59 帰りの馬車
帰りの馬車の中は、驚くほど静かだった。
さっきまで店の中にはあれほど人の気配があったのに、扉が閉まり、車輪が石畳を拾いはじめた途端、急に世界が狭くなったように感じられる。
向かいの席にはエミリーが座っている。すぐそこにいるのに、まるでよく知らない誰かと同じ箱へ押し込められたみたいだった。
リチャードは、最初のうち何も言えなかった。
何かを言うべきだとは思っている。大丈夫か、とか。もう少しで屋敷だ、とか。さっきは驚いただけだ、とか。
そういう、場を取り繕う言葉はいくらでもあるはずなのに、どれも喉の手前で変な形に固まってしまう。
エミリーも黙っていた。
店を出る時には、さすがに顔色が悪く見えた。
いや、悪く見えた、という言い方しかもうできない。
実際にそうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
ただ、さっきまで店の中で見た顔と、いま馬車の中で俯いている顔とが、同じ人のものに思えなくなっている。
窓の外を流れる街の灯りが、時々、車内へ細く差し込んだ。
そのたび、エミリーの横顔が一瞬だけ浮かぶ。青白い頬。伏せた睫毛。細い顎の線。見慣れたはずの顔立ちなのに、何かが前と違って見える。
リチャードは自分の手元を見た。
さっき、彼女の腕を取ろうとして、ほんの少しためらった。その感触だけがまだ指に残っている。
なぜためらったのか。
それを考えようとすると、店の中の光景がすぐ戻ってくる。
窓際で笑っていた顔。若い男が席を立とうとした時に、わずかに落ちた肩。
そして、自分と目が合った瞬間に、すっと別の顔へ戻ったこと。
あれは、何だったのだろう。
体調がよかっただけかもしれない。
気晴らしがうまくいって、たまたま元気に見えただけかもしれない。
そう思おうとすると、今度は“少し気分が悪くて”と言った時に、医者たちがすぐ中身を聞きに来た場面がよみがえる。
立ちくらみなのか、吐き気なのか、動悸なのか。あの時、エミリーはほんのわずかに答えを探していた。
今まで、そんなところを見たことがあっただろうか。
いや、見ていたのかもしれない。ただ、自分が見なかっただけで。
「……ごめんなさい」
不意に、エミリーが言った。
馬車の中で初めての声だった。
細い、よく知っている声。けれど今のリチャードには、その聞き慣れた細ささえ、少しだけ作りものめいて聞こえた。
「何が」
そう尋ねた自分の声も、少し硬かった。
エミリーは顔を上げないまま続ける。
「変なところを、お見せしてしまったわ」
変なところ。
またその言い方だった。
リチャードは、胸の奥がざわりとするのを感じた。
変、と言ってしまえば、それで済むような気がする。少し取り乱した。少し気分が悪かった。少し人前で声が大きくなった。そういう“変”だと。
でも、あれは本当に、《《ただの変なところ》》だったのだろうか。
「どうして君は、あそこにいたんだ」
気づけば、そう聞いていた。
エミリーの肩がわずかに揺れる。
「少し、外へ出たくなったの」
「ひとりで?」
「ええ……」
「それで、あの人たちのところへ?」
そこでエミリーは、初めて顔を上げた。その目には、すぐ泣き出しそうな湿り気があった。
けれどリチャードは、その湿り気を見てすぐに手を伸ばす気になれなかった。
「偶然なの」
エミリーは言った。
「たまたま、お見かけして。知っている方のお顔もあった気がして…… 少しだけ、ご挨拶をと思っただけなの」
その説明は、嘘ではないのかもしれない。
――たまたま見た。
――少しだけ挨拶を。
それ自体は、たしかにあり得る。
なのに、その“少しだけ”が、いまのリチャードにはひどく遠く聞こえた。
全部が《《少しだけ》》、なのだ。
少し気分が悪い。少し心細い。少し話したい。少し休みたい。少し挨拶を。
その積み重ねのあとで、気づけば周りの人間が席を作り、時間を割き、気をつかっている。
「リチャード」
エミリーが、今度は少しはっきりした声で呼んだ。
リチャードは顔を上げる。
「怒っているの?」
その問いに、彼はすぐ答えられなかった。怒っている、のだろうか?
分からない。腹立たしさはあった。けれど、それより先にあるのは、何か足元がずれたような感じだった。
「……分からない」
正直にそう言うと、エミリーの目が少し見開かれた。
たぶん、予想していなかったのだろう。
怒っている、と言われるのでもなく、大丈夫だ、と宥められるのでもなく、分からない、と返されることを。
「ごめんなさい」
彼女はもう一度言った。今度はさっきより小さかった。
「わたくし、ただ少し、ひとりでいるのが嫌で……」
その言い方に、また前なら簡単に流れていたかもしれない。
ひとりでいるのが嫌。それなら仕方ない。そういうふうに。
でも今は、その言葉のあとへ、さっき見た光景が勝手についてくる。
ケーキを見て嬉しそうにした顔。若い男へ向ける、軽い笑い方。席を立たれそうになった時にだけ落ちる肩。
そして何より、店の中で大きくなった声。
――どうしてそんなふうに見るの。
――少し気分が悪いだけですのに。
あの声は、リチャードの知らないエミリーの声だった。
弱々しい人の声ではなかった。何かが思い通りにならなかった時に、《《世界のほうが悪いと叫ぶ声》》に近かった。
その記憶が、いま目の前で俯いている細い肩と、うまく重ならない。
「……ねえ」
エミリーが、そっと言った。
「わたくし、もう少し静かにしていたほうがよかったのね」
リチャードはその言葉を聞いて、背のあたりがひやりとした。
もう少し静かに。
――そこなのか。
店へ行ったことでも、若い男たちへ近づいたことでもなく、騒ぎ方の加減の話なのか。
そんな考えが頭をよぎって、自分でも驚く。
「そういうことじゃない」
反射的にそう返す。だがその先が続かなかった。
何が違うのか。何をどう違うと言えばいいのか。
それをリチャードは自分自身、まだ掴めない。
エミリーは、それ以上何も言わなかった。ただ、少しずつ窓のほうへ顔を向けていく。
その横顔を見ながら、リチャードはふと思った。
綺麗だ。ずっとそう思っていた。守ってやりたくなる顔だとも。
でもいま、その綺麗さの中に、何か知らないものが混じって見える。
きれいなだけではない。弱いだけでもない。
うまく言葉にならないのに、ざわりとする。
まるで、親しいと思っていた相手の後ろに、別の輪郭がずっと立っていたことへ、ようやく気づきかけた時みたいだった。
馬車が石を大きく踏んで揺れる。その拍子に、エミリーの肩がわずかにリチャードのほうへ寄った。
前なら、すぐ手を添えていただろう。けれど今は、彼の指先は膝の上で止まったまま動かなかった。
そのことに、エミリーも気づいたのかもしれない。
ほんの一瞬だけ、彼女の目がこちらへ向いた。
その目は暗かった。弱っているというより、推し量るような暗さだった。
リチャードは、その視線を受けて、胸の奥がまたざわつくのを感じた。
ぞっとする――というほどではない。
だが、もう前のようには見られない。そういう感触だった。
そして屋敷へ着くまでのあいだ、ざわつきは一度も消えなかった。




