2
さて、どうしよう。
紀代美は立ち止って唇を噛んでいた。小鹿は隣で辺りの匂いを嗅ぎまわっている。
目の前には背の高い生垣があった。それは道を塞いでいた。完全にだ。森に入って生垣を避けるには、それは広すぎた。生垣を避けるにも、大理石で出来た枝は紀代美の手に負えなかった。そして、生垣をくりぬいた部分にドアがある。真っ赤なペンキ塗りの、陽気なドア。真鍮のプレートには、「Start」と彫ってある。何のスタートだというのだろう。
「怪しい」
紀代美は一言、そうつぶやいた。小鹿が顔を上げて紀代美を見る。
「何だか分からないけど、不安だわ。このドアを見ただけで不安。この先何があるっていうのかしら」
ものを言えない小鹿は紀代美をじっと見たまま動かない。
「ケルベロスがいるとか、人食い鬼がいるとか、また階段があるとか。ここなら何が起こってもおかしくないわ。でも」
紀代美は地面を見つめた。それからドアノブを強く握って、ドアに目を向けた。
「でも行くしかないわね。行きましょ」
小鹿は戸惑ったようにその場をうろうろしたが、紀代美がドアを勢いよく開くと、紀代美にくっ付いた。紀代美は「あれ?」とつぶやいた。
生垣に挟まれた道が真っ直ぐ続き、途中でT字路になっている。そしてT字路の突き当たりにはまたドアがあるのだ。今度は白いドアだ。
「変なの」
紀代美は小鹿を連れて少し歩いた。T字路の突き当りから右の道に行ってみる。道が終わっているかと思えばまだ続いているので覗くと、道は右に折れ曲がっている。深入りせずに、今度は左側の道を行ってみる。道は左に折れ曲がり、今度は完全に道が終わっている。これは迷路だ、と紀代美は気づいた。
「困ったわ。わたし早くここを抜け出したいのに。迷路で迷って遊んでる場合じゃないのよ」
そうつぶやくと、小鹿が道を戻り始めた。紀代美は首をかしげてついて行く。小鹿はさっきの白いドアの前に立ち止まり、紀代美を見つめている。
「ここを開けろって? 確かに真っ直ぐ進めるけれど、でも……」
紀代美が苦い顔でそう言うと、小鹿はますます紀代美の目に見入った。その迫力に負けて、紀代美はドアノブを握った。
「このドアも嫌い。すごく不安」
それでも小鹿が紀代美を見つめ続けているので、紀代美はまたドアを開けた。途端に、ざわざわと押し付けがましい人の気配がして、人ごみの匂いがし始めた。紀代美は悲鳴を上げた。人が道にみっしりと収まって、更に動き続けているのだ。すぐさま紀代美と小鹿は流れに巻き込まれた。
「何よこれ。本当に嫌」
紀代美は太った男に後ろから押されて、更に大柄な女に横からぶつかられて、流れに流れた。紀代美は人ごみが好きではない。だからバーゲンセールなど行ったことが無いし、花火大会も一度で懲りた。なのになぜ、よりによって自分がこんな目に遭わなければならないのだろう、と紀代美は思った。くるくる回り、つまずき、紀代美は決まったスペースを移動し続けた。途中で、何か固いものにぶつかった。くらくらするのを我慢してそれを見ると、白いドアだった。少し赤みがある色だ。紀代美はこれを天の助けだと思い、思い切り押し開けた。
「嫌っ」
途端に悲鳴が出た。何か柔らかいものを踏みつけてしまった。ふわふわした、小さいもの。足元を見ずとも分かった。今度は人ではない、小さな生き物の群れ。黄色いひよこを踏んでしまった。ぴよぴよと、かしましく鳴きながらひよこはうごめいている。まさに足の踏み場も無い。紀代美はそのまま動けずにしばらく立ち尽くしていた。どうしようかと思いつめて、戻ろうとした。しかし後ろの道に戻ろうとすると、小鹿が人の波に呑まれまいと真後ろで踏ん張っていて無理だった。
「ねえ、先に行って」
紀代美が涙目で頼むと、小鹿はさっさと歩き出した。あどけない足取りで、ひよこを踏みながら歩いていく。踏まれたひよこはぺちゃんこになって地面に張り付く。しかしすぐに空気が入ったかのようにぽんと膨らみ、またぴよぴよと歩き出す。紀代美は目を丸くした。左右に伸びる道の端に紀代美はいて、さほど遠くない道の反対側に小鹿は立って紀代美を見ている。やはり、ドアがある。今度は分かりやすい桃色だ。紀代美は思い切って歩くことにした。歩いてみると、ひよこが踏まれては膨らむのが面白くなってきた。だからぴよぴよとかしましいひよこをわざと踏んでは快感を覚えた。
「わたしってサディストなのね」
じっと紀代美を見つめる小鹿に向かって、紀代美はにっこりとそう言った。ああそうだった。自分は他人をいたぶるのが好きな冷血漢だったっけ。でもこんなに酷いことをして喜ぶほどの残酷な人間だったっけ。紀代美は薄ら笑いを浮かべながら考えていた。この迷路は少し変だ。何だかおかしくなりそうだ。そう思っていたけれど、紀代美はぷちぷちと小さなひよこを潰すのを止められなかった。やっとドアに着く頃には、ひよこが潰されすぎて鳴き声が少し減っていた。ドアノブを握る頃には、声はまた元に戻っていたのだが。
ドアを押した瞬間、爆発音と閃光で足がすくんだ。煙の匂い。
「何、何? どうなってるの?」
紀代美はとにかく走った。戦争なのかと思った。しかし、目を凝らして見ると、全く違った。花火。小さな打ち上げ花火が紀代美の周りでどん、どん、と破裂しているのだ。この区画だけが暗闇に包まれていて、花火はよく映えていた。きれいだけれど、と紀代美は思った。うるさくて仕様が無い。鼓膜が破れそうだ。それにこの明るい光をこんなに間近に見ると、具合が悪くなりそうだ。紀代美は慌てて走った。真っ直ぐに。すると、少し進んだところにやはりドアがあった。今度は、ショッキングピンク。紀代美はくらくらとめまいを起しかけながらドアを開いた。
「ぼくは彼女のことを大事に思ってるよ。気の強いところも好きだし、少し残酷なところも受け入れている。君にはそんな覚悟が無いだろう?」
「何言ってるんだ。おれだってあいつが好きだよ。気が合うんだ。遊んでいても面白いし、話したら賢いし、あいつはおれのためにしつらえられたようなものなんだよ」
「君は傲慢だね。そんな考え方じゃ、彼女にいつか好かれなくなるよ」
「あいつはおれを好きだよ。おれもあいつが好きだ。あんたとあいつよりも好き合ってるはずだ」
「そうかい。君がそう思ってるならそうすればいいさ。結果はおのずと分かる」
「すごい自信だな。あんたはひどく自信家だけど、それがあいつに嫌われる原因にならなきゃいいな」
広い場所に大理石のテーブルと、二脚の椅子があった。そこに背の高い青年が座り、背の低い少年が立って、言い争いをしていた。話の内容を聞くと、誰か女を取り合いしているようだったが、自分には関係ない。とにかくあの二人の向こう側に行きたい、と紀代美は思っていた。何故なら、入り口と同じ赤色のドアがあり、そこには「Goal」と書いてあるのだ。やっと出られる。そう思って小鹿と一緒に二人のいる場所を通り過ぎた時だった。
「紀代美!」
呼ばれて振り向くと、美しい色白の少年が紀代美を見つめていた。それはもう嬉しそうに。
「どこに行ってたんだ。探してたんだよ」
そう言って紀代美の肩に手をかけたのは眼鏡をかけた青年で、その目はとても優しかった。
「誰?」
紀代美は不機嫌に二人を見た。早く出たいのに、この二人は自分に何の用事があるのだろう、といまいましく思った。それになれなれしい。なれなれしい人間は大嫌いだ。
「忘れたの? ひどいな。○○だよ」
「おれは○○○だ。忘れるはず無いよな」
「はあ?」
名前の部分がどうしても聞き取れない。紀代美はよりいっそう苛々して二人をにらんだ。
「わたし、あのドアを開けたいの。邪魔しないで。あなたたちは好き勝手に討論してればいいわ」
「何言ってるんだ。君について言い合ってたんだよ」
と、青年が言う。紀代美はその手を肩から振り払う。
「何言ってるの?」
「おれ達二人でお前について話してたんだよ。どっちがお前を幸せにするかって」
と、今度は少年が言う。
「わけが分からないわ」
紀代美はため息をついて歩き出した。すると、少年が目の前に立ちふさがる。
「どいてよ」
「紀代美。ずっと言おうと思ってた。おれと結婚してくれ」
「何言ってるの。嫌よ」
言下に言い放ったその瞬間だった。紀代美は少年と共に船に乗っていた。ここは、どう見ても海だ。天気もいいし、波の音と潮の香りが心地いい。紀代美はいつのまにかデッキでにっこりと笑って少年と向き合っていた。
「海って好き」
「おれも」
何故だか紀代美には少年がいとおしく感じられていた。さっきまで迷路にいたのに、とは考えなかった。
「フェリーに乗るのって初めて。どこまで行くの?」
「北海道」
少年は並びのいい歯を見せてにっと笑った。
「そうなの。遠いわね」
紀代美は風になびく髪を手で押さえて、その笑顔に答えた。
「何言ってるんだ。おれ達そこの大学に行くんだよ」
「え?」
「おれ、北海道で農業を学びたいんだ」
「だからってどうしてわたしも? わたしはこの旅行は純粋な旅行だと思ってたのよ」
紀代美は眉間に皺を寄せて怒った。少年は少し不機嫌になった。
「お前も一緒に入るんだよ」
「嫌よ。わたし、東京の大学に行くんだから。決めてるんだから」
「来いよ。おれ達付き合ってるんだろう? 離れたくないよ」
「強引過ぎるわ。嫌よ。わたし帰る」
「紀代美! だってお前と結婚したいんだ」
紀代美は動揺した。でもそれは一瞬だった。
「わたし、あなたとは結婚しない。なんとなく、そうすべきだと思うのよ」
そう言うと、目の前の色が変った。はっとして辺りを見回すと、そこは先ほどの迷路のゴール前だった。少年は椅子に座って頭を抱えていた。青年はそれを見て気の毒そうな顔をしたが、すぐさま紀代美の前に立った。
「ぼくと結婚してくれ、紀代美」
「だから何を言ってるのよ、あなた達」
紀代美がそうわめいた瞬間、目の前の景色が変った。喫茶店だ。木とコーヒーの匂いがする。紀代美が一番好きな場所だ。紀代美は泣いていた。さっき怒っていたことも忘れて泣いていた。紀代美は窓際の隅のテーブルに座っていた。向かい側には、青年。
「赤ちゃんが出来たの」
紀代美はそう言った。青年は驚いたように腰を浮かしたが、すぐに座って嬉しそうに笑った。紀代美は不思議に思った。
「どうして笑うの? わたしのこと、そんなに好きじゃないくせに」
「好きだよ」
青年は優しく響く声でそう言った。紀代美はまた涙がこみ上げてくるのを感じた。
「本当?」
「うん。君と出会った時、何てきれいな人なんだろうと思ったのを覚えてる。目が美しくて、魅入られたよ。それに勝気で、仕事でも妥協をしなくて、何てすごい女性なんだと思った。君は少し残酷だけどね。誰にでも面と向かって傷つく様なことを言うだろう。でもあれは皆本当のことだものね。正直で、好きだよ。本当は、もっと早くこういうことを言えば良かったんだ。遅くなって、ごめん」
紀代美は湧き上がる幸福感に包まれた。体中が暖かくなる。青年は、少し緊張したように唇を引き締めた。銀縁眼鏡を押し上げて、こんなことを言った。
「結婚しないか、紀代美」
紀代美は一瞬言葉を失った。そして涙で前が見えなくなった。
「ええ」
そう答えたときだった。紀代美ははっとして、目の前のゴールのドアが開くのを見た。同時に先ほどまで感じていた苛立ちを思い出して、青年が微笑んで近寄ってくるのを避けて、走ってドアの向こうに出た。すると、わあっと歓声が上がった。
「え?」
「紀代美、幸せになろう」
いつの間にかタキシードを着た青年が紀代美の横に立ってそう言っている。目の前にはくたびれたサンタクロースの様な外国人。森の中にあるらしい広場には、見覚えのある人、人、人。
「病めるときも健やかなるときも――」
「はあ?」
紀代美は相変わらず黒ずくめの喪服を着ていて、手にはハンドバッグを提げ、後ろには小鹿を控えさせていた。神父の言葉は長々と続く。紀代美は動きたいが体が動かないことに気づいた。
「――では指輪の交換を」
青年は指輪をポケットから取り出した。それはあの桃色珊瑚の指輪だった。紀代美は驚いて、それがどこで手に入ったものなのか聞きたかったが、口が開かない。左手の薬指に指輪が通される。ぴったりだった。紀代美もどこから出したのか分からないシンプルな指輪を青年の指に通した。何はともあれ、と紀代美は思った。指輪が戻った、良かった。そう思った時だった。
「――では誓いのキスを」
「えっ」
途端に青年に顔を掴まれ、柔らかい濡れたものが唇に触れた。気持ち悪い、と思ったが遅かった。わあっ、とまた辺りは盛り上がる。
「次は披露宴」
青年が言う。紀代美は唇を拭きながら、また、
「はあ?」
と答えた。目の前にケーキがやって来る。紀代美は誰かに操られるようにそれに大きなナイフを入れた。もちろん青年と共に。
出し物が始まる。会ったこともない職場の同僚が皆で歌を歌う。紀代美の親戚がぼんやりとそれを見ている。
広場の隅にいた両親の元に、機械的に足が動く。口からは「どうしてパパたちはここにいるの?」という最も尋ねたい質問は出ない。バッグから手紙が出てきて――こんなもの、無かったはずなのに――紀代美はそれを読んだ。
「パパ、ママ」
そう言うと、父がくっと息を漏らして泣き出した。紀代美はそれを見て嫌な気持ちになったが、それとは裏腹に涙が出てきた。
「今まで育ててくれてありがとう。パパ、パパのことが大好きだったよ。どこにでも連れて行ってくれる優しいパパだったし、よく話をしたね。わたし、パパが話してくれた南の海のイルカの話、今でも覚えてる。素敵な話で、好きだったよ。けんかもしたね。高校生の時、わたしが勝手に友達と北海道に旅行に行っちゃったから、すごく怒られたね。今でも反省してます。でも、パパはすごく優しかったよね。わたしのことを思って怒ったんだもの。これからもずっとずっと大好きだよ、パパ」
と口が勝手に話すのを紀代美はぼんやりしながら聞いていた。父がハンカチを出して泣いている。父が泣くのを見るのは初めてだが、紀代美が思っているのは、勘弁して欲しい、ということのみだった。
母に対する部分を読み終わると、辺りはしんみりとした空気になった。その空気の中、紀代美は青年と共に歩き出した。大分暗くなっている。小鹿が後ろからこつこつ足音を鳴らして付いて来る。
「どこに行くの?」
紀代美はやっとまともに口を聞けたことにほっとしながら青年に尋ねた。青年はいかにも幸せそうに微笑み、紀代美の肩を寄せた。
「もうすぐ着くよ。ほら、あれ」
「はあ?」
紀代美はいい加減この間抜けた声を止めたい、と思っていたが、どうしようもなかった。途方も無いものがそこにあるのだ。
大きな――二十畳ほどもあるだろうか――ベッド。呆れるほど広いベッドがそこにあるのだ。野外に。紀代美は一抹の不安を覚えて、青年を見た。
「さあ、寝ようよ」
「えっ」
予想通りの答えが返ってきて、紀代美は絶望した。初夜まで過ごさなければならないのか。この見知らぬ男と。体は勝手に動いて、靴を脱いでベッドの上に乗り、普通のベッドでは考えられないほど歩いて、中央にたどり着いた。青年も同じだ。タキシードの上着を脱ぎながら付いて来る。紀代美は泣きそうになりながら、ベッドに横たわった。
すると、おかしなことが起こった。人の声が聞こえてくるのである。身を起すことは出来ないのだが、わらわらと人が集まってくるのが分かる。しばらくすると、ベッドの周りを先ほどの人々が取り囲む形になった。父は最前列で紀代美を見ている。紀代美は恐ろしくなった。まさか、まさか――。
「紀代美、愛してるよ」
青年がもう一度口付けをした。紀代美はその間、体の中でもがいて、もがいて、とうとう声を出した。
「嫌っ。あんたなんか嫌い! さよなら!」
体が動いた。バッグを引っつかみ、ベッドの端まで走って、靴を履き、人々をどけて、走り出した。小鹿と共に。夜の闇の中、ざわめき声と、青年が紀代美を呼ぶ悲痛な叫び声が耳に届いたが、紀代美はそれを無視して全速力で走った。夜闇は真っ黒だ。




