62 エミリーとリチャードへの措置
(俯瞰視点)
グランヴィルの本家からの呼び出しは、早かった。
書状は丁重だったが、用件だけが妙に短い。
――先日の件につき、これ以上は書面で済ませず、直接相談したい。夫妻で来てほしい。エミリーも同道させること――
ほとんどそれだけだった。
ヘレンはその文面を読んだ時点で、もう“相談”ではないと分かった。
向こうは、決めるつもりでいる。
分家の存続に関わる以上、本家にはそれを決めるだけの権限がある。
エドマンドも同じことを感じたのだろうが、口にはしなかった。
近ごろの彼はずっとそうだった。事の重さはようやく理解した。だが、その重さをどう受けるかになると、急に鈍る。
◇
馬車には、エミリーも乗せた。
向かいの席で、彼女は最初のうち何も言わなかった。淡い色の外套を膝の上へ整え、帽子の縁へ指先を置いたまま、時々だけ窓の外を見る。おとなしく、静かで、具合が悪い人にも見える。
けれどヘレンにはもう、その見え方自体が何の保証にもならなかった。
本家の屋敷へ着くと、すぐに広い応接間へ通された。
前に呼ばれた時より、ずっと表向きの部屋だった。内々の相談に使う談話室ではない。家として決めたことを告げるための部屋だ、とそれだけで分かる。
本家の当主と夫人はすでに席についていた。
挨拶は短く済んだ。茶は置かれたが、誰も手をつける気配はない。
エミリーは、ヘレンたちとは少し離れた席へ座らされた。付き添いの女中がひとり、壁際に控えている。
そこで初めて、エミリーもほんの少しだけ眉を動かした。自分が客ではなく、《《処置される側》》に置かれていると分かったのだろう。
最初に口を開いたのは、本家の当主だった。
「先日の件は聞いた」
それだけだった。
ビアホールでの失態も、若い医師たちの前での騒ぎも、リチャードが“身内で体調不安定な娘”と明言してしまったことも、すべて“先日の件”へ押し込める。
そういう家だ、とヘレンは思った。汚れたものほど、きれいな言葉で包む。
本家の奥方が続ける。
「こちらとしても、もう猶予はないと考えましたの」
猶予。
その言い方に、ヘレンは胸の内で冷たくなる。最初からそんなものはなかったのではないか。ただ、よその家へ押しつけているあいだだけ、都合よく時間が稼げていただけで。
エドマンドが低く尋ねる。
「つまり?」
本家の当主は、エミリーのほうを見なかった。
「エミリーは、こちらで引き取る」
当然の結論だった。だが、当たり前の顔で言われると、それはそれで腹が立つ。
ヘレンは黙っていた。まだ、その先があるのだろう。
案の定、当主は続けた。
「ただし、本宅へは戻さぬ」
エドマンドがはっきり顔を上げる。
「どういう意味だ」
「郊外の別荘へ移す」
淡々と当主は答えた。
「来客も限る。必要な世話はつける。静かな場所へ置く」
静かな場所。遠回しな言い方だが、意味は十分に分かる。
ヘレンは、そこで口を開いた。
「《《隔離する》》、のですわね」
本家の奥方の目が、一瞬だけ細くなった。だが否定はしなかった。
「そうお呼びになるなら、それでも」
本家の当主が言う。
「この本宅へは置けぬ」
エミリーの肩が、そこでぴくりと揺れた。
まだ言葉として自分へ向けられてはいない。けれど十分だったのだろう。
置けぬ。その一語が、もう娘ではなく厄介ごとへの言葉だからだ。
「どうして?」
細い声だった。誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって残酷だったのかもしれない。
エミリーは一度、本家の両親を見て、それからヘレンたちへ目を移した。
「どうしてわたくしが、そんなところへ行かなければならないの」
本家の当主は、ようやくそちらを向いた。
「必要だからだ」
「必要?」
エミリーの声が少し高くなる。
「わたくし、病気なのよ?」
「そういう問題ではない」
「そういう問題ですわ!」
その瞬間、空気がひっくり返った。
今までの細い声ではない。通らないと知った時の声だ。
「兄上の時だってそう! わたくしが邪魔だからって遠ざけたのに、今度もまたぁ? 今度はあの家の婚約が壊れたからって、またわたくしだけぇぇ!」
ヘレンは、その叫びを聞くに連れ、自分の心が静かになっていくのを感じた。
兄の時。邪魔だから。
本人がもう口にしている。長く伏せられていたものを、自分で暴いている。
本家の奥方が低く言う。
「……エミリー、お黙りなさい」
「いやよ!!」
その返しと同時に、卓の上の小さな花入れが飛んだ。
誰が理解するより先に、花入れは床へ落ちて割れた。水が絨毯へ散り、花がばさりと転がる。
次の瞬間には、エミリーはもう立ち上がっていた。
「みんなそう! みんな、わたくしが少し苦しいと言うだけでそんな顔をして、でも本当はわたくしがいなくなればいいと思ってる!」
付き添いの女中が慌てて腕へ触れようとしたが、エミリーはその手を振り払った。叩くというより、はっきり打ち落とす動きだった。
本家の奥方が立ち上がる。それを見た瞬間、エミリーはそちらへ向き直った。
「お母様だってそうよ! 兄上の時も、わたくしだけ押し込めてぇぇ!」
そして、掴みかかった。
袖を掴むだけではない。肩口へ爪を立て、引き寄せる。頬にでも届けば、そのまま引っかきそうな勢いだった。
奥方は息をのむ。エドマンドがようやく立ち上がり、反射的に間へ入った。
「やめろ!」
その声にも、エミリーは止まらなかった。
振り向きざまに腕を振り、今度はエドマンドの頬へ爪が走る。赤い線が一本、はっきり残った。
ヘレンはその光景を、少しも目を逸らさずに見ていた。
ああ、と思う。
《《これ》》が家の中にいたのだ。社交の場で《《ちょっと困る》》娘などではなく、追い詰められたら手が出る人間が。
《《これ》》を“品がないから”で伏せ、よそへ回し、ついには息子へ寄りかかる形で押しつけた。その果てが今、目の前に出ただけなのだ。
従僕たちが駆け込んできて、ようやくエミリーを押さえる。
それでも彼女は暴れた。身をよじり、足を打ちつけ、届くものには何でも手を伸ばす。椅子が倒れ、茶器がひとつ割れた。
「放して! いやよ! そんなところへ行くくらいなら死んだほうがまし!」
その叫びは、繊細な娘の悲鳴ではなかった。噛みつくものを探す声だった。
そして、その場にいた誰も、もう彼女を“ただ弱いだけの娘”としては見られなかった。
本家の当主が、ほとんど感情を交えずに言った。
「リチャードを」
ヘレンはその言葉で、ようやく次の段を理解した。
息子が、いる。最初から呼ぶつもりだったのだ。自分達とは別に呼び、別室待機でもさせていたのだろう。
やがて扉が開き、リチャードが入ってきた。
顔色が悪かった。
呼ばれてよくない話だと分かっていた顔ではある。だが、部屋の中の惨状を見た瞬間、彼は予想を遙かに超えたものだと気付いた。
割れた茶器、倒れた椅子、乱れた本家の奥方の袖、エドマンドの頬の赤い傷――
――そして、従僕たちに押さえられたままなお暴れようとしているエミリー。
リチャードは、その場で止まった。
「……エミリー?」
声がかすれる。
それでもエミリーは彼を見つけた。
そして一瞬だけ、見慣れた“助けを求める顔”になりかける。だが、もう遅かった。その顔へ至るまでの全部を、彼は見てしまっている。
本家の当主が冷たく告げた。
「見たな?」
リチャードは答えられなかった。
「だからお前にも責任を取ってもらう」
「何を…… ですか……」
やっと出た声は、弱かった。
「エミリーは郊外へ移す」
本家の当主は言う。
「しばらく本宅へは置けぬ」
リチャードの顔から、さらに血の気が引く。
「そして、お前も同行しろ」
その一言が、部屋へ落ちた。
リチャードは、ほんの一瞬だけ意味を取れなかったようだった。
同行――誰が? どこへ?
「……僕が?」
「お前だ」
本家の当主の声は、少しも揺れない。
「見誤ったのはお前だ。大切な婚約をひとつ壊し、外での失態を広げた。ならば今度は、《《側に置いて見ろ》》」
その言葉の意味が、じわじわとリチャードの顔へ広がっていく。
――側に置いて。
――見ろ。
つまり、今までみたいに“少し助けてやる”立場ではなく、閉じた場所で、この相手と向き合い続けろ、ということだ。
その時になって、ようやくリチャードの顔に本当の絶望が現れる。ヘレンはそれを見た。
――この子は今、初めて理解したのだ。可哀想で放っておけない人ではなく、逆らえば物を投げ、掴みかかり、場を壊す者と、これから同じ場所で暮らすのかもしれないということを。
――そして、その絶望に、もう誰も十分には同情できない。遅すぎるからだ。
「加えて」
本家の当主は続ける。
「グランヴィル家には、こちらから後継を入れる」
エドマンドが、ここでようやく本当に言葉を失った。
本家の奥方が整った声で言う。
「若い従弟をひとり、そちらへ入れます。血筋も実務も確かな者です」
「……待ってくれ」
エドマンドが絞り出す。
「待てぬ」
本家の当主は切った。
「このままでは家がもたぬ。婚約は壊れ、事業は崩れ、外では息子殿が不用意に身内の事情をばらした。ここで本家が手を打たねば、次は取り潰しの話になる」
その言葉は、脅しではなく計算だった。古い家が本当に追い詰められた時だけ出す類いの――
部屋の中は静まり返る。
その静けさの中で、ヘレンは胸の内がすうっと冷たくなっていくのを感じていた。
本家は、自分たちの都合で押しつけたものを、今度は自分たちの都合で整理する。冷たい。勝手だ。
けれど、その冷たさの中にしか、この局面を終わらせる手はないのだとも分かる。
リチャードは、まだ立ったまま動けずにいた。
エミリーは従僕に押さえられたまま、荒い呼吸で何か言いかけては、言葉にならない声を漏らしている。
誰ももう、それを“気分が悪い”姿とは呼べなかった。
そしてヘレンは、その全部を見たうえで、ようやく思った。
――ここから先は、もう本家の仕事だ。
――自分が繕う段では、ない。




