第6話:赤ん坊の世話をしようとする武士
現在に戻る。穏やかな風が、意識を失っているムザの髪をそっとなでていき、朝の日差しがまぶたを透けて差し込んだ。
ムザはゆっくりと目を開け、まだ少しふらつく頭を押さえた。日が替わって朝になっているのを見て、昨夜いったい何が起きたのかと不思議に思った。
「……起きたか、坊主?」
ムザはゆっくりとその声のほうへ顔を向けた。叔父が壁にもたれかかり、きらめく鉈を手にしていた。
ムザは足元がふらつき、竹を編んだ寝床へ倒れ込みそうになった。おそらく意識がまだ完全には戻っていなかったのだろう。
それを見たジョルダはすぐさま動き、少年が倒れる前に受け止めた。
少しずつ、ジョルダは彼を竹の寝床の上に優しく座らせた。
「昨夜は何があったの、おじさん?」ムザはあくびをしながら尋ねた。
「ただの野生の獣だ。だから心配はいらない」
「……じゃあ、その鉈は何のため?」
「ああ、それか……壊れた扉を直すためさ、へへ」
ムザの目はゆっくりと、倒れた玄関の扉へ移り、それからもう一度、眉を上げて叔父を見た。
「そうなの?」
「ああ、もういい。扉の話はあとにしよう。今は寺院へ行ったほうがいい。ほかの村人たちもそこにいるかもしれない。それと、もう質問はするな」
ムザは一度だけうなずいて叔父に従った。それは、本当は何が起きたのかをこれ以上知りたくなかったからではなかった。
ただ、朝からあのひげ面の年寄りの小言を聞きたくなかっただけだ。
ムザは身支度を整え、水で顔をすすいだだけで家の外へ踏み出した。
太陽がすでに高いガジュマルの木と同じ高さまで昇っているのを見て、午前11時ごろ、昼に近い時間だとわかった。
家の周りのあちこちに、黒い塵がいくつか固まって散らばっていた。ムザは、ただこぼれた炭の山だろうと思った。だが、その塵の一つにわずかな火花が散っているのが見えた。しかし、その火花はすぐに消えた。
「ムザ、行くぞ!」立ち止まったムザを、ジョルダおじさんが呼んだ。
ムザは、その異様な光景に固まったように立ち尽くしていたが、やがて慌てて叔父の足取りを追いかけた。
道中、ムザはあの夜に宙を舞っていた文字のことや、叔父の手から出ていた煙のことを、はっきりと思い出していた。
それに、あの青い紙は何なのか。叔父と暮らしてきたこれまでの人生で、ムザは叔父がそんなものを持っているなど、一度も知らなかった。
「おじさん、珍しいね、寺院へ行くなんて。みんな、あまり行かないんじゃなかった?」
「寺院のことで、お前が何を知っているというんだ、坊主」
「ひげおやじ、前に寺院はお祈りをする場所だって、ぼくに言ったじゃないか」
「誰に祈るんだ?神々にか?ふん、冗談じゃない」
「じゃあ、何のためなの?」
ジョルダは道沿いに実のなる木を見つけると、跳び上がって、熟した実をもいだ。黄色いスターフルーツだった。
「学ぶためだ。広い世界を理解するためにな。ムザ、お前、俺たちの世界がどれだけ広いか知ってるか?」
「えー、知るわけないだろ、ひげおやじ。うーん……ぼくが覚えてるのは、ぼくたちが3つの違う村に住んできたってことくらいかな」
ジョルダはナイフでスターフルーツを切り、いくつかをムザに分けた。ジョルダはその一切れを、ムザの顔、正確には、見えない右目にあてた。
「そういうことだ、ムザ。今までお前は、この世界のほんの少ししか見てこなかったのかもしれない。それに、ただ違う一角から見ていただけなのかもしれない」
「だが――」
ジョルダが格言めいた話を言い終える前に、ムザはジョルダの背中を後ろから蹴り、言った。「失礼なんだよ、この野郎」
「この野郎、ガキめ」
だが、その罵りの裏で、ジョルダはムザの言葉からあることに気づいた。いくつもの村を転々としてきたということ。
そして、ムザがこれまで同じ年頃の子と友達になったことが一度もなかったのは、ほかの要因、つまり彼に欠けているもののせいでもあるのだと思い当たった。
ジョルダは横を向き、まだ顔をそむけているムザを見た。ジョルダは、自分が育て、ヒンディアの大地の上で立てるまでになった人の子の頭に、手を置いた。
ジョルダは、幼かったころのムザを育て始めた最初の日々を思い出した。この瞬間、その記憶が頭の中で回り始めた。
ジョルダは今、木の枝から枝へと跳び移りながら駆けていた。ビラ村を発ってから、すでに1週間がたっていた。天気は雨で、水は小さな針のように、絶えず肌を刺した。
泣いている赤ん坊を腕に抱いたまま、ジョルダはしばしの雨宿りの場所を探し、ガジュマルの木の下に入った。
くそ、この赤ん坊をどうやって泣きやませればいいんだ。さっきから飲ませているのに、いっこうに泣きやまない。
「あの……眠れ、赤ん坊、いや、そうじゃない、うーん……青い空の小さな星々よ……」ジョルダは、赤ん坊をそっと揺らしながら語りかけた。
ジョルダはそれを、ぎこちなく口にしていた。赤ん坊をあやすことがいかに下手かを、はっきりと示していた。
ジョルダは、バティック布の中に本が挟まれていたのを思い出し、ゆっくりとそれを取り出して、キラナが用意してくれた赤ん坊に必要なことの手引きを読み始めた。
◆
「あなたが知っておくべき赤ん坊の必要事項
あなたが思いを宙ぶらりんにさせた女より。」
『あなたが私のような人の扱いがとても下手で、まして赤ん坊となればなおさらだと知っているので、あなたが知っておくべきことをいくつか書き留めておきました。
1. 赤ん坊を連れて悪天候に突っ込まないこと。
大雨が降ったり風が強まったりしたら、安全な雨宿りの場所を探すこと。赤ん坊の体が温かいままで、服が濡れていないようにすること。長いあいだ冷たい空気にさらさないこと。
2. 赤ん坊に食べ物や飲み物を適当に与えないこと。
赤ん坊がまだ小さすぎて食べられないなら、母乳か、赤ん坊に合った代用乳を与えること。固いパンや大人の食べ物、ただの水を乳の代わりに与えてはいけません。安全な乳の用意の仕方がわからなければ、経験のある人に助けを求めること。
3. 泣いている赤ん坊を放っておかないこと。
お腹がすいていないか、おむつが濡れていないか、体が冷えていないか、不快ではないかを確かめること。そっと抱き上げて、体を揺らしてあげること。落ち着くなら、子守歌を歌ってもかまいません。憑かれた人のような声で歌う必要はありません。
4. 絶対に赤ん坊を揺さぶらないこと。
頭はまだとても弱いのです。泣きやまなくて我慢できなくなってきたら、安全な寝床にあおむけに寝かせて、少し自分を落ち着かせること。どうしていいかわからなければ、助けを求めること。
5. 赤ん坊が安全な場所で眠れるようにすること。
平らで堅い面にあおむけに寝かせること。顔を、厚い布や枕、そのほか呼吸をふさぐおそれのある物から遠ざけること。高い所や火の近くに置き去りにしないこと。
6. すべての泣き声を些細なことだと思わないこと。
赤ん坊に熱がある、息がしにくい、乳を飲まない、吐き続ける、ひどくぐったりしているようなら、すぐに医術のわかる人に助けを求めること。いい加減な薬草で何とかしようとしないこと。
7. 最後に、辛抱強くなることを学ぶこと。
赤ん坊は、自分が望むことを説明できません。必要なことを伝えるために、泣くことしかできないのです。わからないからといって叱らないこと。その子は、あなたを打ち負かそうとしている敵ではないのですよ、ジョルダ。
心を込めて、キラナより』
◆
キラナが書いたその本の熱意を見て、ジョルダはかすかに微笑むしかなかった。だが一方で、ジョルダは困惑していた。この本に書かれたどの行動も、結局は赤ん坊の泣き声につながっていたからだ。
しかしジョルダは、そこで諦めはしなかった。何度もその本を読み返し、ついに問題の根っこを見つけた。
乳だ。ジョルダはそれを思い出した。最初から用意していなかったのだ。ゆっくりと、今度は慎重な動きで赤ん坊を抱えて進んだ。
先ほどまでの、我を失った武人のようにではなく。
人気のない道をかなり進んだあと、ついにジョルダはそこに集落を見つけた。
村の門をくぐると、ジョルダは地元の住人たちから何度か視線を向けられたが、気にも留めなかった。
赤ん坊のために、新鮮な乳を売っている場所へ向かうつもりだった。
ジョルダは、家畜の牧場の前に着いた。その周りには、牧場の産物を売る商人が何人かいた。ジョルダはその一人のところで、新鮮な牛乳の瓶が一本あるのをちらりと見つけた。
「やあ、旦那、この乳はいくらだ?」
「ムスティカ硬貨1枚だ」商人は、客のほうを見もせずに答えた。
「それは高すぎるんじゃないか、旦那?」
「それが相応の値段だ。買うか、去るかだ」
ジョルダは、その商人の言い草に、かなり腹を立てているようだった。乳の値段を無茶な額に吊り上げておいて、この男のこの対応は何だ、と思った。
だがジョルダは、そのときそれ以上気にせず、ゆっくりと小さな袋に手を探り入れた。
ジョルダが抱いている赤ん坊が、突然また泣き出した。その声は商人の耳にまで届き、商人はついに、ジョルダの腕の中で布に包まれた赤ん坊へ注意を向けた。
「……こんなに若いのに、もう赤ん坊を連れて歩いてるのか?やれやれ、まあいい。その乳は持っていけ、ただでいい」
「え、だが旦那?」
「いいから持っていけ。俺も、あんたと同じ父親だ。そう深く考えなくていい」
ジョルダの目が、商人のその言葉に輝いた。赤ん坊を抱いているというだけで、こんなにもすぐに態度が変わるのを目の当たりにしたからだ。
ジョルダは商人に頭を下げて礼を言い、それから歩みを進めた。ジョルダは、ただそれだけのことから、人生について一つのことを学んだ。
人々は外から見ればいらだっているように見えるかもしれないが、心の奥底にあるものは、彼らの行いの本当のところは、誰にもわからない。
あるいはこれも、数千年前に神々の王国が崩れ去ったあとの、この世界の因果の秩序なのだろうか。
旅を再開する前に、ジョルダは少し太めの枝を何本か拾い、それを薄くなるように割った。赤ん坊に乳を飲ませるための、間に合わせの木のさじにするためだ。
ジョルダは優しく乳を飲ませた。少しずつ、泣き声は静まっていった。それに代わって、愛しい我が子の温かな笑顔が浮かんだ。
7年が、そのまま過ぎた。赤ん坊は成長して子どもになり、緑の草原を、あちこちと駆け回っていた。一方ジョルダは、木こりの仕事を終えたあとの休み場所として、木にもたれながら、遠くからその子を見守っていた。
ほかの労働者の子どもたちも同じ野原で駆け回っており、3人の子が、一人で遊んでいるその子のもとへやって来た。
「やあ?」と、一人の子が後ろから肩を叩いて言った。
その子はゆっくりと体の向きを変え、彼らの言葉にこう答えた。「うん、どうしたの?」
しかし、彼らが目にしたのは、障がいのある子ども、右目が白い子どもだけだった。彼らの表情は一瞬のうちに変わり、広がっていた笑顔がゆっくりと消えていき、蔑むような眼差しがそれに続いた。
「うわっ、お前、化け物だな!化け物、化け物!」
「そうだ、化け物だ、このジンの子め」
その子は、彼らのふるまいと態度の変化を見て、ゆっくりとそこから離れた。見えないほうの目を手で覆いながら、ジョルダのほうへ走っていった。
その子は泣かなかった。怒ってもいなかった。ただ、なぜ同い年の子たちにそんなふうに扱われるのかがわからず、戸惑っていた。
ジョルダは、その子の沈んだ顔を見て尋ねた。その子こそ、ムザと呼んでもいい子である。
「どうしたんだ、坊主?」
「……何でもない」
「本当に大丈夫なのか?まあいい、ここに座れ」ジョルダはそう言って、自分の隣にムザが座れる場所を空けた。
ムザはそのとき、同い年の子どもたちが、何事もなかったかのように、またいつものように遊んでいるのを見ていた。
だが、ひとつ引っかかっていることが、ずっと頭を離れなかった。ほかの子が、ジョルダと同じ年頃の大人の男を「お父さん」と呼んでいるのも見たからだ。
だからムザは、そのときパンを食べていたジョルダに尋ねた。
「……ジョルダ、ジョルダ、ぼくも、あの子たちみたいに、ジョルダのことをお父さんって呼んでいい?」ムザは、目の前にいる子どもたちを指さしながら言った。
ジョルダは、ムザの言葉にぎくりとした。7歳の子に、どう説明すればいいのかわからなかった。
そして、ジョルダは考えが浅く、あけすけな性格だったので、ありのままに答えた。
「嫌だね。俺はお前の父親じゃない……だが、おじさんと呼ぶのはかまわん。ジョルダおじさんだ」
「どうして、そう呼んじゃだめなの?」
「それは……説明しづらいな」
「おじさんとお父さんって、違うものなの?」
ジョルダはパンを半分に切り、瓶から木のコップに水を注いで、それをムザに渡した。
「同じさ。あいつらの父親は、あいつらにパンをやる。俺もお前にパンをやる。あいつらの父親は、あいつらに飲み物をやる。俺もそうする」
「ムザ、俺はお前の父親ではないかもしれない。だが、お前をそのまま放っておくこともしない。それは、同じ愛情の裏にある、言葉の遊びにすぎないんだ」
「……だから、お前は俺をお父さんとは呼べないかもしれないが、俺はお前の前に立っている」
ムザは、日の光の下でそう語る叔父を見て、目をうるませることしかできなかった。
ムザは感動したわけではなかった。ただ、叔父が、父親という呼び名よりも大きな存在だと感じただけだった。ラベルのない、大切な責任なのだと。
ムザは叔父を抱きしめ、外套の陰に顔をうずめた。ジョルダはただ微笑んで、その子の頭を撫でた。
ジョルダは、昔の記憶からはっと我に返った。気づかないうちに、寺院の石段の前に着いていた。二人は一緒に何百段もの階段を登った。ここから、村の景色を見渡すことができた。
そして、寺院の大きな前庭の前まで来たとき、ジョルダははっとした。黒い制服に外套をまとった男と、その胸にある記章に、こう書かれていたのだ……
「ジョルダ、やっと来たな。中央の監察官が、皆が集まるのを待っておられる」




