6 ようやく言えた
自室へ戻ってからも、私はしばらく落ち着かなかった。
鏡の前の椅子に腰を下ろしてみても、何かを読む気にはなれないし、刺繍籠に手を伸ばす気にもなれない。
ただ、さっき応接間で口にした言葉だけが、耳の奥に残っていた。
――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの?
言ってしまった、と思う反面、ようやく言えた、という気持ちもあった。
あれを口にしたからといって、急に何かが軽くなるわけではない。
それでも、ずっと胸の内に溜めていたものに、やっと形がついたのは確かだった。
扉の外で、足音が止まる。
「イブリン、入るわよ」
キャサリン姉様の声だった。
「どうぞ」
入ってきた姉様は、私の顔を見るなり、まず大げさに慰めるようなことを言わなかった。それがありがたかった。
いま優しくされすぎたら、かえっていたたまれなくなっていたと思う。
「リチャード様はお帰りになったわ」
「そう」
「ハロルドとジョンが、きっちりお見送りしたから安心なさい」
その“きっちり”に、私は少しだけ口元をゆるめた。
姉様もそれを見て、ようやくほっとしたように息をついた。
「お父様とお母様が、下へいらっしゃいって。私もいるから」
私は立ち上がりながら、無意識にスカートの皺を撫でた。気持ちを整えるための癖みたいなものだと、自分でも分かっている。
「……ずいぶん大ごとになってしまったわね」
「なって当然よ」
姉様はあっさり言った。
「あなた、今まで黙りすぎていたのよ」
その言い方はきつくなかったけれど、私には返す言葉がなかった。
家のため。婚約者の身内の事情。穏やかに済ませるため。そんなもっともらしい理由を自分で並べて、黙ることに慣れていたのは確かだからだ。
姉様と並んで階段を下りる。
夕方の屋敷は、昼間の明るさがすっかり薄れていて、廊下の端に置かれたランプの火がやわらかく揺れていた。
その灯りを見ていると、不思議と少しだけ気持ちが静まる。
小さな居間へ入ると、お父様とお母様が先に座っていた。
ハロルド兄様は暖炉のそばに立ち、ジョン兄様は窓辺に寄りかかるようにしている。みんなの視線がいっせいに私へ向いた。
責める顔ではなかった。
気づかなくて悪かった、とでも言いたげな、静かな顔だった。
「おいで、イブリン」
お父様に促されて、私はお母様の向かいへ座った。姉様は私の隣へ腰を下ろす。
部屋の中はあたたかいはずなのに、最初のひと言がなかなか出てこない。何から話せばいいのか、自分でも少し迷ってしまった。
すると、お母様が先に口を開いた。
「今日は、応接間で聞こえた分だけでも十分でした。ただ、あれは今日だけのことではないのでしょう?」
「……はい」
自分の声が思ったよりかすれていなくて、少しだけ安心した。
「前から、何度もございました」
お父様の顔つきがわずかに変わる。
怒鳴る人ではないけれど、眉間のあたりがすっと険しくなった。
「どのくらい前からだ」
「はっきり覚えているのは、去年の冬の終わり頃からです。最初は、エミリー様がお具合を悪くなさったのなら仕方ないと思っておりました」
「で、仕方ないでは済まない回数になったわけだな」
ハロルド兄様の声は低い。私は頷いた。
「約束の日が近づくたびに、少し構えるようになってしまって……。今度は大丈夫かしら、と考えるようになりましたの」
そこまで言うと、ジョン兄様が短く息を吐いた。
「それ、もう約束になってないじゃないか」
まったくその通りだった。
でも、そう言い切ってしまうのが怖くて、私はずっと曖昧にしていたのだと思う。
「お茶会の日は、出かける直前でした。晩餐の時は、料理の支度まで済んでから。今日は劇場で……そのたびにリチャード様は、埋め合わせをするとおっしゃるのです」
お母様が静かに尋ねる。
「実際に埋め合わせはされたの?」
私は少し黙った。
考えてはみたが、かえって何も思い浮かばなかった。
「……何かしら別の日にお会いしたことはあります。でも、私のためにきちんと取り直した約束、という形では、ほとんど」
「つまり、なかったのね」
キャサリン姉様がやわらかく言った。
私はその言い方に救われた気がした。自分で“なかった”と言ってしまうより、ずっと受け止めやすかったからだ。
お父様が両手を組んだまま、しばらく黙っていた。
その沈黙のせいで、部屋の時計の音がいつもより大きく感じられる。
「イブリン」
「はい、お父様」
「お前は、エミリー嬢そのものを嫌っているのか」
私は首を横に振った。
「嫌っている、というのとも違います。正直に申し上げれば、苦手です。何を言い出すか分からないところがありますし、人によってずいぶん態度も違いますから。でも……」
私は膝の上で指先を重ねた。
「私が本当に嫌だったのは、リチャード様が、それを全部こちらへ持ち込んでくることです」
言いながら、胸の内で少しずつパズルのピースがはまっていくような気持ちになった。
いままでぼんやりした不快さに押し流されていたものが、言葉になるたび輪郭を持ちはじめる。
「エミリー様がお加減を悪くなさること自体は、私がどうこう言うことではございません。けれど、そのたびに私との約束が後になって、私がそれを当然みたいに受け入れる役目になるのは、おかしいと思うのです」
「うん」
キャサリン姉様はすぐに頷き、指を一本立てる。
「そこよ。まさにそこ。病弱な身内を案じることと、婚約者を軽く扱うことは、別の話だわ」
その言葉が、すとんと落ちた。
そうだ。私はたぶん、その二つをずっと一緒くたにされて困っていたのだ。
エミリーへの気遣いに異を唱えるのは冷たいことだ、と勝手に話をすり替えられていたことが。




