考えてみれば、おばあさまが亡くなっても、わたしちっとも悲しくない。死なせてしまったのはひどい後悔だけど、嫌いなのは変わらない。それはどうあっても変わりようがないわ」

 それから続いている道を見て、今度は大きな声で言った。

「こんなところに来て、わたしは何をすればいいんだろう。アリスは地下の国にやって来た時、大きくなったり小さくなったりしてるけど」

 けれども、返事は返ってこない。紀代美の声が森に吸い込まれていくだけだ。おかしいな、と紀代美は思った。さっきは望んだものがみんな出てきたのに。

 長い間ぼんやりしていた紀代美は、唐突に立ち上がった。それからバッグを手に持って、革靴をこつこつ鳴らして、歩き出した。再び道に入る。見上げながら歩いていると、青空が次第に緑色の葉陰に変わっていく。木漏れ日がまぶしい。一本道はまだまだ真っ直ぐ続いている。

「『アリス』みたいに、変な生き物もいそうにない。つまらないわ」

 独り言が増えてきた。本当に誰もいないようだと分かってくると、段々大胆になってくる。

「何かとんでもないことが起こるといいのに」

 革靴がこつこつ鳴る。その他に音はない。本当に退屈だった。引き返そうか。そう思った時だった。

「あ」

 水の流れる音が聞こえてきた。さらさらと川のせせらぐ音。それも大きな川だ。紀代美はほっとしたような気持ちで、音に向かって歩いていった。

 水の音は確かに聞こえる。しかしなかなか見えてこない。紀代美は苛立ち始めていた。まさか、この道の先には川など無いのだろうか? 自分は川に平行して歩いているのだろうか? 景色に変化が欲しい。とんでもないことが起こって欲しい。

 急に道の先が見えなくなった。下り坂のようだ。紀代美は顔をしかめながら歩いたが、すぐに目を輝かせた。音が大きくなる。そして見えてくる。川だ。

 幅十メートルほどの川が、静かに流れていた。透明で、底の大理石の模様が見えるくらいきれいな水だ。大理石は、本当に積もった川底の石のように彫ってある。一体誰がこんなことをするのだろう。

 川の向こうにはまた道の続きがあった。しかし、紀代美にはこの川を歩いて渡る気は無かった。訳もなく濡れるのは嫌いだった。それに、舟を見つけたからだ。

 小さな舟だった。紀代美は近づいてよく見た。意外なことに、ちゃんと木でできていた。これなら川に浮かびそうだ。そう思った途端、紀代美はびくりと体を跳ねさせた。

「誰?」

 そう言うと、森の茂みの中から男が出てきた。髪や服装を清潔に整えていて嫌な感じはしないのだが、表情が無い。ちらりと紀代美を見たその瞳は、真っ黒だった。

「初めて人に会ったわ」

 紀代美は男に話しかけた。あまりに退屈だったので、少し嬉しかったのだ。

「ここはどこ? うちの下にあるらしいのに、どうして空があるの? あなたは誰?」

 その全ての質問に、男は答えなかった。舟に乗り、木で出来た櫂を両手に握ると、紀代美をじっと見た。紀代美は、

「乗せてくれるの?」

 と尋ねた。しかし、男は黙って紀代美を見つめるだけだった。なので、紀代美は仕方なくものを言うのを止めて舟に乗り込んだ。足元がふわふわする。男が手で岸を押すと、舟は完全に川に浮かんだ。男は舟を漕ぎ出した。

「ここって静かね。何でも大理石で出来ていて変だし。川の向こうには何かあるのかしら? 何か無いと困るんだけど。わたし暇なの。ここって最初は不思議だったけど、今じゃちっとも不思議じゃないわ。きれいな木が鬱蒼と繁ってるだけ。動物もいない。わたしがよく読む『不思議の国のアリス』ではね、動物がしゃべるのよ。訳の分からないことを言うの。面白いわ、しゃれが効いててナンセンスで。そうそう、わたしナンセンスなものが好きなの。絵画だと、シュルレアリズムが特に好き。タンギーの、訳の分からない部品が下のほうに沈殿してる絵、部屋に飾ってるの。もちろんポスターだけどね。でもきちんと額縁に入れてるの。額縁、すごく高かった。まあ、おばあさまがそうしろって言ったからだけど。ポスターを壁に直に貼るのは下品なんですって」

 と、そこで紀代美は久々に左手の桃色珊瑚の指輪を見た。そして驚いたように声を上げた。

「ねえ、見て。ここに彫られた横顔の女の子、おばあさまに似てるわ。若い頃の写真を見たことがあるの。それにそっくりだわ。どういうことかしら」

 男は全くの無視を貫いていた。紀代美はそれに不満を持って、しばらく黙った。そして、おかしなことに気づいた。たかだか十メートルほどの狭い川を渡るのに、時間がかかりすぎてはいないだろうか。川は深いが流れは穏やかだ。あっという間に着きそうなものだが。

「ねえ、どうして向こう岸に行かないの?」

 そう言った途端、男が櫂を片方離して紀代美のほうに手を差し出した。紀代美がぼんやりとその手を見ていると、その手は今度は紀代美の指輪を指差した。そしてもう一度てのひらを上に向ける。

「指輪をよこせって?」

 紀代美はいきり立って立ち上がった。すると舟がぐらぐらと落ち着かなくなったので、慌てて座った。それでもなお目を吊り上げて男をにらむ。男は相変わらず手を差し出している。

「指輪、あげないわ」

 そう言うと男は舟をUターンさせようとした。紀代美は男を止めた。

「待って。指輪を渡さないと向こう岸に行かせてくれないの?」

 男は無表情に頷く。紀代美は悩んだ。このおかしな要求は何だろう? どうしてこんなことが起こるのだろう。まさか、さっき、「とんでもないことが起こればいい」と言ったからだろうか? なら自分のせいだ。無責任な、自分のせいだ。

 どうせ戻っても帰れない。帰れないのと、進めるのと、どっちが大事だ? 紀代美は考えた。そうして、指輪を渡すことに決めた。大事な指輪だけれど、仕方が無い。自分の力では、何も失わずに進むことは出来ない。

 紀代美は指輪を抜いた。そして鞠子そっくりの少女の横顔を、まじまじと眺めた。これは彼女の宝物だった。きっと誰かからの贈り物だ。彼女が生きていたらきっと怒られるだろう。もしものことが起こって叱られたら、心の底から謝ろう。

「はい」

 紀代美は指輪を男のてのひらに置いた。男はそれをぎゅっと握ると、ポケットにねじ込んだ。それからまた向こう岸に向かって漕ぎ出した。紀代美は小さくなってうつむいていた。

「ありがとう。さよなら」

 手を振ると、男も手を上げて、川を漕いで行った。元の岸辺に戻るつもりは無いらしい。川の上流へと、彼は向かった。

 紀代美は意気消沈して、下を向きながら歩いていった。何てことだろう。何てことをしてしまったのだろう。紀代美は悲しくなって、泣きそうになった。彼女のものを人にあげてしまった。ひどくつまらない理由で。紀代美は涙を落とした。そして、誰かにこの涙を舐め取って欲しい、と思った。誰か? それは誰だろう。

 かさかさと、草を分ける音がした。紀代美はぎょっとして顔を上げた。今度は何が起こるのだろう。わたしは今何か望んだだろうか。

 出てきたのは、小鹿だった。長いまつ毛に囲まれた大きな目と、折れそうな細長い足と、ぶち模様を持っている。小鹿は親を見失ったという風情で、不安げに紀代美を見ていた。紀代美は珍しく優しい気分になり、小鹿を手招きした。

「こっちへおいで」

 すると、小鹿は怯えたように後ずさりをしたが、紀代美がしゃがみこんだのを見ると、嬉しそうに近寄ってきた。紀代美は小鹿を撫でた。柔らかな毛並みだった。

 動物を触るのは初めてだ、と紀代美は思った。思えば、子供のときから動物を飼うことに興味がなかった。他の家族はそうでもなかったが、鞠子が動物を毛嫌いしていたので、余計に触れる機会がなかった。こうやって触ると、暖かくて、柔らかい。そしてとても華奢だ。

 小鹿は紀代美の顔にその鼻先を近づけてきて、甘い匂いをさせると、紀代美の顔を舐めた。滑らかで小さな舌はとても心地よくて、紀代美は微笑んだ。

「よし、よし、ありがとう」

 紀代美は小鹿の首から背中を優しく撫でてやった。そして寂しい気持ちになった。「誰かに涙を舐め取って欲しい」という願いは叶えられた。小鹿は行ってしまうだろう。自分はどうしてこんなに安易に願い事をしてしまうのだろう。自分はそんなに満たされない人間だったか。そう考えながら、ようやく立ち上がった紀代美は、小鹿を振り返って、

「じゃあね」

 と言った。また歩き出した紀代美は、また落ち込んで、のろのろと歩いた。

 こつこつ、と大理石を叩く音が聞こえる。振り返ると、小鹿は紀代美の後を追いかけてきていた。紀代美は嬉しさに顔を輝かせながら、

「一緒に来てくれるの?」

 と聞いた。小鹿は急いで立ち止まった紀代美のそばに来て、紀代美の腹部に長い首を預けた。紀代美はまた微笑んだ。こんなに微笑むことは人生で滅多に無かった。どうしてわたしはこんなに落ち込んだり、優しくなれる人間になったのだろう。紀代美は不思議に思った。

「行こうか」

 紀代美は小鹿を連れて歩き出した。ただただ真っ直ぐで単調な道だけれど、この小鹿がいればちっとも退屈じゃない。紀代美はにこにこと、満足そうに歩いた。


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