65 もう逃げられない
(俯瞰視点)
郊外の別荘は、思っていたよりきれいで、思っていたより寒々しかった。
荒れた屋敷ではない。むしろ手入れは行き届いている。
石造りの外壁も、玄関まわりの植え込みも、長く人が住んでいない別荘特有の荒みを見せてはいなかった。
けれど、それでも着いた瞬間にリチャードが感じたのは、安堵ではなく、閉じたものの匂いだった。
ここへ来るまでの道中、エミリーはほとんど黙っていた。
最初のうちは、泣いた。
自分がなぜこんな扱いを受けるのか分からない、と。病気の娘を静かな家へ移すだけだと言われたのに、どうして皆そんな顔をするのか、と。
その涙を、リチャードはもう前のようには受け取れなかった。
慰める言葉が出ないわけではない。
出ないことはないのに、いざ口を開こうとすると、脳裏へ割れた茶器や、本家の奥方へつかみかかる手が戻ってくる。すると喉の手前で、言葉が砂みたいに崩れてしまうのだ。
やがてエミリーは、泣くのをやめた。
そして今度は、ひどく静かになった。
その静けさも、リチャードにはもう休息には見えない。ただ、次にどちらへ傾くか分からない沈黙として、隣にあった。
別荘には、すでに人が入っていた。年配の管理人夫婦と、女中が二人。
どちらも本家の人間らしく、余計なことは言わず、必要な礼だけをきちんと取る。
リチャードに対しても、エミリーに対しても、過剰な憐れみは見せない。そのことが、かえってこの場所の本気を感じさせた。
「お部屋はこちらでございます」
女中に案内されて廊下を歩くあいだ、エミリーはまた少しずつ顔を作り直していった。
リチャードはそれを見た。
玄関を入った時には疲れた人の顔。
階段を上がるころには、少し気丈に振る舞う顔。
そして、部屋へ通される直前になると、ちょうどよく頼りない顔。
前なら、その変化は見えなかったのだろう。
今は見える。見えるのに、それをどう受け止めればいいのかまでは、まだ分からない。
リチャードにあてがわれたのは、エミリーの部屋の向かいだった。
それを見た瞬間、胸の奥がひどく重くなった。
同じ屋敷の中、同じ廊下の向かい。つまり本家は、本当に彼を監督役としてここへ置いたのだ。
慰めでも付き添いでもない。逃がさないための距離だった。
荷物を置き、使用人が下がる。
扉が閉まると、別荘の静けさが急に濃くなった。首都の屋敷の音とは違う。
外の馬車も、人の出入りも、どこか遠い。風が窓をかすめる音だけが、やけにはっきり聞こえる。
リチャードは椅子へ腰を下ろし、初めて深く息を吐いた。
疲れていた。
数日の出来事が一気に押し寄せてきたみたいに、身体の内側が重い。
婚約解消。ビアホールでの失態。本家の応接間で見た暴れ方。
そして、この屋敷。
全部がまだひとつにつながらずに胸の中でざらついている。
けれど、そのざらつきの正体だけは少しずつ分かってきていた。
見なくてよいものを、もう見てしまったのだ。
ノックがしたのは、その少しあとだった。
エミリーだった。ドアを開けると、彼女は扉の前に立っていた。
部屋へ通された時より少しだけ顔色が悪く見える。
いや、悪く見せているのかもしれないと、もう先に思ってしまう。
「……どうしたんだ」
そう聞く声が、自分でもよそよそしいと分かった。
エミリーは、それを聞いて目を伏せた。
「ひとりでいるの、少し……落ち着かなくて」
その言い方が、あまりにも前と同じだったので、リチャードの胸の内で何かが小さく軋んだ。
ひとりでいるのが嫌。心細い。少しだけ。
全部、前から聞いてきた言葉だ。
でも今は、その言葉の裏に、別のものがもう見えてしまっている。
「今日は、もう休んだほうがいい」
そう言うと、エミリーは顔を上げた。
驚いたような顔だった。
たぶん、彼がすぐ部屋へ入れると思っていたのだろう。あるいは、少なくとも廊下で少しは話を聞くと思っていたのかもしれない。
「でも」
「疲れているだろう」
リチャードは続けた。
「僕もだ」
言ってしまってから、自分で少し驚いた。
――僕もだ。
今まで、エミリーの前で自分の疲れを口にしたことが、あまりなかった気がするからだ。
エミリーの目が、そこで少しだけ暗くなった。
「……わたくしのせいで?」
その問いに、リチャードはすぐ答えられなかった。
せい、という言い方をされると、また話がおかしな方向に行く気がした。
誰が悪いかを今すぐ決めたいわけではない。けれど、だからといって、何でもないようにも言えない。
「そういう言い方はしたくない」
やっとそう答えると、エミリーはじっと彼を見た。
その目つきが、ほんのわずかに変わる。傷ついた人の目というより、こちらの返答を測る目だった。
「ねえ、リチャード」
声は静かだった。
「あなた、わたくしが怖いの?」
その一言に、リチャードの背中がひやりとした。
怖い。そうなのだろうか。
認めたくなかった。
認めたくないのに、扉の向こうへ入れてしまったら何が起きるか分からないという感じが、たしかにそこにあった。
彼が黙ったままなのを見て、エミリーの口元が少しだけ引きつった。
「……やっぱり」
その言い方は、泣く人のものに聞こえた。
けれど、泣き出すより先に、別のものが乗る。
「皆そうなのね」
声が低くなる。
「具合が悪い時は優しくして、でも少しでも自分たちが嫌な目を見たら、急にそんな顔をするの」
リチャードは思わず眉を寄せた。
「エミリー」
「何?」
「今のは、そういう話じゃない」
「そういう話よ!」
声が一気にひっくり返る。
扉の向こうの静かな廊下へ、その高い声が鋭く散った。
「だってあなた、いまわたくしを部屋へ入れないじゃない! 今までなら、そんなことなさらなかった!」
その通りだった。
前なら、入れていただろう。座らせて、茶でも頼んで、疲れているなら休んだほうがいいとやわらかく言っていたかもしれない。
けれど、前なら見ていなかったものを、いまは見てしまっている。
「それは」
リチャードは言いかけて、止まる。
どう説明すればいいのか分からない。
君を疑っている、とはまだ言い切れない。でも、何も疑っていないふりももうできない。
「それは? 何?」
エミリーが一歩、近づく。
大きな動きではない。
なのに、その一歩に、リチャードは反射で半歩だけ下がった。
その瞬間、エミリーの顔が変わった。
今までの怒りとも違う。何かを確認した者の顔だった。
「……本当に、わたくしが怖いのね」
声が急に低くなる。
その低さのほうが、さっきの高い声よりずっとぞっとした。
リチャードは、初めてはっきり思った。
――この人は、弱いだけではない。
そして、自分は今まで、それを見ないことで優しいつもりでいたのだ。
廊下の向こうで、女中の気配が動いた。声が聞こえたのだろう。
それだけで、エミリーはまた別の顔へ戻った。
「ごめんなさい」
急に、ひどく静かな声で言う。
「わたくし、少し疲れているみたい」
その戻り方を見て、リチャードはもう何も言えなかった。
ついさっきまでの怒りも、低い声も、半歩下がった彼を見て浮かんだ顔も、全部もうなかったことみたいに、彼女は弱々しく目を伏せている。
そしてその切り替わりが、今の彼には何より怖かった。
「……部屋へ戻ったほうがいい」
ようやくそれだけ言うと、エミリーは小さく頷いた。
「ええ」
でも、すぐには動かない。数秒だけ、その場に立っている。
まるで、もう一言何か優しいことを言わせるための間みたいに。
リチャードはそれを待たなかった。
「おやすみ」
それだけ言って、扉を閉めた。
閉めたあとで、自分の手が少し震えているのに気づく。
そこまで激しいことが起きたわけではない。物を投げられたわけでもない。掴みかかられたわけでもない。
それなのに、さっき本家の応接間で見た暴れ方より、いま廊下で見た切り替わりのほうが、ひどく堪えた。
扉の外の気配は、やがて遠ざかっていった。
それでもリチャードはしばらく動けなかった。
向かいの部屋に、エミリーがいる。しばらく、同じ屋敷で、同じ廊下の向かいに。
それも、いつまでなのか――わからない。
ようやく、その現実がゆっくりと彼の胸の中へと落ちてくる。
――こんな人と、僕は一緒にいなくてはならないのか。
その思いは、冷たく、重く、――どこにも逃げ場がなかった。




