58 リチャードは言ってしまった
(俯瞰視点)
婚約解消が正式に決まったと告げられた時、リチャードはしばらく何も言えなかった。
父の口から出た言葉は、もう曖昧さの残らないものだった。
――アシュフォード家は婚約解消を受けた。
――話は終わった。
――今後、余計な接触は厳に慎め。
そこまで聞かされても、頭の中ではまだ、どこか別の部屋で起きている話みたいだった。
――終わった。
その一語だけが重く残るのに、どうして終わったのか、その中身のほうはまだうまく形にならない。
イブリンはもう戻らない。
自分が何かを言えば変わる段ではない。父も母もそう言っていたし、実際、もうそれは事実なのだろう。
なのに胸の内では、何かがまだ遅れていた。
◇
数日後、リチャードは街へ出ていた。
用があったわけではない。家の中にいると、父の不機嫌と母の静かな疲れと、どこかでそわそわしているエミリーの気配と、その全部が息苦しかったのだ。だからといって、どこへ行きたいわけでもない。ただ外の空気へ混じっていたかった。
その帰り道で、久しぶりに声をかけられた。
「リチャード?」
振り向くと、スティーヴン・モートンが立っていた。
学生時代からの知り合いで、気の合わない男ではない。だが近頃は、以前ほど顔を合わせていなかった。
いや、リチャードのほうが何となく遠ざけていたのかもしれない。エミリーのことで予定が崩れたり、気づけば家へ戻っていたりして、外の付き合いが薄くなっていたからだ。
スティーヴンはリチャードの顔を見るなり、少し眉を上げた。
「うわ、ひどい顔」
「会ってすぐ言うことか」
「言うよ、その顔なら」
そう言ってから、彼は少しだけ表情をやわらげた。
「一杯つきあえよ。今から帰っても、たぶんろくなこと考えないだろ」
その言い方が、妙に図星だった。
リチャードは一瞬ためらったが、結局断らなかった。
連れていかれたのは、若い男たちが集まりやすい少し大きめのビアホールだった。
ただ酒臭いだけの場所ではなく、軽食も出すし、奥には少人数で座れる仕切りのある席もある。夕方前の中途半端な時刻だったから、まだそこまで混んではいなかった。
二人は窓から少し離れた席に座る。
スティーヴンは、最初から深入りはしなかった。
婚約が駄目になったと人づてに聞いた、とだけ言う。気の毒だとか、何があったんだとか、そういうこともすぐには続けない。その距離の取り方が、今のリチャードにはありがたかった。
ビールが運ばれ、二口ほど飲んだあとで、ようやくスティーヴンが言った。
「で、実際どうなんだ」
その問いは、ずいぶん乱暴だった。だが乱暴なぶん、答えやすくもあった。
「どう、とは」
「終わったんだろ? 彼女とは」
「……終わった」
そう言うと、自分の口から出たその言葉が、ようやく少しだけ現実味を帯びた。
スティーヴンはそれ以上、慰めめいたことは言わなかった。
「そっか」
それだけだった。
それから少しのあいだ、話は別のほうへ流れた。共通の知り合いのこと。最近流行っている店のこと。ある若い弁護士が酒癖の悪さで顰蹙を買った話。そういう、どこにでもある男同士の雑談だ。
その途中で、店の奥が少しだけ賑やかになった。
視線をやると、大きな卓がいくつかつながれ、若い男たちがまとまって入ってくるところだった。服装はばらばらだが、どこか同じ匂いがある。気どりすぎず、でもだらしなくもない。笑い方に気安さがある。
「何だあれ」
リチャードが言うと、スティーヴンが振り向いた。
「ああ、たぶん病院の連中だな。若手の医者とか助手とか、そのあたり」
「医者」
「うん。誰か一時帰国したんじゃないかって話を聞いた」
リチャードはそれ以上気にしなかった。
ただ、奥の席へ向かう男たちの中に、少しもさっとした背の高い男がいるのが、なぜか一瞬だけ目に留まった。
見覚えがあるような、ないような――
けれど、思い出す前に別の人影が視界へ入ってきた。
入口の近くに、女が立っていた。
淡い色の外套。青白い顔。控えめな帽子。
――エミリーだった。
リチャードは、持っていたグラスを置きかけて、ほんの少しだけ手を止めた。
今日は出かけるなど聞いていない。
いや、近ごろは、いちいち全部を聞いているわけでもない。だが、少なくともこういう場所へ来るとは思わなかった。
エミリーは最初、辺りを見回すふうをしていた。
誰かを探しているというより、自分がどこへ入ればいちばん自然かを量るような目つきだった。
そのあと、奥の若い医者たちの席へ目が留まる。
――わずかに表情が変わった。
リチャードは、それを見た瞬間、妙な既視感を覚えた。
前にもどこかで、こんな変わり方を見た。
元気そうにしていた顔の上へ、別の顔がすっと乗る瞬間を。
エミリーは、その場でほんの一拍ためらうみたいに立ち止まり、それから奥へ向かって歩き出した。
ゆっくりと。急がず、でも迷わず。
その歩き方は、病人のものではなかった。
少なくとも、いまにも倒れそうな人の足取りではない。
スティーヴンが、リチャードの視線の先を追って、ぽつりと言った。
「え、あれ、君のところの」
リチャードは答えなかった。
エミリーは若い医者たちの卓から少し離れた場所で足を止め、ちょうどよく一人だけ外側にいた男へ、控えめな笑みを向けた。
何かを尋ねているようにも見えるし、偶然知り合いを見つけたようにも見える。声までは届かない。
けれど、男のほうが少し驚いて、それからすぐに礼儀正しく立ち上がるのが分かった。
すると、エミリーの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
ああ、とリチャードは思った。
――あれだ。
――その角度だ。
心細そうに見える位置。相手が「どうしました」と声をかけやすい程度の弱り方。
奥の卓では、ほかの若い医者たちも何人かこちらへ目を向けていた。
けれど誰も露骨には笑わないし、嫌な顔もしない。ただ、それぞれが一拍だけ様子を見ている。そういう空気だった。
その中の一人が、席を立ちかけて止まった。
もさっとした背の高い男だ。さっき目についた男だった。
その横で、別の男――茶色い髪の気安そうな男が、何か短く言った。
背の高い男は動かず、代わりに、その茶色い髪の男がエミリーのほうへ半歩出る。
リチャードは、その一連の流れを見て、胸の奥へ冷たいものがゆっくり落ちていくのを感じていた。
エミリーは、また少しだけ困ったような顔をした。
だが今度は、いつものように誰か一人へまっすぐ寄るのではなく、その卓全体へ薄く微笑む。
具合が悪いのか、道を聞きたいのか、知り合いがいたのか。そのどれにも見える曖昧な立ち方だった。
それが、かえってひどく慣れているように見えた。
「……おい」
スティーヴンが低く言った。
「《《何だ、あれ》》」
リチャードは答えられなかった。
あれが何か、自分でもまだ言葉にできなかったからだ。
ただ、またしても“元気そうな顔”があり、またしても“弱る位置”があり、しかも今度は自分ではない別の男たちの前で、それがきれいにつながっている。
そのことだけは、はっきり見えていた。
エミリーは、若い医師たちの卓のそばで立ち止まったまま、少しだけ困ったように笑っていた。
近くで見れば、その笑みはよく整っている。
強すぎず、弱すぎず、相手が「どうしました」と声をかけたくなる程度にだけ翳りを含んでいる。
けれど今、その場にいた男たちは、いつものようには動かなかった。
外側にいた若い医師が礼儀正しく椅子を引きかける。
だが、その横から一人が半歩出た。――アーサーだった。
「気分が悪いんですか」
声音は軽い。
だがそれは、気遣いというより確認だった。
エミリーは、その問いにほんの一拍だけ遅れて答える。
「ええ……少し」
「どう悪いんです」
今度は別の若い医師が聞く。
「立ちくらみ? 吐き気? 動悸?」
エミリーの目が、そこでほんのわずかに揺れた。
これまでなら、その程度の“少し”で十分だったのだろう。
少し気分が悪い、少し心細い、少し休みたい。その曖昧さのまま、相手が察して席を作り、茶を頼み、やさしい声で落ち着かせてくれる。
そういう流れに慣れていた人間の、ほんの小さな間だった。
「……少し、息が詰まるような」
そう返すと、今度はメレディスが椅子から立ち上がった。
動きはゆっくりだったが、場の空気はそれだけで変わった。
彼はエミリーの前へ出るでもなく、少し離れたところから言う。
「それなら、なおさら個別に相手をする必要はない。店の者に水を頼みましょう。休むなら、別室か馬車を」
エミリーの顔から、ふっと色が引いた。いや、引いた《《ように見えた》》。
だがその引き方もまた、先ほどまでとは違っていた。
今度のそれは“弱って見せる”色ではなく、予定が少し狂った時の白さに近かった。
「そんな、大げさなことでは」
「大げさにする必要もありません」
メレディスの声はひたすらに平板だった。
「気分が悪いなら休む。そうでないならお帰りになる。それで十分でしょう」
アーサーがそこで、いかにも場を軽くする顔で付け足す。
「こっちは医者だらけなんで、“少し気分が悪くて”だと、みんな具体的なこと聞きますよ」
その言い方に、若い医師たちのあいだにごく小さな笑いが走った。
悪意ある笑いではない。けれど、“いつものやり方”に乗らない。乗ってくれない。
エミリーはその笑いを聞いた瞬間、はっきりと顔をこわばらせた。
「わたくし、ただ少し――」
「では店の者を」
メレディスがそう言いかけた時だった。
「エミリー!」
店の入口のほうから、リチャードの声が飛んだ。
今まで動けずにいた彼も、その瞬間だけは早かった。
彼は椅子を大きく引いて立ち上がり、人を避けることも忘れたように卓のあいだを急いでこちらへ来る。
その勢いで、いくつもの視線が彼へ向いた。
ビアホールの客たちも、給仕も、若い医師たちも、入口近くの立ち飲みの男たちも。
みな、何ごとかと思って見る。
エミリーはその声を聞いた瞬間、ぱっとそちらを向く。その顔には、困惑と、それから明らかな安堵があった。
「リチャード……」
その呼び方だけで、近くの何人かが顔を見合わせる。
リチャードはエミリーの横へ来るなり、ほとんど庇うみたいに半歩前へ出た。
「失礼しました」
そう言う声は、少し上ずっていた。
「《《彼女は身内ですので》》」
その一言が、店の中へはっきり落ちた。
身内。
しかも、言い方があまりにも急で、あまりにも説明的だった。
知らない者にも、逆に“ああ、この女はこの男の関係者なのだ”と教えてしまう類の声だった。
スティーヴンが離れた席で「うわ」と口の中だけで言う。
アーサーは一瞬だけ目を閉じ、メレディスは表情を変えなかった。
だが、若い医師たちのほうでは、空気がもう変わっていた。
さっきまでは、見知らぬ婦人が少し具合悪そうに近づいてきた、というだけだった。
けれど今のリチャードの言葉で、彼女は“グランヴィル家の若い男が慌てて飛び込んでくる相手”になった。
しかも、その男は焦ったあまり、店中へ向けてそう宣言したのだ。
「グランヴィル……?」
と、誰かが小さく繰り返した。別の卓の客が、興味を隠しきれない目でリチャードを見ていた。
それだけで、もう十分だった。
店の中の視線は、いっせいに二人の関係と、その場の妙さを計り始めている。
「身内、って」
アーサーが軽く言う。
「それならなおさら、店の者に任せてお連れになったほうがいいでしょうね」
その声音は穏やかだった。
だが、逃げ道を与える言い方でもあった。ここで引けば、まだ最小限で済む。そういう逃げ道だ。
けれどリチャードは、そこで引けなかった。
彼の中では、いま起きていることが“エミリーがこの場にいる妙さ”ではなく、“エミリーが気分を悪くし、見知らぬ男たちに囲まれている”図として見えていたからだ。
「彼女は体調が不安定なんです」
気づけば、そう言っていた。
その瞬間、波のような低いざわめきが店内を走る。
――体調が不安定。
若い男が、わざわざそう補足した。
身内だ、と言い、体調が不安定だ、と言い、それでもひとりで若い医師たちの卓へ近づいていた。
事情を知らない者ほど、その組み合わせを妙だと思う。
メレディスが、ごく静かに言った。
「それなら、なおさら帰すべきです」
その一言に、リチャードはようやく口をつぐんだ。
そして、そこで初めて気づいた。店の中が、妙な静かなのに。
いや、正確にはさざめき自体は止まってはいない。けれどその向きが、もう全部こちらに向いているのだ。
エミリーもそれに気づいたらしい。
彼女は、ゆっくりとリチャードを見――次に、周囲を見た。
その目には、さっきまでの弱り方とは別の焦りがあった。
「わたくし……」
そう言いかけて、言葉が止まる。
そこへ店の者が水を運んできた。気を利かせたつもりなのだろう。
けれど、その善意さえ今は、彼女を“本当に具合の悪い客”として扱うというより、“どう扱えばよいか分からないのでひとまず水を出す”みたいな距離を含んでいた。
エミリーはグラスに手を伸ばさなかった。その代わり、少しずつ呼吸が浅くなる。肩が上がる。目が潤む。
誰かひとりがここで「まあお気の毒に」と抱え込んでくれたなら、まだいつもの形に戻れたかもしれない。
でも、いまこの場には、それをしてくれる相手がいない。
アーサーは半歩引いている。若い医師たちは関わりたくない、という顔を隠していない。
メレディスは最初から、症状と対処の位置にしか立っていない。
リチャードだけが近くにいる。けれど彼はいま、庇うより先に周囲の視線に気づいてしまっていた。
「……どうしてぇ?!」
エミリーの声が、ひっくり返った。
その一言で、何人かがはっきりと顔を上げる。
「どうして、そんなふうに見るのぉ!!」
今度は、もっと大きかった。
リチャードが「エミリー」と低く呼ぶ。だが、その呼びかけはいつものようには届かない。
「わたくし、少しぃ、気分が悪いだけ、ですのにぃぃ!!」
店の中へ、その声が散った。
静かな店ではない。もともとビールと話し声のある場所だ。
けれど今、その一声だけは、妙にくっきり響いた。
「少ぉし、休みたいと思っただけですのにぃ、どうしてそんなぁ――」
そこで、エミリーの目が、若い医師たちの卓から、バーナードのほうへ止まった。
バーナードは立っていなかった。
ただ、席に座ったまま、まっすぐこちらを見ていた。
それが、彼女にはかえって答えに見えたのかもしれない。
「あなたたち、みんな冷たいいいい!!!」
声がさらに高くなる。
「人が苦しいと言っているのよぉ! どうして、どうしてあなたたちぃ、そんな顔ができるのぉぉ!!」
その“そんな顔”という言い方が、かえって周囲を遠ざけた。
誰も彼女を気づかう顔などしていない。気づかう段など、彼女自身がもう踏み外してしまっていた。
メレディスが、ごく低く言った。
「フィンチ」
「はい」
「店の者に馬車を」
「了解」
アーサーはすぐに動いた。
それがあまりにも手早かったので、エミリーは逆に一瞬、声を失った。
馬車を呼ぶ。
つまり、この場ではもう彼女を“慰める席”ではなく、“運び出す案件”として扱われたのだ。
リチャードは、そこでようやく、本当に蒼白になった。
自分が何を言ってしまったのか。
身内だ、と。体調が不安定だ、と。しかも店中へ向けて。
今までなら、そういう説明は彼女を守るためのものだった。
なのに今は、それが全部、彼女をグランヴィル家の厄介ごととして明るみに出してしまっている。
エミリーは、目の前の展開がうまく理解できないみたいな顔で、リチャードを見た。
「リチャード……」
その呼び方には、さっきまでみたいな頼りなさが戻っていた。
でも、もう遅かった。
誰もその声に“可哀想”で乗らない。
むしろ、店の客たちは少し距離を取り、給仕は視線を伏せ、若い医師たちは見ないふりをしながら、でも全部を聞いていた。
――グランヴィル。
――身内。
――体調が不安定。
その組み合わせだけが、いやというほど残る。
メレディスが最後に言った。
「お連れなさい」
それは、診断でも忠告でもない。ただ、処置をうながすだけの声だった。
リチャードは、その言葉にようやく動いた。
だが、エミリーの腕へ手を伸ばすその動作は、前みたいに自然ではなかった。
助けるために差し出した手なのに、どこかでためらっていた。
エミリーも、そのためらいに気づいたのだろう。そこで初めて、本当に顔が歪んだ。
けれどもう、その歪みさえ、この場では誰の同情も呼ばなかった。




