第三話 金平糖
トヨ婆さまは、花畑のいちばん広い区画にいた。
腰を曲げて、柄杓で一輪ずつ水をやっている。
村長の畝は、花の数がほかの家の倍ある。
「おや。葉山の末やないか」
「はい」
「今日も水やりかのう」
「はい」
婆さまはあたしを名前で呼ばない。
村で名前を呼ばれない娘は、あたしだけだ。
「トヨ婆さま」
「なんじゃ」
「この村の女の人は、どうして部屋に男の人を入れないといけないんですか」
柄杓は止まらなかった。
「入れんといけんことはない。入れたら、気持ちがええだけよ」
「それだけ?」
「それだけでは足りんか」
「……うん」
「正直じゃのう。お前は昔から、そこだけは正直じゃ」
婆さまは畝の端に腰を下ろした。
膝の関節が、木の鳴るような音を立てる。
「村が続くためじゃ」
「続く」
「続きさえすればええ。途中のことは、わしらにはどうでもええのよ」
*
姉はひと月、毎晩男を入れている。
母はもっと長い。
あたしが覚えているより、ずっと前から。
それなのに、この村で腹の大きい女を、あたしは一度も見ていない。
見ていないのに、子どもは増える。
去年、蓮見の分家に一人増えた。
一昨年は、川向こうの家に。
「トヨ婆さま」
「なんじゃ」
「この村で、お腹の大きい人を見たことがないんです」
「そうかのう」
「でも、子どもは増えます」
婆さまはあたしを見なかった。
花畑のほうへ顔を向けて、目を細めただけだ。
あたしもそちらを見た。
この畑の花は枯れない。
十八年、萎れた花を抜いたことがない。
村に竈はない。
煮る匂いも、焼く匂いもしない。
女たちは朝の日のあるうちに露を飲んで、それで足りる。
あたしは、足りたことが一度もない。
「食べるか」
婆さまが袂から紙包みを出した。
金平糖が三粒。
角の欠けたのが一粒混じっている。
「ありがとうございます」
受け取って、あたしは袂の上で手を開いた。
金平糖は袖の内側に落ちて、先に入っていた銀色の箱に当たり、小さな音を立てた。
婆さまは柄杓のほうを見ていた。
「婆さまも、金平糖を食べるんですか」
「食べん。わしらには要らんもんじゃ」
「じゃあ、どうして持ってるんですか」
「持っとると、子どもが寄ってくるでのう」
「婆さまは、還らないんですか」
水が畝の外にこぼれた。
「わしの根は太すぎての。花にしてもらえんのよ」
それきり婆さまは、その話をしなかった。
「葉山の末」
「はい」
「母さんに、ようついといてやり」
「……うん」
帰りの坂で、草の中が光った。
拾うと、また銀色の箱だった。
形は前のと違う。
蓋が横へ開く。
家に戻って、床下の木箱に入れた。
数えたら、これで十一になった。
隣の家の物干しには、男物の靴下が片方だけ干してある。
雨の日も出したままで、誰も取り込まない。
*
次の朝は、声が止むのが早かった。
母の部屋の戸を開けた。
母はいない。
掛け布は昨夜の形のままで、その上に花びらが散っていた。
一面に。
枕の窪みにも、畳の目にも。
白、薄紅、黄。
数えられない。
あたしは戸口に立ったまま、母さん、と一度呼んだ。
返事の代わりに、布団の端から花びらが一枚落ちた。
「姉さん」
声が出ていなかった。
「姉さん」
姉は寝床の前まで来て、止まった。
それから膝をついて、両手で花びらをすくい上げた。
「増えた」
姉の声が震えている。
「増えた。うちの種花が、また増えた」
「姉さん」
「母さん、長かったね。やっと出せたね」
姉は花びらに顔を近づけて、笑っている。
笑いながら、目からは水が出ていた。
「なずな。手伝って。今すぐ植える。時を逃したら芽が出ない」
姉が敷布ごと花びらを包んでいるあいだに、あたしは枕のところへ手を伸ばした。
紅いのが一枚だけあった。
ほかのどれとも色が違う。
袖に落とした。
*
花畑の前には、村の女が全員いた。
誰も呼びに行っていない。
「葉山、出たんやて」
「茜さん、長かったなあ」
「あの人は十年以上やろ」
「うちのときは三年で出たわ」
「そういうのを、いま言わんでええ」
「村長」
姉は敷布を抱えたまま、頭も下げずに言った。
「葉山は務めを果たしました。種花を出しました。
もう、出ていってもいいですよね」
婆さまは敷布の中を覗き込んだ。
花びらに向かって、目を細める。
「茜はようやった」
それから姉を見た。
「お前も、末っ子も、もう村に縛られる筋合いはないのう」
姉が笑った。
村の女たちも笑った。
笑い声は、重なるほどに形が崩れていった。
あたしは輪の真ん中に立って、訊いた。
「姉さん。母さんはどこに行ったの」
姉は、こちらを見なかった。
*
畝を掘って、花びらを一枚ずつ埋めた。
埋めるのは姉がやった。
水を運ぶのは、あたしがやった。
井戸と畑のあいだを、何度も往復した。
行きは東の畦から入って、帰りは西の畦から出る。
次は北から入って、南から出る。
桶は重い。
重いから歩幅が狭い。
狭い歩幅で、あたしは畑の縁を一周した。
「なずな。もっと近くから汲めば」
「井戸は一つしかないよ」
姉は肩をすくめて、手元に戻った。
日が傾くころ、花びらは全部土の下に入った。
姉は畝の前に立ったまま、手も拭かずに、山のほうを見ている。
滝の音がする方角だ。
「姉さん。帰ろう」
姉は動かない。
「姉さん」
「……先に帰ってて」
姉は、日が落ちきるまでそこにいた。




