64 怪物の消滅
あれから、少し時間が過ぎた。
長いようでいて、実際にはほんの数週間ほどだったのだと思う。けれど、毎日の空気が変わる時というのは、日付よりも体感のほうが先に先へ進んでしまうものらしい。
バーナード様は、再び留学先へと戻った。
戻る前の日、キャサリン姉様は玄関先まで見送りに出て、私は少し後ろからその様子を見ていた。
姉様はふだん、人前で取り乱すような方ではないけれど、その日はさすがに、いつもより少しだけ声がやわらかかった。
「今度は、手紙だけでなく、ちゃんとお休みも取ってくださいませ」
そう言われた彼は真面目な顔で頷いた。
「努力します」
努力、なのだなあと私は思った。
そこを“取ります”と言い切らないあたりが、いかにもあの人らしい。
ジョン兄様は、そのあとで「そこは約束しなよ」と呆れていたし、ハロルド兄様には「病院の人間に、そこまでを即答で求めるな」と返されていた。
そんなやりとりまで含めて、見送りの空気はずいぶん穏やかだった。
そして、バーナード様が戻ってから間を置かず、今度はアーサー様が来るようになった。
最初は何かのついで、という顔で来たのだ。
病院からの使いの帰りに近くを通ったとか、バーナードから預かった手紙を渡すだけだとか、そんな口実ばかりだった。
けれど、二度三度と重なるうち、それが口実にすぎないことは、家の者なら誰でも分かるようになった。
といっても、彼は決して押しつけがましくなかった。
バーナード様のように、用件をきっちり並べて座る人ではない。もっと気安くて、部屋へ入ってくる時の空気が軽い。
けれど、その軽さのまま、変なところへ踏み込まない。それが不思議で――話しやすい人だ。
話しやすい、というのは、別に何か特別なことを打ち明けるという意味ではない。
むしろ逆で、何でもない話を、何でもない顔でできるのがありがたかった。
「イブリン嬢は、本を読む時に眉を寄せるんですね」
ある日、そう言われて、私は思わず顔を上げた。
「寄せておりました?」
「ええ。難しい本か、腹の立つ本か、どちらかだと思って見てました」
「前者ですわ」
「それなら安心しました。後者だと、つい感想を聞きたくなるので」
そんなふうに言われると、こちらもつい笑ってしまう。
リチャードといた頃には、こういう“何でもないやりとり”ほど難しかった気がする。
向こうが悪い顔をしていたわけではない。けれど、いつもどこかに、別の人の体調や予定や気分が割り込んできた。だから、何でもない話は何でもないまま終わらず、どこかでふっと消えてしまうことが多かったのだ。
今は違う。
アーサー様は軽い。でも、その軽さで人の話を奪わない。
そういう人なのだと、少しずつ分かってきた。
その頃には、街の中でもグランヴィル家のことが噂になっていた。
露骨な悪口ではない。そんなものは、表向きには誰も口にしない。
けれど、お茶会や買い物先の店で、ふとした拍子に名前が出る時の空気が、以前とは明らかに違っていた。
「最近、お見かけしませんわね」
と、誰かが言う。
それだけなのに、“誰を”見かけしないのかは、だいたい分かる。
エミリーだ。
あれほどあちこちで薄く姿を見せていた人が、ぴたりと街から消えた。そうなると、かえって人はその不在をよく見るのだと思う。
ジョン兄様は、外から拾ってきた話をときどき食後に落としていった。
「“あの従妹の方、最近ほんとに《《見ない》》よね”って言われてた」
「当然でしょう」
キャサリン姉様が言う。
「もう、《《見せられない》》のよ」
「でもさ、皆そこまで詳しく知らないはずなのに、何となく“あの人”で通じるの、すごいよね」
「通じてしまう程度には積み重なっていたのだろうな」
ハロルド兄様のその一言で、話はたいてい締まる。
――エミリーという怪物が、街から消えた。
口にすると乱暴だけれど、私の中ではその言い方がいちばん近かった。
怪物というのは、角や牙があるから怪物なのではない。
見慣れた顔をして、弱そうにして、少しだけ助けを求める形で近づいてきて、気づくと相手の時間も関係も食っている。そういうものも、十分に怪物なのだと、私はもう知ってしまった。
◇
そして、その不在をはっきり実感した頃、ヘレン夫人から手紙が届いた。
宛先はお母様だった。
けれど、お母様は読み終えたあと、「みんなにも聞いておいてもらったほうがいいわね」とおっしゃって、家族の前で内容を話してくださった。
手紙は、以前よりずっと短かった。余計な飾りがなく、やわらかな言葉を使っているのに、ひどく疲れている人の文だった。
今回の件で重ねて迷惑をかけたことへの謝罪。
こちらへ流れてきた不始末を、もっと早く切るべきであったことへの詫び。
そして、しばらくのあいだ実家へ身を寄せるつもりであること。
「実家に、ですか」
私は思わず聞いた。お母様は頷かれる。
「ええ。“身辺の整理のため、一時的に”と書いてあるわ」
その“身辺の整理”が、ただの気分転換ではないことは、もう誰にでも分かった。
キャサリン姉様が静かに言われる。
「決めたのね」
「そういうことでしょうね」
お母様の声にも、妙な感慨があった。
私は、手紙そのものは見ていない。けれど、お母様の読み上げる文からだけでも、ヘレン夫人の疲れが、紙の向こうからじわりと伝わってくるようだった。
あの人は、最後まであちら側の人だった。
けれど、最後の最後で、もうそこを支え続ける気はないと決めたのだ。
「……不思議ですわね」
気づけば、そう言っていた。
皆の視線がこちらへ向く。
「何がだ」
ハロルド兄様が尋ねる。
「最初は、あの方がいちばん上手に丸め込んでくる方だと思っておりましたの」
「ええ」
お母様も頷かれる。
「わたくしもよ」
「でも今は」
私は少し考えてから続ける。
「たぶん、あの方がいちばん長く疲れていたのだろうな、と」
部屋の中が、少し静かになった。ジョン兄様まで、すぐには何も言わなかった。
それから、ぽつりと言う。
「まあ、そうかもね」
その言い方は軽かったけれど、軽く流しているわけではなかった。
私も、そう思う。
ヘレン夫人は悪くなかったとは言わない。むしろ、ずっと悪いほうへ加担してきた人だ。
けれど同時に、何を預けられたのかも半端にしか知らされず、火消し役だけを押しつけられていた人でもあったのだろう。
そう思うと、あの短い謝罪文に、少しだけ別の重みが混じる。
夕方、アーサー様がふらりと顔を見せた時、お母様はその話を少しだけされた。
「ヘレン夫人は、ご実家へ戻られるそうよ」
「へえ」
彼は驚くより先に、納得した顔をした。
「それは……そうなるでしょうね」
「でしょうね、で済ませるのね」
キャサリン姉様が言うと、アーサーは少し肩をすくめる。
「だって、あの家の中で一番まともに空気読んでたの、たぶんあの人でしょう」
ジョン兄様が吹き出した。
「言うねえ」
「いや、事実では?」
そう返してから、アーサーは私を見た。
「街から怪物が一匹消えたわけですし」
その言い方に、私は少しだけ目を見開いた。
怪物。
自分の中でそう思っていた言葉を、あまりにさらりと外から言われると、かえっておかしい。
「口が悪いですわよ」
と、私は言った。
「そうですか?」
「少し」
「じゃあ訂正します。たいへん迷惑な生きものが一時的に視界からいなくなった、で」
「余計に悪いわね」
キャサリン姉様が呆れられる。
でも私は、そのやりとりのおかげで少し笑った。
笑いながら思う。
街からエミリーが消え、噂だけがうっすら残った。
ヘレン夫人は謝罪をよこし、実家へ戻った。
グランヴィル家は、表向きまだ家として立っているのだろう。けれど、もう以前の形には戻らない。
そして私のほうも、たぶんもう、以前の私には戻らない。
それでよいのだと思えた。
今はもう、ちゃんとそう思える。




