66 今度は、きちんと
春が来た。
ようやく、ほんとうに来たのだと思えたのは、庭の薔薇の新芽よりも先に、家の中の空気が変わったからだった。
誰もぴりついていない朝。呼び鈴の音に胸がざわつかない昼。
夕方になっても、次は何が起こるのだろうと身構えなくてよいこと。
そんなことが、こんなにも人を楽にするのだと、私は少し遅れて知った。
グランヴィル家のことは、もう社交の中心から外れつつあった。
噂は完全には消えない。
ああいうものは、たぶんきれいには消えないのだろう。けれど、面白がって口にされる段はもう過ぎていた。
皆、それぞれ“そういうことがあったらしい”という輪郭だけを残して、次の話題へ移っていく。
エミリーは街から消えた。リチャードもまた、ほとんど姿を見せなくなった。
ヘレン夫人からは、その後もう一度だけ短い手紙が届いた。
――正式な離婚の話を進めるつもりである。
――今は実家で静かにしている。
――そして最後に、イブリン嬢の今後が穏やかであることを願う。
、とあった。
その文面はやはり簡潔で、余計な感傷はなかった。
けれど、最初の謝罪の時より、少しだけ呼吸がしやすくなった人の文字に見えた。
私はその手紙を読んだ時、何とも言えない気持ちになった。
気の毒だと簡単には言いたくない。
それでも、ようやくあの人も自分の場所を変えたのだと思うと、胸の奥のどこかが静かに動いた。
「どうかなさいまして?」
メアリにそう聞かれて、私は首を振った。
「いいえ。少し、昔のことを思っただけ」
そして、ほんとうにそれだけだった。もう、その“昔”に引き戻される感じはない。
◇
午後になると、アーサーが来た。
今日の彼は、病院のついで、という顔ではなかった。もちろん本人はそう言い張るだろうけれど、もう家の者は誰も信じていない。
玄関でジョン兄様が最初に見つけて、「あ、また来た」と言ったせいで、アーサーは開口一番「また、とは何ですか」と笑っていた。
その声を聞くだけで、少し気持ちがほどける。
私は居間にいて、本を閉じるふりをしながら、そのやりとりに耳を澄ませていた。
すると、キャサリン姉様が通りがかりに私を見て、何でもない顔で言われる。
「今日は、あなたに用なのではなくて?」
「姉様」
「何かしら」
「そういうことを、そんな普通のお顔でおっしゃらないでくださいませ」
姉様は口元だけで笑われた。
「だって本当でしょう?」
その本当が、まだ少し照れくさい。
少しすると、アーサーは居間へ通された。
入ってきた時、彼はいつも通りに軽かった。軽いのに、浮ついてはいない。そこがこの人の不思議なところだ。
「ごきげんよう、イブリン嬢」
「ごきげんよう、アーサー様」
「今日は難しい本、読んでませんね」
いきなりそう言うので、私は思わず笑った。
「どうしてそうお分かりになるの」
「眉が寄ってませんから」
そう返されると、何だかもう降参した気持ちになる。
お母様が少し離れた席からそのやりとりをご覧になっていて、しばらくしてから「わたくしはハロルドに用がありますので」と、いかにもわざとらしく席を外された。
キャサリン姉様も、通りがけに本を一冊取り上げて、「これはあとで返しますわね」と言って出ていく。
ジョン兄様だけは最後まで残ろうとして、ハロルド兄様に無言で襟首を引かれていた。
「何で僕だけ」
「お前がいると騒がしい」
「ひどくない?」
「ひどくない」
扉が閉まって、ようやく部屋が静かになった。
私はその静けさに少しだけくすぐったくなる。そして彼も珍しく最初の一言が遅れた。
「……すみません」
「何が、でございましょう」
「いや、皆さんがこういう動きをなさると、僕まで変に緊張するんです」
その正直さがおかしくて、私はまた笑った。
「アーサー様でも、緊張なさるのね」
「しますよ。僕だって人間です」
「そうですわね」
「疑ってました?」
「少しだけ」
「ひどいなあ」
そんなふうに笑い合っていられることが、今はただありがたかった。
前なら、こういう何でもない会話の途中で、誰かの体調だの予定だの、別の都合が割り込んできた。相手の言葉より先に、別の気配へ耳を立てなければならない時間があった。
でも今は違う。誰も割り込んでこない。いま話している相手だけを見ていていい。
そのことが、ひどく新鮮だった。
アーサーは少しだけ真面目な顔になって、テーブルの上のティーカップを見た。
「ようやく、ちゃんと落ち着きましたね」
私はその言い方に、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「……大丈夫ですか」
「はい」
今度のその問いには、変な重さがない。答えを決めて待つような聞き方でもなかった。
ただ、確かめるための声だった。
「もう、だいぶ」
そう言うと、アーサーは頷いた。
「それならよかった」
それだけだった。
それだけなのに、その声は胸の奥にやわらかく落ちていく。
しばらくして、彼は少しためらうように言った。
「ひとつ、お伺いしても?」
「どうぞ」
「今度は、きちんとお茶に誘ってもいいですか」
私は、一瞬だけその意味を取り損ねた。
今度は。きちんと。
そこまで来てから、ようやく分かる。
あの日、エミリーに“お茶をねだられた”ことを、この人は知っている。
知っていて、そのうえで、こんな言い方をするのだ。
私は思わず、顔を上げた。アーサーは笑っていた。
軽くではなく、少しだけ照れくさそうに。
「もちろん、断っていただいても構いません」
「それは、あまりよくない聞き方ですわ」
「え?」
「そうおっしゃると、こちらが気を遣ってしまうでしょう」
するとアーサーは、ほんの少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「なるほど」
「ええ」
「では、言い直します」
彼は姿勢を正した。そういうところが可笑しいくらい律儀だ。
「イブリン嬢。今度、僕とお茶に行きませんか? 今度は、誰にも邪魔をされないところで」
その言い方が、あまりにもまっすぐで、少しだけ胸が熱くなった。
私は、少しだけ間を置いた。
わざとではない。ただ、ちゃんと自分の気持ちを確かめたかったのだ。
怖くはなかった。無理もなかった。
ただ、少しくすぐったくて、少し嬉しい。
「ええ」
そう答えた自分の声は、思ったより落ち着いていた。
「喜んで」
アーサーは、その返事を聞いて、心からほっとしたような顔をした。
「よかった」
「何が、でございましょう」
「断られたら、たぶん今日は病院に戻っても使いものにならないので」
「そういうことを正直に言ってしまうのね」
「あなたの前では、わりと」
その一言に、また少し笑ってしまう。
窓の外では、春の光が庭に落ちていた。
明るすぎず、やわらかくて、少し風がある。新しい葉が光を受けて揺れるたび、部屋の中の影も静かに揺れた。
私は、その揺れる影を見ながら思う。
婚約は壊れた。怖い思いもした。
気味の悪いものを、たくさん見た。
でも、その全部のあとで、こうしてまた穏やかな午後が来るのだ。
家族がいて、笑い声があって、ちゃんと人を選び直せる。
それで十分だと思えた。
扉の外では、たぶんまだジョン兄様が何か言いたくてうずうずしているのだろう。ハロルド兄様に止められている気配が、かすかにする。
キャサリン姉様は、あとで絶対に“どうでしたの?”と聞いてくるに違いない。
お母様は何もおっしゃらずに、でも少しだけ嬉しそうな顔をなさるだろう。
そんな先のことまで、もう想像できる。
私はカップへ手を伸ばした。
今度のお茶は、自分で選んで、自分で受けるお茶だ。
それだけで、前とはまるで違う。
春は、たぶんこういうふうに来るのだろう。
大きな音もなく、でも確かに、前とは違う空気を連れて。
私はその新しい空気を、今度はちゃんと、自分のものとして吸い込んだ。
END




