60 帰宅後のグランヴィル家
グランヴィル家の玄関へ馬車が着いた時、出迎えた使用人は一瞬だけ目を見開いた。
時刻が半端だったからだ。
リチャードが外へ出たのは知っている。エミリーも、少しだけ気分転換にと出た。
だが、こんなふうに二人そろって、しかも予定より妙に早い刻限に戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
先に降りたのはリチャードだった。
いつものように、急いでエミリーへ手を差し出す。
差し出した。けれど、その手つきはどこかぎこちなかった。
丁寧ではあるが、もう前のようなものではない。見ていれば分かる程度に、一拍遅れている。
エミリーはその手へ指先をのせて降りた。
顔色はたしかに白かった。少なくとも、玄関先の薄い光の下ではそう見えた。
だが、その白さが本当に体調の悪さから来ているのか、それとも帰り道の沈黙で整えられたものなのか、いまのリチャードにはもう判じがたかった。
「お帰りなさいませ」
執事が一歩進み出る。
その声を聞いて、ちょうど奥からヘレンが現れた。女主人として、いつもならもう少しあとに出てくる場面だったが、たまたま玄関近くにいたのかもしれない。
彼女はふたりの姿を見て、まず時間の早さに気づき、次にリチャードの顔へ目を留めた。
「どうしたの」
その一言は、ごく自然な問いだった。
リチャードはすぐには答えない。だがそれ自体がもう、答えみたいなものだった。
ヘレンの視線が、次にエミリーへ動く。
エミリーは、その目を受けて、すぐに少しだけ肩を落とした。
「ごめんなさい……少し、外で気分が悪くなってしまって」
よく知っている言い方だった。控えめで、弱々しくて、責めにくい。
けれどヘレンは、その声を聞いてもすぐには彼女へと寄れない。
近ごろの彼女は、エミリーの“弱り方”をそのまま受ける前に、一拍置くようになっていた。今日もまた、その一拍がある。
「どこで?」
と、先に尋ねた。
エミリーはほんのわずかにまばたきをした。
「え……少し、お茶を」
「どこで」
今度は、ヘレンのほうが言い直した。
声は強くない。でも、曖昧な答えを流さない時の声だった。
リチャードが口を開く。
「ビアホールだ」
ヘレンの眉が、わずかに寄る。
「《《ビアホール》》?」
「……たまたま、そこで」
リチャードは言いかけて、うまく続けられなかった。
たまたま見かけた。若い医者たちの集まりのそばにいた。気分が悪そうで、声が大きくなって、店中に見られた。そういうことを順に言えばいいだけなのに、口が動かない。
なぜ動かないのか、自分でも分かっていた。言葉にした瞬間、さっき見たものが本当になってしまう気がする。
ヘレンは、その息子の詰まり方を見て、これはまずいと感じた。
「中へ入りましょう」
それだけ言って、彼女は先に向きを変えた。
◇
居間へ通されると、エドマンドもほどなく入ってきた。
彼はふたりの顔を見比べ、ただごとではないと察したらしい。だが、それはヘレンとは違う。何か面倒が起きた、という種類の察し方だ。
「何があった」
エドマンドが問う。今度も、リチャードはすぐには答えられなかった。
エミリーが先に口を開きかける。
「わたくし、少し気分が――」
「リチャード、話しなさい」
ヘレンが遮った。その口調に、部屋の空気がひとつ変わる。
エミリーはそこで口を閉ざした。
エドマンドも、妻の声音の硬さに気づいたらしく、そちらを見た。
リチャードは、母の目から逃げられなかった。
「……街のビアホールで見かけたんだ」
「誰を」
「エミリーを」
その時点で、ヘレンの表情がはっきり変わった。
「ひとりで?」
「いや」
リチャードは、そこでまた言葉を切った。
喉の奥が乾く。
さっき店の中で見た光景は、まだ頭の中ではっきりしているのに、それを口にするとなると、急に輪郭が崩れる。
「若い男たちの集まりのところにいた」
やっとそれだけ言うと、エドマンドが眉をひそめた。
「集まり?」
「医者の連中だと思う」
「医者?」
今度はヘレンのほうが反応した。
リチャードは、そこで頷いた。
「たぶん、そうだ。ビアホールで、若い医者たちが何人もいて……エミリーは、その卓に近づいていた」
部屋が静かになる。
エミリーは、その沈黙の中で、少しずつ目を伏せた。
その伏せ方も、前ならリチャードには“傷ついた”ように見えたはずだ。だが今は、そこへすぐ気持ちが寄っていかない。
「わたくし、たまたま」
エミリーが小さく言う。
「知っているお顔が見えた気がして……ご挨拶だけのつもりでしたの」
それは、たしかにあり得る話だった。
だがヘレンは、今夜はそこをそのまま受けなかった。
「ご挨拶だけで、《《ビアホールで》》若い医者の卓へ?」
静かな問いだった。
エミリーは何も言わない。代わりに、少しだけ息が浅くなる。
エドマンドが、苛立ちを押さえたように言う。
「それで?」
その先を受けたのはリチャードだった。
「気分が悪いと……」
「ええ」
エミリーがすぐに添える。
「少しだけ、息が詰まってしまって」
リチャードは、その声に反射で頷きかけた。
だが、次の瞬間には止まる。
店で、医者たちがすぐに中身を聞いた場面を思い出したからだ。立ちくらみか、吐き気か、動悸か。
その時のエミリーの一拍の遅れ。答えを選んでいるように見えた目。
リチャードの沈黙を、ヘレンは見逃さなかった。
「それで、どうなったの」
リチャードは、そこでようやく母を見た。
「……店で、少し騒ぎになった」
その言葉に、エドマンドが目を上げる。
「騒ぎ?」
「大したことじゃ」
エミリーが言いかける。
「大したことだった!」
今度は、リチャードが遮る。上げてしまった声に、自分でも驚いた。――が、もう止められなかった。
「店中に見られた! 僕が……」
そこで彼は唇を引き結ぶ。
「僕が、身内だと言った…… 言ってしまったんだ……」
ヘレンは、そこで目を閉じたくなった。
言ったのだ。やはり。
しかもそういう形で。
エドマンドの顔つきも、明らかに変わる。
「……何だと」
「気分が悪そうだったから」
リチャードの声には、言い訳したい気持ちと、自分でもまずいと分かり始めている気持ちと、その両方が混じっていた。
「それで、彼女は身内で、体調が不安定で――」
「あなた、そこまで言ったの」
ヘレンが低く問う。
リチャードは、今度は頷くしかなかった。
その答えで、部屋の空気がまた一段冷えた。
外で。人のいる場所で。若い医者たちの集まりの前で。
身内だと明かし、体調が不安定だとまで言った。
それがどういう広がり方をするか、ヘレンには考えなくても分かった。
エミリーは、さすがにそれを理解したのか、顔から血の気が引いていた。
だがその白さを見ても、ヘレンの中にはもう、前みたいな憐れみは湧かなかった。
「……どうして、そんな言い方をなさったの?」
エミリーの声は、細かった。
けれど、その問いにリチャードはすぐ答えられなかった。
――どうして?
――ほんとうに、どうしてだろう。
守るつもりだった。いや、守るつもりだったのだ。
でも結局、自分はあの場で何をしたのか。
彼女を助けたのか、それとも店中へ“グランヴィル家の厄介ごと”として差し出したのか。
その区別が、ようやく遅れて胸へ落ちてくる。
「……分からない」
ぽつりと、またその言葉が出た。
エミリーが、そこで顔を上げた。その目には一瞬だけ、はっきりしたものが走った。
怯えでも悲しみでもない。相手が期待した反応を返してくれない時の、冷たい、確認する際の目だ。
それを見て、リチャードの背中がぞわりとした。
ほんの一瞬だった。けれど今度は、見間違いだと思えなかった。
ヘレンもまた、その目を見ていた。
だから彼女は、静かに立ち上がった。
「……今日はもう休みなさい」
誰に向けたともつかない言い方だったが、実際には二人ともへ向けた言葉だった。
「あなたも、エミリーさんも」
エドマンドがそれに続く。
「この話は明日に持ち越す」
明日に持ち越す。
それは、今夜これ以上はもう、上手く整えらることはできない、ということでもあった。
リチャードは立ち上がりかけたが、動きは鈍かった。
エミリーは一瞬だけ、その場で何か言おうとするように見えた。けれど、結局は何も言わずに立つ。
部屋を出ていく二人の背を見ながら、ヘレンは思った。
何かが、もう元に戻らない形でひび割れたのだ。
婚約が壊れた時とはまた別の音で。もっと内側の、もっと家に近いところで。
そしてたぶん、今夜リチャードが持ち帰ったのは、エミリーだけではない。
うまく名前のつかない、ざわりとしたものを、まるごとこの家へ持ち込んだのだ。
それは、見て見ぬふりをするには、もう少し大きすぎ――そして遅すぎた気がした。




