61 バーナードからの報告
バーナード様がその日のうちに再びアシュフォード家へやって来た時、私は最初、何か悪いことでも起きたのかと思った。
時刻は夕食から少し経った頃だった。
帰国の挨拶も兼ねて顔を見せ、メレディス先生やアーサー様と一緒に話をしていったばかりである。
それなのに、もう一度馬車が門前に止まり、執事が「ウェストン様が」と告げに来たのだ。
お母様とキャサリン姉様、それに私が小さな居間にいたところへ、その知らせは入った。
「ひとりで?」
キャサリン姉様が、少しだけ声を早めて問われる。
「はい。おひとりでございます」
その返事に、姉様の顔がほんの少しだけ変わった。
心配なのだろう。私にもすぐ分かった。昼間のあれこれを思えば、そうなるのも無理はない。
ジョン兄様がちょうど廊下を通りかかって、その話を聞きつけた。
「何、バーナードまた来たの」
「また来たの、ではありません」
キャサリン姉様がすぐ言われる。
「きっと何かあったのよ」
「だからそう言ってるんだけど」
そんなやりとりをしているうちに、ハロルド兄様とお父様も呼ばれ、結局また家族が揃う形になった。
通されたバーナードは、昼間よりさらに少し疲れて見えた。
長旅のあとの顔ではなく、短いあいだにもう一つ嫌なものを見てきた人の顔だった。
それでも、玄関口で最初にキャサリン姉様を見た時だけ、目が少しだけほどけた。
「急に申し訳ありません」
そう言って一礼する。
「いえ。そんなことは」
キャサリン姉様はすぐに答えられたが、そのあと一拍だけ置いて、やわらかく続けられる。
「顔色が少し悪いわ。どうなさいましたの」
その言葉に、バーナード様は一瞬だけ言葉を探すみたいに黙り――それから、きっちりした声で言う。
「こちらへ早く伝えた方がよい、と思うことがありました」
居間へ入ると、誰も軽口を叩かなかった。
ジョン兄様でさえ、今回は最初から椅子へ腰を下ろして、ちゃんと黙っていた。たぶん、それだけバーナード様の顔つきが真面目だったのだろう。
お父様が低くうながす。
「話してくれるか」
「はい」
バーナード様は座ったけど、背もたれには寄りかからなかった。
手袋をきちんと揃えて膝へ置き、それから順序立てて話し始める。
「病院の若手の集まりに行ったのは皆さんもご存じのはずです。アーサーと、私と、それから昼間こちらへ伺ったメレディス先生も、途中までは同席しておりました」
私はそこで、思わず手元を見た。
昼間聞いた“若い医師たちの集まり”が、もう次の場になってしまったのだ。
「そこで」
彼は少しだけ言葉を選んだ。
「エミリー嬢が現れました」
部屋の空気が、一度で変わる。
ジョン兄様が「うわ」と小さく言い、お母様がそちらを見もせずに「静かに」とたしなめられた。
「ひとりで?」
ハロルド兄様が尋ねる。
「最初は、そう見えました」
バーナード様は頷いた。
「店へ入り、若い医師たちの卓へ近づき、少し気分が悪いような様子を見せました」
その時点で、私は背のあたりが冷たくなった。
もう、型が同じなのだ。
少し気分が悪い。それだけで席を作らせようとする。
「ですが、相手が医師でしたので」
バーナードは続ける。
「皆、まず症状の中身を尋ねました。立ちくらみか、吐き気か、動悸か、息苦しさか。すると、エミリー嬢は少しだけ答えに詰まりました」
お父様が黙って聞いておられる。
お母様の指先は、カップの縁に触れたまま止まっていた。
「その上で、メレディス先生が、個別に若い男性が相手をする必要はない、店の者を呼ぶか馬車を回すべきだ、と」
キャサリン姉様が、そこで小さく息をつかれた。
「……彼女の手は、通じなかったのね」
「はい」
バーナードは短く答える。
「少なくとも、いつもの形では」
誰もすぐには口を挟まなかった。
その沈黙の中で、私は昼間メレディス先生が言っていたことを思い出していた。
気分が悪いという曖昧さには医者は乗らない。状況を整理し、対処へと進む。
医師である彼らの行動には、彼女のいつもの“心細いから少しだけ”を差し込む隙がない。
「それで?」
今度はお母様が促されたが、バーナード様はほんの少しためらった。
たぶん、この先がもっと嫌な内容なのだ。
「リチャード・グランヴィル氏が現れました」
ジョン兄様が今度こそ、はっきり嫌そうな顔をした。
「最悪……」
「ジョン」
キャサリン姉様の声が飛ぶ。でも、そのあとに誰も“違うでしょう”とは言わなかった。
「彼は、エミリー嬢を見つけて駆け寄りました。そして」
バーナードはそこできっぱり言った。
「店の中で、“彼女は身内ですので”と」
私は、思わず目を上げた。
それだけで十分まずいのに、彼はさらに続きがある顔をしている。
「加えて、“体調が不安定なんです”とも」
部屋が、しんと静まり返った。
今度はジョン兄様も何も言わなかった。むしろ、言葉が出ない顔をしている。
お父様が最初に口を開かれる。
「人のいる前で」
「はい」
「店の中で」
「はい」
「はっきりと」
「はい」
その確認のしかたが、お父様らしかった。
感想ではなく、まず事実を置く。けれど、その一つひとつが重い。
ハロルド兄様が「なるほど」とただそれだけ、低く言う。
でも、その“なるほど”には、もうだいぶ先まで見えた響きがあった。
「それで、店の客にも、若い医師たちにも」
ハロルド兄様は続ける。
「エミリー嬢がグランヴィル家の、しかも若い男が慌てて庇うような身内で、体調不安定だと知れたわけだ」
「はい」
バーナード様は答えた。
「店の空気は、その一言で変わりました」
私は、手元の指をそっと握った。
きっとそうだろう。
周囲の知らない人たちには、そこまでの事情は分からない。
ただ、若い女を交えた妙な場面があり、そこに若い男が飛び込んできて、あれは身内で、体調が不安定なのだとわざわざ説明した。それだけが残る。
「エミリー様は?」
と、キャサリン姉様が尋ねられる。
バーナードの目が、少しだけ固くなった。
「最初は、控えめに否定しようとしました。少し気分が悪いだけだと」
「ええ」
「ですが、誰もそこへ同情で乗らなかったものですから」
そこで彼は、短く切った。
「声が大きくなりました」
私は、その続きを聞く前から少し分かってしまった。
「“どうしてそんなふうに見るの”“少し気分が悪いだけですのに”と」
お母様が、そこで静かに目を閉じられた。
――大ごとだ。
それは、誰にでも分かった。
しかもその大ごとは、外で、知らない人の前で、若い医師たちの集まりで起きたのだ。社交界の密室の中でうっすらと済まされる類の失態ではない。
ジョン兄様が、ようやく息を吐いた。
「……うわあ」
今度の“うわあ”は、もう少し深かった。
「そこまで行ったの」
「行きました」
彼は珍しくはっきり言った。
「そして、メレディス先生が店の者に馬車を呼ばせ、リチャード氏にお連れくださいと告げて終わりました」
お父様がそこで椅子の背へ、ほんの少しだけもたれられた。
考えておられる時の顔だった。
お母様が、静かに尋ねる。
「バーナード様」
「はい」
「今のお話を、こちらへ急いで持ってきてくださったのは、どういう意味で、だったのかしら」
その問いに、彼はまっすぐ顔を上げた。
普段はもっさりとしているのに、そういう時だけ不思議に視線がぶれない。
「二つあります」
と言った。
「ひとつは、昼間こちらでお話しした“型”が、その日のうちに別の相手の前で再現されたことを、お伝えすべきだと思ったからです」
私の胸が、少しだけ動く。
――型。やっぱり、そうなのだ。
「もうひとつは」
バーナードは続ける。
「リチャード氏が、とうとう外で明言してしまったからです」
誰も口を挟まない。
「身内であること。体調が不安定であること。その二つを、人のいる場所で、しかも慌てて庇うような形で口にした以上、あの件はもうグランヴィル家の内輪の不始末では済まなくなる」
お父様が、静かに頷かれた。
「ええ」
「ですから」
バーナードは少しだけ指を組み直した。
「アシュフォード家としても、今後の扱いをもう一段はっきりさせておく必要があると考えました」
その言い方に、私は改めて、この人はやっぱり頼りになるのだと思った。
感情だけでは来ない。でも、感情がないわけでもない。
キャサリン姉様の家に関わることとして、ちゃんと真剣で、そのうえ整理して持ってくる。
お母様が、やわらかく言われる。
「ありがとう、バーナード様。すぐに知らせてくださって助かりました」
「いえ」
と答えたあとで、彼はほんの一瞬だけキャサリン姉様を見た。
姉様も、静かに頷かれる。
「本当に。これは手紙を待っていてはいけない話でしたわ」
その二人の視線が合う感じに、ジョン兄様がすかさず口を挟んだ。
「いやあ、でもさ」
「何」
キャサリン姉様の声が、すでに少し冷たい。
「バーナード、ほんとに姉様のこと好きだよね」
今度は、部屋の空気が別の意味で止まった。
「ジョン」
ハロルド兄様が低く言う。
「何だよ、本当じゃん」
「いま言うことではない」
「でも本当だし」
バーナード様は、そこで本気で困った顔をした。その困り方がまた、あまりにも真面目で、私は思わず口元を押さえた。
キャサリン姉様は頬を赤くしながらも、声だけは崩さない。
「あなた、本当に一言多いわね」
「でも助かったじゃない、ちょっと空気変わって」
ジョン兄様がそう言うと、お母様がついに小さく笑われた。
「それはそうね」
「お母様まで」
キャサリン姉様が言う。少しだけ肩の力は抜けたみたいだった。
お父様は、その小さな騒ぎを止めずに見ておられたが、やがて話を戻された。
「ともかく」
その一言で、また場が締まる。
「これでグランヴィル家は、内と外の境をさらに崩したことになる」
ハロルド兄様も、すぐに続く。
「ええ。しかも、リチャード氏自身の口で」
「あの家も、本家に対し、この件はもう一段強く返すべきでしょうね」
お母様が言われた。
「もう、“預けもの”の範囲を越えていると」
私は、その言葉を聞きながら、胸の奥にある何かがまた少し片付いていくのを感じた。
婚約解消は決まった。でも、向こうの崩れはまだ止まっていない。
むしろ、いまようやく本当の形が見え始めたところなのかもしれない。
そしてそれを、こちらはもう、見て見ぬふりでは受けない。
バーナード様の報告によって、またひとつ、何かがはっきりとした気がした。




