プロローグ
――いつかあげるわ。約束よ。わたしが死んだら、この桃色珊瑚の指輪をあなたにあげる――。
今日も紀代美は英語のレッスンをさせられていた。英語の原書を朗読するのだ。今日は『チャタレイ夫人の恋人』。十六歳になる若い娘にこんな本を声に出して読ませるなんて、彼女はどうかしている、と紀代美は思った。がさがさしたペーパーバックの間からちらりと覗くと、彼女は紀代美の赤いソファーに上品に腰掛けて、目を閉じていた。高い鼻、白い肌、長い手足。開いた時のその瞳は透明な茶色だ。ただし彼女の首や手は筋張っていて、髪はつやの無い灰色で、顔は小じわに覆われていた。彼女は七十六歳。紀代美の祖母だ。名前は鞠子という。
「紀代美。今発音が変だったわよ」
ふいに鞠子が目を開いた。紀代美はぎくりとして朗読を止める。
「『a』くらい簡単でしょう? もっと奥行きのある声で『ア』と言うの。出来るでしょう? 考え事でもしていたの?」
「すみません、おばあさま」
紀代美は伸ばした指先を足につけて、すばやく頭を下げた。けれど内心、「くそばばあ」と呟いていた。
紀代美は子供のころから鞠子に厳しくしつけられている。背筋を伸ばした歩き方、箸の持ち方、ナイフとフォークの使い方、そして英会話だ。紀代美はこれらを長いことこなしてきた。今でこそそれも上手になり、鞠子に叱られることも少なくなったが、物分りのよくない幼い頃は、背中を丸めたり、ナイフとフォークが嫌になって文字通り投げ出したりすると、平手打ちが飛んできた。紀代美は鞠子が怖かった。今でも少し怖い。
英会話が出来ることで、紀代美は学校の勉強において有利だった。英語の成績は常にトップで、こればかりは鞠子に感謝せざるをえなかった。ただ、整った発音で教科書を読み上げる時の同級生の反応がどうにも嫌いで、これくらいのことが出来ずに羨望のまなざしを向けるばかりの彼らを愚鈍だと思うしかなかった。紀代美には友達がいなかった。彼女が強いて求めてはいなかったからだ。この学校には紀代美と同じくらい出来る同級生も多くいたが、彼らのだらけたしゃべり方や、昼食を食べるその仕草が嫌でたまらなかったのだ。紀代美は女子には嫌われていた。しかし男子にはもてた。
「桂さんてきれいだよね。なんてったって、八分の一イギリス人だもんね」
今日、学校で話しかけてきた男子を適当にあしらっていると、こんなことを言われた。こういうことを平気で言える人間を、紀代美は馬鹿だと思う。自分のルーツの八分の一がイギリスにあるからといって、どうだというのだ? イギリス人への劣等感をあらわにして、自分の間抜けをさらしているこの男を、紀代美は目の前から消去したいと思った。紀代美は言った。
「わたしは日本人よ。あなた私を半分外国人と思って接してるでしょう。それって差別よ。分かってる?」
その、岩に目鼻をつけたような顔の男は、曖昧に笑った。そして、へへへ、と言った。紀代美は苛々した。そして、大嫌いだ、この意味不明の笑顔は、と思った。
家に帰ると、『チャタレイ夫人の恋人』と鞠子が待っていた。紀代美は諦めたように本を手に取り、読み始めた。これがこんな本だと知りもせずに。
チャタレイ夫人であるコンスタンスと、その愛人メラーズとの濡れ場を朗読する頃になると、紀代美は次第に赤面してきた。どうしてこんなものを読まされるのだろう、と思いながら、紀代美は泣きそうになった。彼女はどういうつもりなのだろう。死にたいくらい、恥ずかしい。
「おばあさま」
「紀代美、そのページの最後まで続けなさい」
鞠子は目を閉じたまま、そう言い放った。ページの最後を見ると、場面は切り替わっていた。彼女はこれを最後まで読ませる気なのだ。紀代美は涙を浮かべて朗読した。声が時折歪んだが、鞠子が注意することはなかった。くそばばあ、早く死んじまえ。紀代美はそう祈った。祈りは長く長く続き、終わった頃には朗読も終わっていた。
「お疲れ様。良かったわよ」
「ありがとうございます」
紀代美は力なく言った。鞠子はにっこり笑って立ち上がり、紀代美のそばにやってきた。そしていかにも無邪気に、
「恥ずかしかったでしょう?」
と言ったのだった。紀代美は返事もせずに黙っていた。
「紀代美もそろそろ性教育というものが必要だと思って読ませたのよ。恥ずかしかったでしょうけど、こういうことはよく知っておいたほうがいいものね。理解が出来るか、少し不安だったのだけど」
紀代美は笑った。それは嘲笑に似ていた。鞠子は顔色を変え、口を閉じて紀代美をにらんだ。
「紀代美、何か言いたいことがあるなら言いなさい」
「はい、おばあさま」
紀代美は背筋を伸ばし、優雅に笑っていた。先ほどの取り乱した態度はどこかに消えうせていた。
「何? 言ってごらんなさい」
「性教育なら小学校四年生の時に受けています、おばあさま」
鞠子は目を見開いて口を僅かに緩めた。
「セックスのことだって」
「紀代美!」
「中学校で教わりました」
鞠子は黙り込んだ。
「ママに言われなかったの? ママだって性教育をちゃんと受けたはずよ。高校生になって性教育なんて、馬鹿みたい。おばあさまは無知ね」
「紀代美、何てことを言うの。わたしを誰だと思ってるの」
「分かってるわよ、くそばばあ」
途端に、鞠子の白い顔が赤黒くなった。紀代美は、これは危険な兆候だ、と気づいた。鞠子は血圧が高いため、医師に注意されているのだ。しかし、止められなかった。
「大っ嫌い。口うるさくて、世間知らずで、上品ぶってて。おまけに、おばあさまって日本人を馬鹿にしてるでしょう。イギリス人だったらイギリス人だったらって、いつも言っているでしょう。わたしがイギリス人らしい顔じゃないことを嘆いていたでしょう。どうしてそんなにイギリスにこだわるの? 純潔のイギリス人に劣等感を持ってるの? それってわたしのクラスの男子と同じよ。馬鹿で醜いの」
「紀代美!」
鞠子が猫背になってぶるぶる震えながら紀代美の肩を掴んだ。紀代美は平気な顔をしていたが、冷や汗をかいていた。鞠子の目は真っ赤で、顔色もおかしかった。どうしよう、と思った。
「わたしに逆らうのね。でもね、紀代美、わたしがイギリスにこだわって、あなたに英語を教えるのは――」
「うるさい、くそばばあ」
と、紀代美が鞠子を軽く突くのと、鞠子が崩れ落ちるのは、ほとんど同時だった。どさっと音を立てて固い床に倒れた鞠子は、紀代美の目の前で瞬きをするかのようにゆっくりと目を閉じて、そのまま開くことは無かった。紀代美は頭が真っ白になった。そしてしばらくして、遠くから紀代美紀代美と自らを何度も呼ぶ鞠子の声を聞いていた。
紀代美が叫んだのは、それらの現象が一通り済んでからだった。
彼女には、星のきれいな夜こそが相応しかったのに、と、紀代美はガラス越しの空を見上げて思っていた。黒いワンピースを着て放心したような紀代美の風情を、彼女の両親は哀れんで見ていた。祖母を殺してしまった娘。事実そうだった。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた母は、あわてず救急車を呼んだ。紀代美は救急車で鞠子が運ばれていくのを見届けて、母と一緒に自家用車で病院に向かった。その時はだんまりだったが、鞠子が集中治療室で息絶えるのを見た瞬間、
「わたしが殺したの」
と呟いたのだった。
夜十時。通夜は始まった。たくさんの人が集まってくると、紀代美は悲しくなった。どの人も、鞠子に似ている。上品過ぎるところだとか、背筋がぴんと伸びているところだとか、こんな場面でも楽しくおしゃべりをしてしまう不謹慎さだとか。類は友を呼ぶとはこのことだ。ということは、自分も彼女に似ているのだろうか。嫌いだった彼女。彼女は自分だったのだろうか。紀代美は涙も出ない目をうつろに向けて、弔問客を眺めた。
――わたしが死んだらあなたにあげる。
はっと、紀代美は振り返った。鞠子の声が聞こえた気がしたのだ。しかしすぐにその考えを打ち消した。彼女は死んだのだ。だからそんなことがありうるわけがないのだ。
しかし、聞き覚えがある言葉だった。何をあげると言っていたのだっけ。そう考えて、紀代美は、ああ、と声を漏らした。指輪だ。彼女は自分に指輪をくれるといっていた。桃色珊瑚の、美しい彫りがなされた指輪。
小学校に入る前のことだった。紀代美は鞠子の部屋で宝石箱をいじっていた。美しい宝石箱。小さな真鍮の鍵で開けると、中はキラキラと輝いて、夢の中のようだった。鞠子は宝石をコレクションしていたのだ。
「紀代美、どれが一番好き?」
そう尋ねる鞠子の様子はちっともぴりぴりしていなかったが、紀代美は彼女のことをひどく恐れていたので、何も答えられなかった。
「おばあさまが一つ、いつか紀代美にあげるわよ」
「本当に?」
紀代美は目を輝かせた。そして熱心に宝石箱をいじりだした。それを見ても、鞠子は何も言わなかった。ただ、紀代美をいとおしげに眺めていた。
「これがいい」
紀代美が選び出したのは、桃色珊瑚の指輪だった。大きな粒に、レリーフが施してある。他の透明な宝石のほうが紀代美のような子供には気に入りそうだったのに、紀代美は光りも控えめなそれを選んだ。鞠子は一瞬悲しそうな顔をして、次に安堵したようにため息をついた。それがどういう意味だったのか、紀代美には分からない。
そうだ、あの指輪を見に行こう、と、紀代美は決めた。彼女を殺した自分にはあれをもらう資格はないけれど、どんな指輪だったか、もう一度確認したい。
紀代美はそっと、鞠子の遺体が安置してある座敷を抜けた。そして階段の横にある、鞠子の部屋に向かった。ドアノブを握ったときの冷たさは、心臓を弾ませた。少し、怖い。紀代美は息を整え、一気にドアを開けた。
きらびやかな部屋だった。ベッドカバーとカーテンは臙脂色で、金色の縁取りがされていた。カーペットも同じ色で、ふわふわと心地いい。お嬢様育ちの彼女には相応しい色だ、と紀代美は少し笑った。広い部屋の隅には、アンティークと思われる鏡台と机があった。紀代美は鏡台に向かった。きらきらしたものが、鏡の前に置いてある。近寄って見ると、宝石箱だった。大粒の黄水晶がたくさんちりばめられた、銀色の大きな宝石箱。とても美しくて、紀代美は見とれた。
鍵は、と思って鏡台のあちこちを探ってみたが見つからない。彼女が身に付けているのかもしれないと思うと、紀代美は何故か絶望的な気分になった。どうしても見なければいけない気がするのだ。あの桃色珊瑚の指輪を。
紀代美は宝石箱を持ってみた。ずしりと重かった。そして何気なくふたに手をかけてみると、難なく開いた。驚いた紀代美は、宝石箱を取り落としそうになった。しかしやっとのことで体勢を立て直すと、紀代美はそれをそっと鏡台の上に置いた。開いたふたの内側には、様々な宝石類がぎっしりと詰まっていた。
桃色珊瑚、と呟いて、紀代美はそれらの宝石に見向きもせずに探した。桃色珊瑚はすぐに見つかった。並んだ指輪の中に、色の褪めたような桃色珊瑚が姿を現したのだ。
早速手にとって見た。記憶がはっきりしなかったレリーフのモチーフは、外国の少女だった。まじまじ見ると、紀代美はそれが誰かに似ていることに気づいた。
「誰だろう」
そう呟いた時だった。指輪が紀代美の指の中で、もがくように動いた。そのために紀代美は指輪を取り落とした。指輪はころころ転がって、鏡台の横にある、開いたドアの向こうに消えて、からころからころ、と鳴り出した。さっきは鏡台の横にドアなどなかったことなど忘れて、紀代美はその中に飛び込んだ。そして転びそうになった。筒状の部屋の中で、石で出来た螺旋階段がはるか下まで続いている。桃色珊瑚はそこをからころからころと落ちていく。紀代美はそれを見て、大急ぎで追いかけていった。
からころからころ。
どうしてこの指輪は止まらないのだろう、と紀代美は思った。跳ねるように、誘うように、指輪は落ちていく。
からころからころ。
一体どこまで続くのだろう、この階段は。
からころからころ。
彼女のお通夜に、こんなことをしていていいのだろうか。
からころからころ。からころからころ。からころからころ。からころからころ。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
そう叫んだ時だった。紀代美は草を踏んだ感触に驚いた。顔を上げる。まぶしい。紀代美は妙な場所にいた。彼女の家の地下にあることを考えれば、至極妙な。
森だった。つるんと滑らかな肌の木々が、一本の道を挟んでみっしりと群生している。緑色の光が紀代美の目を射る。道は広く、遠くまで真っ直ぐ続いている。紀代美は呆然とした。一歩踏み出し、木を撫でた。そしてそれが大理石だということを知った。
どういうことだろう、これは。
紀代美はそっと戻って桃色珊瑚の指輪を拾った。それから何故だか閉じているドアを、開こうとした。――ドアは開かない。
紀代美はぽかんとドアを見た。それから振り返って道を見た。
――行くしかないのだろうか?




