↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/66

63 ヘレン・グランヴィルの決意

 本家の屋敷を出たあとの馬車の中で、ヘレンは一言も口をきかなかった。

 エドマンドもまた、黙っていた。

 さっきまでの応接間の光景が、まだ車内へそのまま持ち込まれている気がした。

 割れた茶器。濡れた絨毯。掴みかかられた本家の奥方。頬に爪の赤い筋を残したまま、呆然と立ち尽くしていた夫。

 そして、ようやく自分が何と一緒に置かれるのかを悟った顔のリチャード。

 何もかも、もう遅かった。

 遅かったけれど、だからといって見なかったことにはならない。むしろ遅かったからこそ、見えたものは容赦がなかった。


 ◇


 屋敷へ着くころには、外はすっかり夕方の色になっていた。使用人が玄関で出迎え、いつも通りに扉を開ける。そのいつも通りが、今のヘレンにはひどく遠く見えた。

 エドマンドが先に降り、振り返る。

 以前なら、その差し出された手を受けたかもしれない。だが今日は、ヘレンは自分で馬車の段を下りた。

 ほんの小さなことだった。

 小さなことなのに、もうそれで十分だった。

 玄関へ入ると、使用人たちは何も尋ねなかった。尋ねないのは仕事として正しい。けれど、何も尋ねないからこそ、ヘレンにはかえってよかった。今夜、説明をする気力は残っていなかった。

 彼女は上着を脱ぎ、帽子を外し、女中へ渡す。


「夕食は、わたくしは要りません」

「かしこまりました」

「旦那様には、お部屋へ紅茶だけ」


 そこまで言ってから、ヘレンは少しだけエドマンドを見た。


「お話がございます」


 夫は、それでようやく顔を上げた。

 さっきからずっと、彼は半歩ほど遅れていた。本家の応接間でもそうだった。

 事の重さは理解した。だが、自分の家がもう別の家の手で組み替えられようとしていることを、どこまで本当に呑み込めているのかは怪しい。


「今か?」


 と、彼は言った。

 その一言に、ヘレンは冷静な声で返す。


「今でなければ、また曖昧になりますわ」


 エドマンドは、もうそれで何も言えなくなった。

 通されたのは、夫婦で使っていた居間ではない。ヘレンが選んだのは、小さめの書き物部屋だった。

 気持ちを落ち着けて手紙を書くための部屋で、外から見るには少し狭く、だが二人で向かい合って話すには十分な広さがある。

 ランプに火が入り、扉が閉まる。それだけで、家の中の音が遠のいた。

 エドマンドは立ったままだった。

 座るべきかどうか決めかねている顔だったが、ヘレンは彼へ椅子を勧めなかった。勧めたところで、今日の話がやわらぐわけではないからだ。


「先ほど、本家の前で言いかけたことを、ここで申し上げます」


 ヘレンは、自分では驚くほど落ち着いた声でそう言った。

 エドマンドの顔が、そこでようやく緊張を帯びる。


「……離婚のことか」

「ええ」


 ヘレンは頷いた。


「わたくしは、離婚を求めます」


 言ってしまうと、それは思ったよりすとんと胸の中へ落ちていった。

 恨みはない。ただ、長く手に持っていたものを、ようやく下へ置く時のような言い方だった。

 エドマンドはすぐには返事をしなかった。しないで、ただ彼女を見ている。

 その目の中にあるものは、怒りより先に戸惑いだった。

 婚約が壊れ、本家から後継候補を入れると告げられ、息子が連れていかれるかもしれないその日のうちに、さらに妻から離婚を切り出される。

 さすがに一度で飲み込める種類の話ではないのだろう。


「……今、言うことか」


 やっと出たのは、さっきと似た言葉だった。ヘレンはもう腹も立たなかった。


「今だからです。家の再編が始まるのでしょう。本家から人が入る。リチャードは連れていかれる。エミリーさんは隔てられる。でしたら、もう“今まで通り”ではないのですから」


 エドマンドは、そこでようやく椅子へ腰を下ろした。力が抜けたというより、立っていられなくなったように見えた。


「だからといって、離婚まで」

「だからですわ」


 ヘレンは、今度は少しだけはっきり言った。


「わたくしは何を預けられていたのかも、最初は知らされませんでした。どこまでが本家の都合で、どこからがこちらの責任になるのかも曖昧なまま、繕う役だけをさせられてきました」


 エドマンドは何か言い返しかけたが、結局黙った。

 言い返せないことは、彼にも分かっているのだろう。


「そのうえ、あなたはずっと遅かった」


 ヘレンは続ける。


「何も見ていなかったとまでは申しません。でも、いつも全てが遅かった。外聞がまずくなってから。事業が崩れそうになってから。傷が人目につく形になってから。ようやく、“ひどいな”とおっしゃいました」


 エドマンドの口元が少し固くなる。責められていると思ったのだろう。

 だがヘレンは、ここで責めるために言っているわけではなかった。もう、自分がなぜ降りるのかを、正確に言葉にしているだけだ。


「そしてリチャードは」


 そこで、彼女はほんの少し息をついた。


「あの子には、もう任せられません。何もかも」


 その一言は、夫よりも、むしろ自分の中へ落とすものだった。


 ――任せられない。


 口にしてしまえば簡単だった。簡単なのに、それを認めるまでが長かった。


「見誤り、外でばらし、しかもそこへ至るまで誰より長く甘かったのは、私たちです。私も無論誤ってしまったのです」


 ヘレンは夫を見た。


「でももう疲れました。わたくしは、あの子を“若いから”と支え続ける気にはなれません」


「……お前は」


 エドマンドが、そこで初めて少しだけ声を荒くした。

 が、それはむしろ、哀願に近かった。


「お前は息子を見捨てるのか」


 その問いに、ヘレンはしばらく黙った。

 静かな沈黙だった。だが、その短い沈黙が、かえって答えをきつくする。


「いいえ」


 やがて彼女は言った。


「見捨てるのではありません。もう、背負ってやる段ではないと言っているのです」


 エドマンドの目が揺れる。


「今日、あなたもご覧になったでしょう。《《あれ》》と向き合わされるのがどれほど恐ろしいか、ようやくリチャードは知ったはずです。遅すぎますけれど、それでも知るしかないのです。わたくしが間に入って、また見なくて済む形へ戻してやることは、もういたしません。してはいけなかったのです」


 部屋の中がしんと静まる。

 外では、遠くで馬車の音がした。屋敷のどこかでは、使用人が火の始末でもしているのだろう、かすかな物音もある。

 けれどそのどれもが、ここには届かないかの様だった。

 エドマンドは、指先で椅子の肘掛けを押さえたまま、しばらく動かなかった。


「……本家の男が入る」


 やがて、低く言う。


「それでもお前は出ていくのか」

「だからですわ」


 ヘレンは答えた。


「本家が後継を入れるなら、もうこの家は“あなたとわたくしが、息子を支えながら何とか保つ家”ではなくなるのでしょう?」

「それは、家を残すためだ」

「ええ。ですから、《《家は》》残ればよろしいのです」


 その言い方が冷たく聞こえたのか、エドマンドははっきり顔をしかめた。

 だがヘレンは、そこをやわらげなかった。


「家は残ります。本家の若い方が入り、事業も立て直すのでしょう。でしたら、もう女主人としてわたくしがこの家へ貼りついて、あなたと息子のあいだを整え、本家とのあいだも撫でつける必要はありません」

「必要は、なくとも」

「わたくしは、《《したくないのです》》」


 その一言で、ようやく全部が決まった気がした。


 ――したくないのです。


 怒りより、疲れより、恨みより、ずっとはっきりした言葉だった。

 エドマンドは、そこで本当に言葉を失った。

 たぶん彼にとって、ヘレンはずっと“必要なところでいる人”だったのだろう。

 家の中のほつれを見つけ、恥を最小限にし、息子の愚かさにもぎりぎりの見栄えを与え、面倒ごとを丸める人。いるのが当然で、いなくなると想像したことがない――妻。

 だからこそ、いま真正面から家に関することを“したくないのです”と言われると、理屈より先に戸惑う。


「今後のことは、形式に従います」


 ヘレンは言った。


「すぐに荷をまとめて出るとは申しません。けれど、話は進めます。わたくしの持参金、わたくし名義の資産、居住のこと、そのあたりも整理いたします」


 そこまで具体的に言われると、離婚という言葉が、ようやくエドマンドの中でも本当の重さを持ったらしい。


「……本気か」


 遅い、とヘレンは思った。でも声には出さなかった。


「本気です」


 ただそう答える。

 そのあと、どちらもすぐには話さなかった。

 静かな部屋だった。

 ランプの火が少し揺れて、机の上のインク壺へ光がのる。ヘレンはその小さな揺れを見ながら、自分の中の奇妙な静けさに気づいていた。

 泣きたいわけではない。怒鳴りたいわけでもない。

 ただ、ようやく終わるのだという感じがある。

 エドマンドと離れることが、嬉しいわけではない。

 長く連れ添った相手なのだ。若い頃には、この人なりの誠実さで救われたこともあった。

 だが今、その誠実さだけではもう足りないところまで来てしまった。

 遅さが家を壊し、鈍さが人を疲れさせる。その流れの中で、ヘレンだけがいつまでも整える役を続ける理由は、もうどこにも残っていなかった。

 やがて、エドマンドがひどく疲れた声で言った。


「……お前がそこまで思っていたとは、知らなかった」


 ヘレンは、その言葉を聞いて、初めて少しだけ目を伏せた。


 ――知らなかった。


 そうだろうとも思う。

 知ろうとしなかったのでは、と責めることもできる。けれどいまさら責めても仕方がない。


「でしょうね」


 彼女は静かに答えた。


「わたくしも、ここまではっきり思うとは、少し前までは知りませんでしたもの」


 それは嘘ではなかった。

 本家へ問いに行くまでは、まだ違った。

 婚約が壊れかけても、どこかで“何とか整える”側の自分が残っていた。

 けれど、知らされていなかったことを知り、押しつけられていたものの形が分かり、今日さらにそれが再編という名で切り分けられるのを見た時、ようやく自分の役目も終わってよいのだと思えたのだ。

 ヘレンは椅子から立ち上がった。

 今日はもう、それ以上話しても仕方がない。エドマンドも、いまここでこの先の手続きを決められるほど整ってはいないだろう。


「今夜はこれで失礼します」


 そう言うと、エドマンドは顔を上げたが、引き止めなかった。

 止める言葉が見つからないのかもしれないし、見つかったとしても、いまのヘレンにはもう届かないと分かったのかもしれない。

 扉へ向かう前に、彼女は一度だけ振り返った。夫はまだ椅子に座っていた。ひどく疲れた顔だった。

 頬の傷はうっすら赤いままで、その傷だけが今日という日を見える形で残している。

 ヘレンは、その顔を見ても、もう戻らなかった。

 扉を開けて外へ出ると、廊下の空気はひやりとしていた。

 でも、その冷たさは嫌ではなかった。

 長いあいだ背負っていた重さが、まだ全部なくなったわけではない。けれど少なくとも、降ろす場所までは来たのだと思えたから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なんとなく、夫人は主人公のなってたかもしれない姿なのかもなぁと思いながら読んでいました。外から来たからおかしいとは気付きつつも、本家を支えながら旦那を子をしゃんと立たせるために優先順位を譲ってきたよう…
なんかこの夫婦嫌いになれない…メタ的には完璧布陣な主人公陣営の対比なんだけど、手遅れ場当たり対処だけど今までなんとかしていた…してしまっていたという程度には無能ではなく、むしろよくある型の貴族ではあっ…
まあ息子の育て方誤ったにしろ本家に説明なくゴミ押しつけられて息子引きずり降ろされて家も乗っ取られるんじゃ、本家と血縁無い嫁のヘレンとしては勝手にやってろクソッタレとしか思えんでしょうね
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。